本来の崇高な精神を後世に伝えるための組織が、逆に、醜い欲望を醸成する場となり、修行者の心から、崇高な精神を駆逐する働きをするものとなっていた
組織というものが絶対性を求めたがる性質と傾向を宿命的に持っていることについては、これまでも何度も指摘してきた。
組織における絶対性とは、あくまで人間のための宗教組織ということを前提としているのであり、組織のための人間という観点において、その絶対性は、”絶対的”に否定されなければならないはず。
しかし、宗教組織の歴史を振り返るに、「絶対と無謬」をふりかざし、本来目的とするところの人間の幸福を踏みにじるばかりか、その人間に数知れない犠牲を強いてきたことは例を見るに枚挙にいとまがない。
なぜ、このようなあるまじき本末転倒をいたずらに重ねてきてしまったのか。
そうした過ちは宗教に限ったことではない。
SGI会長とチンギス・アイトマートフ氏による対談「大いなる魂の詩」で、アイトマートフ氏は、かつての祖国が共産主義というドグマによって民衆に絶対を強いた暗黒時代の経験を以下のように語っている。
わが国にかくも長期にわたって君臨した全体主義の悪は、とりもなおさず、人間の人格を完全に踏みにじり、人間を党、国家、そしてイデオロギーとユートピア思想に服従させたことにあります。
マルクスが理論構築し、レーニンによって確立された共産主義政府は長きにわたってツァーリズムによる農奴制から民衆を解放し、ユートピアを現実のものにするかに思われました。
しかし、イデオロギーやドグマ化し、民衆を農奴以下の存在たらしめるという悲劇を招いてしまいました。
なぜこのようなことが起こりうるのか。
SGI会長は、対談「社会と宗教」において、組織が本来の精神を保ち続けることの困難さを以下のように指摘している。
組織には権力と利益、名誉が付随し、組織における高い地位は、本来は精神的に優れた人に与えられなければならないにもかかわらず、権力欲や利欲が強く、狡知に長けた人物がこれを奪い取る事態が、しだいに多くなったからです。本来の崇高な精神を後世に伝えるための組織が、逆に、醜い欲望を醸成する場となり、修行者の心から、崇高な精神を駆逐する働きをするものとなっていたことも、認めねばなりません。
ウィルソン氏も宗教組織の抱える宿命として次のように語っている。
精神的体系という本来の目的に役立つべく生まれた組織が、かえってその目的を覆すようになることがあります。社会学者たちは、そのような過程を”目標の置換”(ゴール・ディスプレイスメント)――組織の適正な機能維持に気を取られたり、技術や手順、効用性などに関心を払うことによって、当初の宗教的な目標がぼやけてしまうこと――と呼んでいます。その結果として、組織の設立目的であった宗教的真理の純粋な本質はもはや目的とは見なされなくなります。そうなると、組織は設立当初の目的のためではなく、まったくその組織自体のためにのみ、存在するようになるでしょう。
この組織が抱える宿命的とも言うべき”目標の置換”は、よくみられるケースであろう。
私たち自身、この”目標の置換”を行っていないか、常に注意深く検討していく必要がある。
場合によっては、第三者機関を設けることで、組織の暴走を監視していく必要性も生じてこよう。
つまり、それほどに組織というものは、本来の精神を保つことが難しい傾向をもっているものなのだ。
組織の硬直化は必然の傾向ならば、それを阻む手立てを講じることはもちろん、常に厳しい監視の目を向けることが必要なのである。
間違っても、組織に対する愚痴や反発などと退けるべきではない。
そうした行為が、組織をさらに腐らせ、取り返しのつかない崩壊の道に招くことは、数々の歴史が物語っているではないか。
矛盾を矛盾のままに決して放置すべきではない。
疑問を疑問のままに絶対に蓋をすべきではない。
もし、それが信仰の名のもとに封じ込められるようなことがあれば、それは既に信仰と呼べるものではない。
恐怖による支配そのものになってしまう。
勇気を出して声をあげるべきだ。
黙っていては何も変えることはできない。
上からの変革を漫然と待つのではなく、私たち自身が主体者となって組織を変えていくという自覚に一人ひとり立つことが、今まさに重要なのだはないだろうか。
そうした思いに立った対話が、創価学会をよみがえらせ、本物の世界宗教へと導いていくのである。
