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このブログについて。「Diversity―多様性」と名付けた理由

私が、このブログを「Diversity」と名付けた理由は、最も重要な要素でありながら、創価学会の組織に最も欠けていると思われる「多様性」について、問題提起をしたかったからだ。

老若男女、職業、民族に至るまで、その多様さにおいては、本来、創価学会は、他のあらゆる組織に比べて、抜きんでて多様性に満ちた団体である。

ところが、その多様性あふれる人財群を生かすメソッドとしての多様性が皆無なのである。

つまり、せっかく構成においてベースにある多様性の価値を生かせていないどころか、むしろ殺している。

あまりにも残念であり、もったいない組織の在り方だ。

なぜ、多様性を生かすことができていないのか。

活動の一律性、組織割の柔軟性のなさ、ヒエラルキー体制によるトップダウン方式の組織運営等々……これまでここで述べてきた数々の組織的欠陥が、多様性を殺す結果となっている。

池田名誉会長はさまざまな場面、たとえば海外の講演やSGI提言、各種指導の折に、会員一人ひとりの内発性を生かした組織の在り方について、語られてきた。

しかし、残念ながら、組織はそれらを自らのことととらえ、踏み込むことなく、従来型の活動に徹してきたがゆえに、活動家の高齢化が急速に進む現場の組織は、もはや現状維持すら困難な状況にある。

創価学会に限らず、人口減少、少子超高齢社会を迎えるに当たって、考慮すべきは、かつての右肩上がりの成長などではもちろんなく(できるはずもなく)、「持続性」であり、「成熟」にある。

この二つのキーワードに共通する最低の要件こそ、「多様性――Diversity」なのではないか。

多様性は生命が永遠に生き延び続けるために、仕組んだ最高の設計図であると私は確信する。

この設計図通りの多様な生命群をはぐくんできたがゆえ、地球は奇跡の星として、存在できたのであろう。

この生命の法則であり、設計図である多様性の価値観に、創価学会の組織は真剣に向き合うべき時が来ているのではないか。

教義や会則、ご祈念の文言を変えることも大事かもしれないが、創価学会にとって、最も大事なのは、会員一人ひとりが、どのような思いでいるのかについて、誠実に寄り添っていくことにほかならない。

しかし、残念ながら、現在の創価学会に、そこに踏み込む勇気や本音はない。

組織的な建前だけが、予定調和的にこなされていくだけなのである。

組織に多様性をもたらすことができる唯一の方法は、対話である。

本音の、腹を割った、闊達で、自由な対話……。

これら対話が、今の創価学会のどこにあるか。

ない。

ゆえに多様性など、はぐくみようがないのである。

今からでも遅くない、胸襟を開いた対話と懇談を自らの意志で始めることだ。

組織はそこからしか変わっていかない。

世界の“ザダンカイ”に見る日本の30年先を行くSGIの姿に感銘

きょうの聖教新聞の1面に「世界のザダンカイ」と題するシリーズ記事が掲載されており、興味深く読みました。

舞台はアメリカの北西部に位置する大都市、シアトル。

私にとっても一度は訪れてみたいと思っているあこがれの地です。

この地におけるSGIの座談会を記者が訪問する形でリポートされているのですが、印象に残ったのはやはり会合の項目の一つにディスカッションが取り入れられていることでしょう。

記事には以下のようにあります。

続いて「間断なき挑戦の心で、最後まで戦い抜くには」とのテーマで、ディスカッションが行われた。
「3人ずつのグループに分かれてください」と声が掛かると、一斉に対話が始まった。
それぞれのグループで、活発に意見が交わされる。

これはSGIの座談会におけるごく普通の日常の光景です。

というのも、世界のザダンカイで紹介されるSGIの座談会がほぼこの形式を取り入れていることからもわかります。

私はSGIの座談会に出席したことがありませんので、経験で言うことはできませんが、これまで読んできた記事から察するに、海外SGIは、このディスカッションというグループ対話を重視しているということはまず間違いないと思われるのです。

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一方の日本はどうでしょうか。

座談会にディスカッションを取り入れている地区はごくまれでしょう。

統計をとったわけではないので、推測にすぎませんが、私の知りうる限りで、ディスカッションを日常的に取り入れているという地域をまだ聞いたことはありません。

なぜなのでしょうか。

これは私のようなしもじもの知るところではありませんが、おそらく、ディスカッションをさせたくないという意志がどこかで働いているように思えるのです。

ディスカッションとは、自ら考え、自らの意見を自らの口をもって語っていくという行為です。

一方通行ではない、双方向のやりとりです。

これを嫌うゆえに、一方通行、つまり、話す側と聞く側を常に分割する方法をとらざるをえないのでしょう。

双方向にしてしまうと、さまざまな意見が噴出して、まとまらなくなる恐れがあるから。

だから、意見を聞くような場を設けたくないというのが本音のところなのです。

*

そう思うにつけ、日本の創価学会はSGIに遅れること30年、いやもっとかもしれません。

民主主義の原点は対話です。

対等な立場による忌憚のない対話です。

そう思うにつけ、日本の創価学会にはまだ民主主義というものが根付いても育ってもいないのです。

いつ、日本はSGIのような座談会へと脱皮できるのでしょうか。

それは私にはわかりません。

ただ、不可能なことではありません。

座談会の中心者が勇気を振り絞って、「3人ずつのグループに分かれてください」との声をあげればすぐにでもできることですから。

この記事を読んで、「やってみよう」と思った人からぜひやってみてください。

全くこれまでと違った座談会になっていきますから。

間違いなく。