受け取り、受け止めるという面倒な作業を省略してしまうことで、重要な心の問題を置き去りにしたりしてはいないか
コミュニケーション不全の時代といわれる今、人間同士の絆、縁を取り戻し、新たな可能性を見いだしていくにはどうしたらいいのか。
私たちが正面から立ち向かわなければならない最重要課題の一つと言っていい。
その課題を解決する糸口は、これまで述べてきたそれぞれに備わる感受性いかんにある。
受け取る、受け止める力が弱ければ、そこに生ずる触発も弱く、縁や絆を作るに至らない。
しかし、受け止める力が強力でかつ、豊穣であれば、仮に発信する側の力が弱かったとしても、しっかり受け止めることによって、可能性が広がる。
一面において感受性を豊かにすることは、人生を豊かにするに同義であると言っていいだろう。
感受性を豊かにする方法は何か。
読書によって良書に触れることもその一つの手段に違いない。
私は対話こそ、最高にして最良の方法と考える。
もちろん、ネットにおけるそれではなく、対面によるリアルな対話。
ネット上の対話は言葉が持つ本来の奥深いニュアンスが伝わりにくく、感受性を養うには適していない。
事実、言葉の受け取り方にちょっとした違いで、誤解が誤解を生み、修復不可能とも思える関係にいとも簡単に陥ってしまうものだ。
私が対話を主張しつつも、ネット上での対話をしない理由はそこにある。
つまり、実際に向き合っての対話という複雑な精神の営みこそ、受け止める力、つまり感受性を豊かにし、鍛え上げる究極の方法なのである。
なぜ対話が感受性を鍛えるのかについて、もう少し考えてみたい。
感受性とはそもそもいかなるものか。
感受性は文字通り、感じ、受け取るための心の働きだ。
同様の意味を持つ言葉に、感覚、感性などがある。
しかし、これらには明確な違いがある。
感覚、感性、感受性の順で、感じる部位が身体の表面から内面へ移っていく。
感性と感受性は一般的にはほぼ同じ意味に使われことが多いが、私は受の一字があるかないかの違いから、全く別物と定義したい。
順を追って考えてみよう。
感覚は、いわゆる五感によって感じ取る刺激であって、冷たい、甘い、白いなどのいわば表層的な認識であろう。
感性は、感覚よりも感じる部分が一重深くなり、心の働きが加わる。
では、感受性とは?
さきほども述べたように、私は受の一字に注目したい。
感受性を感じ、受け取る、心の働きであるならば、感性の感じる心との差は歴然であろう。
感性を私はこう感じたとし、感受性を私はこう感じ、受け止めたと表現するなら、明らかに感受性において、心の複雑な働きを必要とするはず。
感じまでは共通している。
違いである受け止めるとは何か。
感性には自己しかないが、感受性には自己と他者の関係性があるということになる。
私はここを深く探求していく必要があると感じる。
私たちは、受け取る、受け止めることの力を失いつつあるのではないか。
また、受け取り、受け止めるという面倒な作業を省略してしまうことで、重要な心の問題を置き去りにしたりしてはいないか、について真摯に向き合う時が来ているよう思えるのである。
感受性を取り戻し、豊かにしていく方法は、繰り返すが対話しかない。
本音の、腹の底を割った対話が、組織でできていないとしたら、私たちの感受性が鈍っていないかついて、真剣に点検してみるべきだろう。
その点検の方法も唯一、対話しかない。
対話をひたすら繰り返す中で、その感覚、感性、そして感受性を、地道に磨いていくことが求められている。
