アーカイブ : 2012年 1月

今こそ、大胆かつ柔軟な思考の上に立って、真の人間のための宗教の在り方、組織の在り方を模索するべき時がきた

300を超える大学の名誉教授称号、600を超える名誉市民称号の授賞理由は、SGI会長の思想の卓越性にほかならない。

私たちのどれだけが、池田SGI会長が積み上げてきてた、思想を生かしきれているだろうか、求めているのだろうか。

私たちには永遠の宗教改革を進めていかなければならない使命がある。

その宗教改革とは、一宗一派の改革にとどまるものではなく、全人類的視野にみすえたものでもある。

ところが、永遠の宗教改革に欠かすことができない池田SGI会長の思想を全くと言っていいほど、学べていない。

いや、学ぼうとさえしていない。

SGI会長の思想が重要だ、重要だということは、常に叫ばれ続けてきたし、今も叫ばれている。

しかし、なぜどう大事なのか、どう咀嚼し、自己の血肉にしていくべきか、いかに実の生き方として展開していくべきか、また社会に反映していくべきかについて、語られる機会はそう多くはない。

そうした対話より、むしろ”伝達”が優先され、真の意味の”人間教育”がなされていない。

重要なのは、対話である。

一対一の膝詰めの対話である。

悩みを解決し、問題意識を掘り起こし、命を触発する、本音で語り合える熱き対話である。

これこそが人間主義の仏法の原点であろう。

そして、その対話で展開されるべき知恵は、既に池田SGI会長によって、その多くを授けられている。

語るべきである、徹して。

語り合うべきである、納得がいくまで。

真剣でかつ温かい語らいの中にしか、広宣流布前進のパワーは生まれない。

そうした対話が欠如しているとしたら、活動が形式化していることを疑うべきだ。

発せられる言葉が、伝達に終始していないか点検してみるべきだ。

今こそ、大胆かつ柔軟な思考の上に立って、真の人間のための宗教の在り方、組織の在り方を模索するべき時がきたのではないか。

これは、学会の永遠化、普遍化のための最重要課題にほかならない。

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「社会貢献と人道的競争」とは上からの打ち出しではなく、下からの自発的な意志から発するもの

私たちは自らと他者(社会)を幸福にする(広宣流布する)使命があるならば、政治(社会)の存在について、たえまなく深くとらえていくべきであろう。

それがとりわけ仏教徒にとって、決定的な意味を持つことになるのが、釈尊による「四門出遊」の故事ではないか。

王子として生まれた釈尊は、まさに何一つ不自由のない幸福を享受していた恵まれた人だった。

しかし、ある日、釈尊は城の東門を出て老人に会い、南門を出て病人に会い、西門を出て死者に会った。

無常を感じた釈尊は北門を出ると出家僧に出会い、生老病死を乗り越えるためのヒントを得、出家の意志を持つようになったというのだ。

この釈尊、つまり仏教の原点ともいうべき故事が、私たちに語りかけるものは何か。

宗教者の使命は、自らを救済するのみならず、生老病死の悩みにあえぐ、すべての人々を救っていくことであり、それはすなわち、社会を救っていくこと、社会を改革、改良していくことにほかならないということになる。

つまりは、仏教においては、釈尊の出家を決意させた原点においても、「立正」と「安国」という両輪のバランスこそ重要であることが示されているわけなのだ。

ならば、宗教者であり、仏教者である私たちは、大いに、積極的に政治と社会に、具体的な行動をもって働きかけていかなければならないことは、明白だ。

社会貢献の重要性については何度も述べてきたが、具体的に何をすればいいのか、何から始めればいいのかについては、実際のところ極めて難しい問題であろう。

難しい問題だからこそ、その必要性や重要性をどこかで感じながらも、実際に踏み出せて来なかったというのが、これまでの実情なのではないか。

とにかく何かを始めないことには何も始まらないということにおいては、確かにそうであろう。

しかし、何かすぐ行動を起こすよりも、さまざまなレベルにおいて、まずは対話から始めるべきではないか。

なぜなら、「社会貢献と人道的競争」の活動というものは、決して上からの打ち出しによるものではなく、下からの自発的な意志から発するものであるだからだ。

何をどうすべきかは、上から与えられるのではなく、すべて自分たちが決め、実行していく――これが社会貢献の本来の形なのだ。

ゆえに、どのようなレベルでもよいから、自分たちにとって、社会貢献とは何か、人道的競争とは何か、「安国」とは何か――等々について、心ゆくまで語り合うことからしか、その進むべき方向性は見えてこないのではないだろうか。

すべては対話に始まり、対話に終わる。

しかし、私たちはその始まりにすら到達していない。

まず話し合うことから始めようではないか。

そこに私たちが勇気をもって踏み出さない限り、師が示した「社会貢献と人道的競争」の理念も絵に描いた餅に終わるだろう。

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創価学会が世界宗教として飛躍するためには、宗教の開放性への試練を乗り越えなければならない

私たちは、弘教に臨んで、何を志向すべきなのか。

師は成果競争をも、数への執着をも、私たちに一切求めていない。

何を求められているのか。

ドゥ・ウェミン対談「文明の対話」でSGI会長は、次のように述べている。

池田 古今を問わず、「多様性」「開放性」「寛容性」に満ちた、文化と人間の交流こそが、人類発展の大いなる原動力です。

これからの時代は、ますます重要になってくるでしょう。

私たちの布教の在り方が、「多様性」「開放性」「寛容性」に満ちた、文化と人間の交流を基盤としているかどうか――。

師が示すこれらの要素を私たちの対話において、実現できているかを最も注意深く常に点検し、もし足りないならば、満たしていく努力をしていかなければならない。

「多様性」「開放性」「寛容性」の3つの要素のうち、「開放性」を獲得するために必要なものは何か考えてみたい。

開放性の重要性について、ハーバード大学教授のヌール・ヤーマン氏が池田SGI会長との対談「今日の世界 明日の世界」で以下のように語っている。

私は、いまこそ必要なのは、閉ざされた「宗教主義」ではなく、開かれた、健全で現代的な「世俗主義」を樹立することであると思っています。

いいかえれば、さまざまな宗教のすべての偉大な倫理的教義を尊重していこうとする、「世俗主義」であるべきなのです。

これが私のいう「ヒューマニズム」です。

それが樹立されて初めて、他の文化や宗教との共通の基盤が芽生え、対話の素地も生まれるのです。

ヤーマン氏の指摘する閉ざされた「宗教主義」が、一体どれだけの犠牲をもたらすとともに純粋な信仰心を踏みにじってきたかは、例を挙げるまでもない。

本来、人の幸福のために作った制度であるはずの宗教が、権力を握ることにより、逆に人を翻弄したり、果ては蹂躙さえする道具になり果ててしまう。

そうした繰り返される本末転倒を阻止するために、ヤーマン氏は、宗教の開放性こそがその宿命を転換する方法であると主張しているのだ。

私たちの創価学会は宗教の開放性を十分に持ち合わせているといえるだろうか。

会員同士でしっかりと心行くまで話し合ってみる必要がある。

開放性について考えるうえで、私たちが基準とすべきは、創価学会で行われる会合や協議が、基本的に公開のもとで行われても差し支えないかどうか、であろう。

もちろん、組織運営のための秘匿事項は存在しよう。

すべてをフルオープンにすべきだということではない。

私たちの活動が内、外の隔て、区別を設けてはいないかを問うてみることが重要なのだ。

簡単に言うなら、建て前と本音の差異を作ってはいけない、ということである。

さらに言えば、きれいごとをかかげながら、やましいと思うことをやってのけるようなダブルスタンダードが、微塵もあってはならないということだ。

もし仮に、会内ではこう話せるが、世間には話せない、また、外にはこう言い換えなければならないなどといった内容の話や活動が存在するのであれば、開放性があるとは決して言えない。

創価学会が世界宗教として飛躍を図っていくならば、この宗教の開放性への試練を乗り越えなければならない。

私たちはそうした重大な岐路に立たされている。

対話することだ。

腹を割って、本音で、徹して。

もし、わずかでも疑問に思い、理不尽なことが組織に存在するなら、勇気をもって声をあげていくことだ。

対話なき組織が招くものは、閉ざされた宗教主義にほかならない。

対話なき組織が招くものは、荒涼たる無気力にほかならない。

決してあきらめるべきではない。

声をあげても何も変えられないなどと、押し黙るべきではない。

すべては私たちの対話にかかっているのである。

ソフト・パワーに満ちた理想の組織を構築していくための対話が求められている。

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