アーカイブ : 2012年 2月

本来の崇高な精神を後世に伝えるための組織が、逆に、醜い欲望を醸成する場となり、修行者の心から、崇高な精神を駆逐する働きをするものとなっていた

組織というものが絶対性を求めたがる性質と傾向を宿命的に持っていることについては、これまでも何度も指摘してきた。

組織における絶対性とは、あくまで人間のための宗教組織ということを前提としているのであり、組織のための人間という観点において、その絶対性は、”絶対的”に否定されなければならないはず。

しかし、宗教組織の歴史を振り返るに、「絶対と無謬」をふりかざし、本来目的とするところの人間の幸福を踏みにじるばかりか、その人間に数知れない犠牲を強いてきたことは例を見るに枚挙にいとまがない。

なぜ、このようなあるまじき本末転倒をいたずらに重ねてきてしまったのか。

そうした過ちは宗教に限ったことではない。

SGI会長とチンギス・アイトマートフ氏による対談「大いなる魂の詩」で、アイトマートフ氏は、かつての祖国が共産主義というドグマによって民衆に絶対を強いた暗黒時代の経験を以下のように語っている。

わが国にかくも長期にわたって君臨した全体主義の悪は、とりもなおさず、人間の人格を完全に踏みにじり、人間を党、国家、そしてイデオロギーとユートピア思想に服従させたことにあります。

マルクスが理論構築し、レーニンによって確立された共産主義政府は長きにわたってツァーリズムによる農奴制から民衆を解放し、ユートピアを現実のものにするかに思われました。

しかし、イデオロギーやドグマ化し、民衆を農奴以下の存在たらしめるという悲劇を招いてしまいました。

なぜこのようなことが起こりうるのか。

SGI会長は、対談「社会と宗教」において、組織が本来の精神を保ち続けることの困難さを以下のように指摘している。

組織には権力と利益、名誉が付随し、組織における高い地位は、本来は精神的に優れた人に与えられなければならないにもかかわらず、権力欲や利欲が強く、狡知に長けた人物がこれを奪い取る事態が、しだいに多くなったからです。本来の崇高な精神を後世に伝えるための組織が、逆に、醜い欲望を醸成する場となり、修行者の心から、崇高な精神を駆逐する働きをするものとなっていたことも、認めねばなりません。

ウィルソン氏も宗教組織の抱える宿命として次のように語っている。

精神的体系という本来の目的に役立つべく生まれた組織が、かえってその目的を覆すようになることがあります。社会学者たちは、そのような過程を”目標の置換”(ゴール・ディスプレイスメント)――組織の適正な機能維持に気を取られたり、技術や手順、効用性などに関心を払うことによって、当初の宗教的な目標がぼやけてしまうこと――と呼んでいます。その結果として、組織の設立目的であった宗教的真理の純粋な本質はもはや目的とは見なされなくなります。そうなると、組織は設立当初の目的のためではなく、まったくその組織自体のためにのみ、存在するようになるでしょう。

この組織が抱える宿命的とも言うべき”目標の置換”は、よくみられるケースであろう。

私たち自身、この”目標の置換”を行っていないか、常に注意深く検討していく必要がある。

場合によっては、第三者機関を設けることで、組織の暴走を監視していく必要性も生じてこよう。

つまり、それほどに組織というものは、本来の精神を保つことが難しい傾向をもっているものなのだ。

組織の硬直化は必然の傾向ならば、それを阻む手立てを講じることはもちろん、常に厳しい監視の目を向けることが必要なのである。

間違っても、組織に対する愚痴や反発などと退けるべきではない。

そうした行為が、組織をさらに腐らせ、取り返しのつかない崩壊の道に招くことは、数々の歴史が物語っているではないか。

矛盾を矛盾のままに決して放置すべきではない。

疑問を疑問のままに絶対に蓋をすべきではない。

もし、それが信仰の名のもとに封じ込められるようなことがあれば、それは既に信仰と呼べるものではない。

恐怖による支配そのものになってしまう。

勇気を出して声をあげるべきだ。

黙っていては何も変えることはできない。

上からの変革を漫然と待つのではなく、私たち自身が主体者となって組織を変えていくという自覚に一人ひとり立つことが、今まさに重要なのだはないだろうか。

そうした思いに立った対話が、創価学会をよみがえらせ、本物の世界宗教へと導いていくのである。

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受け取り、受け止めるという面倒な作業を省略してしまうことで、重要な心の問題を置き去りにしたりしてはいないか

コミュニケーション不全の時代といわれる今、人間同士の絆、縁を取り戻し、新たな可能性を見いだしていくにはどうしたらいいのか。

私たちが正面から立ち向かわなければならない最重要課題の一つと言っていい。

その課題を解決する糸口は、これまで述べてきたそれぞれに備わる感受性いかんにある。

受け取る、受け止める力が弱ければ、そこに生ずる触発も弱く、縁や絆を作るに至らない。

しかし、受け止める力が強力でかつ、豊穣であれば、仮に発信する側の力が弱かったとしても、しっかり受け止めることによって、可能性が広がる。

一面において感受性を豊かにすることは、人生を豊かにするに同義であると言っていいだろう。

感受性を豊かにする方法は何か。

読書によって良書に触れることもその一つの手段に違いない。

私は対話こそ、最高にして最良の方法と考える。

もちろん、ネットにおけるそれではなく、対面によるリアルな対話。

ネット上の対話は言葉が持つ本来の奥深いニュアンスが伝わりにくく、感受性を養うには適していない。

事実、言葉の受け取り方にちょっとした違いで、誤解が誤解を生み、修復不可能とも思える関係にいとも簡単に陥ってしまうものだ。

私が対話を主張しつつも、ネット上での対話をしない理由はそこにある。

つまり、実際に向き合っての対話という複雑な精神の営みこそ、受け止める力、つまり感受性を豊かにし、鍛え上げる究極の方法なのである。

なぜ対話が感受性を鍛えるのかについて、もう少し考えてみたい。

感受性とはそもそもいかなるものか。

感受性は文字通り、感じ、受け取るための心の働きだ。

同様の意味を持つ言葉に、感覚、感性などがある。

しかし、これらには明確な違いがある。

感覚、感性、感受性の順で、感じる部位が身体の表面から内面へ移っていく。

感性と感受性は一般的にはほぼ同じ意味に使われことが多いが、私は受の一字があるかないかの違いから、全く別物と定義したい。

順を追って考えてみよう。

感覚は、いわゆる五感によって感じ取る刺激であって、冷たい、甘い、白いなどのいわば表層的な認識であろう。

感性は、感覚よりも感じる部分が一重深くなり、心の働きが加わる。

では、感受性とは?

さきほども述べたように、私は受の一字に注目したい。

感受性を感じ、受け取る、心の働きであるならば、感性の感じる心との差は歴然であろう。

感性を私はこう感じたとし、感受性を私はこう感じ、受け止めたと表現するなら、明らかに感受性において、心の複雑な働きを必要とするはず。

感じまでは共通している。

違いである受け止めるとは何か。

感性には自己しかないが、感受性には自己と他者の関係性があるということになる。

私はここを深く探求していく必要があると感じる。

私たちは、受け取る、受け止めることの力を失いつつあるのではないか。

また、受け取り、受け止めるという面倒な作業を省略してしまうことで、重要な心の問題を置き去りにしたりしてはいないか、について真摯に向き合う時が来ているよう思えるのである。

感受性を取り戻し、豊かにしていく方法は、繰り返すが対話しかない。

本音の、腹の底を割った対話が、組織でできていないとしたら、私たちの感受性が鈍っていないかついて、真剣に点検してみるべきだろう。

その点検の方法も唯一、対話しかない。

対話をひたすら繰り返す中で、その感覚、感性、そして感受性を、地道に磨いていくことが求められている。

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「価値創造」を名称として掲げながら、その実践なき団体に明るい未来は決して見えてこない

創価学会の名称にも掲げられている「価値創造」とは何かについて考えてみたい。

さまざまな文献に当たっていく中で、その定義を見事に表現していると思われる文言を見い出すことができた。

それはマレーシア公開大学のジーン・アブドゥラ総長による講演「未来の世代の育成のために」の中にあった(2009年10月3日付聖教新聞)。

講演のポイントを以下に示してみよう。

(1)社会貢献は自国にとどまらず、全世界に向けてされるべきである。それが世界市民としての責務であろう。

(2)私たちは世界市民として、人類に起こっているあらゆる困難や課題に目を背けるべきではない。

(3)世界の青年たちが環境保護、人権擁護、児童擁護などに使命や大義を抱くべきである。

(4)重要なことは、「私には何かできるか」と自分自身に問いかけること。

(5)世界に奉仕し未来の方向性を形成し、世界を真によりよい場所へと変えていくのは、我々次第なのだ。

世界市民として、地球規模の難題を看過せず、未来のために、今、私たちがすべきこと、できることは何かについて、模索し、実践していく。

見事に「価値創造」の本質をついている。

しかし、考えてみたい。

私たちは、マレーシアの大学総長が示した「価値創造」の行動がどれだけできているのだろうかと。

また、私たちはこの総長の言葉と思いをどれだけ深い関心と洞察をもって受け止めることができるのかと。

私が最も懸念するのは、創価学会がこれほどの海外識者からの賞賛や期待を集めていながら、本家である日本の創価学会において、平和・文化・教育活動にはほとんど無関心であるという自語相違が当たり前のようになってしまっていることだ。

そこで、かつて創価学会が一度だけ、会を挙げて社会貢献活動に乗り出した時期について振り返りつつ、将来の方向性について考えてみたい。

かつて全国の青年部によって試みられた大学校運動というものがそれだ。

この大学校運動を実際に経験したことがあるという人は、ほとんどが今は壮年部に違いない。

壮年、婦人においても会友運動という友人を増やそうという活動が行われていた。

大学校運動は、折伏ができないことの代替案として、社会に目を向けていこうという発想に基づいたものではあったが、その意義は少なくなかった。

創価学会が初めて、社会貢献という活動に本格的に取り組んだ歴史的な試みであったから。

青年部においては、カンボジア救済のために不用になったラジオを贈ろうとの趣旨の「ボイス・エイド」については一定の評価を得ることができた。

一方の各地域の独自の発案による社会貢献運動は、一部地域においては成果をみることができたものの、その多くの地域において、失敗に終わってしまった。

なぜ失敗してしまったのかについては、いまだに総括は行われていない。

しかし、今後、創価学会が同様の活動に乗り出していくならば、総括と反省、教訓を生かした次への取り組みについて考えていくべきではないか。

「価値創造」を名前として掲げながら、その実践なき団体に明るい未来は決して見えてこない。

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