アメリカの宗教組織は進化を繰り返しながら民衆の精神的なバックボーンとしての使命を果たしてきた

「アメリカの宗教右派」(飯山雅史著、中公新書クラレ)を興味深く読んだ。

アメリカはそもそも、ヨーロッパ大陸で弾圧を受けた信仰者たちが移住してできた国という意味で、宗教という存在は切っても切り離せない。

民族や文化における多様性と同様、宗教の世界においても、多様性に満ち、さらに言えば混沌に近い潮流がめまぐるしく変転してしてきた。

そして、それにもかかわらず、なおかつその信仰心はその多くの国民にとって、厚いままに保たれているという。

本書によると、2004年時の統計によるアメリカの宗教人口の内訳は、プロテスタント55.8%、カトリック22.0%、他のキリスト教3.9%、ユダヤ教1.9%、その他の宗教1.4%、無宗教・無所属15.0%となっている。

つまり、「私は信仰者である」と認識する人は、全体で85%にも上る。その意味では、無宗教が一般的とも言われている日本人の感覚からすると、想像できない宗教性に満ちた国ということができるだろう。

この書は、宗教組織や団体が、いかに政治に関与し、多大なる影響を与えてきたかについて、主に分析している。

わが国においては、この問題は、極めてネガティブな問題としてとらえられている側面がある。

その意味では、アメリカの9割近くが信仰者であるとするなら、ほとんどの人が政治にかかわれないことになってしまう。

そんなおかしな話があるだろうか。

そうした意味で、「結び」で結論づけられた筆者の考えには、共感を覚えた。

宗教は、分裂と対立を政治に持ち込むから、民主主義のルールになじまないという懸念は理解できるし、宗教右派が展開した攻撃的な政治運動は、その懸念を裏付けるものでもある。しかし、彼らは、あくまで世論に訴えて支持者を動員し、投票箱を通して目標の実現を図ってきたのであって、民主主義の最低のルールを踏みにじってきたわけではないことも、認識する必要がある。(「アメリカの宗教右派」242ページ)

宗教は、それぞれの教義を持ち、その教義における非寛容性ゆえに、攻撃的、過激に走る傾向が否めず、その反発からリベラルに象徴されるような世俗的傾向が世論に強まったり、逆にその反動で原理主義的考えに支持が集まったりなど、アメリカの政治と社会は振り子のような状態が続いてきた。

しかし、日本の一部に危惧する意見があるようにアメリカ総体が、狂信的に「神の国」建国に走り出すということは、歴史を振り返っても一度もない。

そこは、信仰心が薄い国といわれながらも、日本がかつて国家神道の名目の元に「一億総玉砕」を国民に強いた苦い経験があることと対照的とはいえないだろうか。

なぜ、アメリカは8割以上のキリスト教徒を抱えながら、狂信的行動に走らないのかという理由は「多様性」というキーワードにある。

合衆国憲法は、ひとつの教会による国教化を禁じた。

ゆえに、各州にさまざまな教会、教派が乱立し、それぞれ信者を増やしていった。

人種問題に絡む南北戦争という悲劇こそあったが、それも民主主義を成長させるための飛躍の機会として、アメリカはよりたくましさを増していった。

まるで生命が進化していく過程のような分裂、統合を繰り返しながら、宗教組織はしっかりとその時代時代の民衆の精神的なバックボーンとしての使命を果たし続けてきたといっていいだろう。

その意味で、アメリカの豊穣たる「多様性」に尊敬するし、今まさに私たちが直面する難題に対して、学ぶべきは少なくない。