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	<title>Diversity</title>
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	<description>Future in our hands.</description>
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		<title>組織の自浄作用に不可欠な要素は内発的精神に支えられた自己規律、自己制御の心（哲学）にある</title>
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		<pubDate>Thu, 10 May 2012 07:02:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ippei</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[信者や信徒の団体としての組織は、信者たちが、信仰を持続していくための役割を担っている。 組織は人によって、また時代によって、急激な変化を余儀なくされる。 もちろん、時代に即して、信者がより信仰を続けやすいように、より高い信仰心を獲得できるように、という意図に基づく組織の変化は必要なことであろう。 しかし、本来、人間を守るための宗教組織が、知らず知らずのうちに人間を苦しめる装置に変換してしまったという例は、歴史上、枚挙にいとまがない。 こうした宿命的とも言える“組織の暴走”を食い止め、信者に限らず、全人類の幸福のための役割を担う装置としていけるか否かは、組織を司る人々にとって、最重要課題であろう。 創価学会、SGIにおいても、もちろんその例外ではない。 いや、むしろ今や192カ国までに広がる一大宗教組織にとって、根幹、機軸を確かならしめるのはもちろんのこと、これからの不断の発展を目指した時に、システム、装置としての創価学会のあり方について深い思慮を巡らすとともに、確固たるビジョンを示していく必要がある。 システムとしての創価学会の恒久化について、池田SGI会長がこれまでに行ってきた講演、提言、識者との対談を中心に、その在り方について検討の機会を設けるべきだろう。 組織の生命線は、時代や環境の変化にを適正な形で対応し、自らをコントロールしていく装置を備えているかどうかにある。 その重要なヒントは、1991年9月に池田SGI会長が行ったハーバード大学での講演『ソフトパワーの時代と哲学』で示されている。 この講演は、創価学会を永遠普遍の存在とするための明快な組織論を、世界最高峰の英知の壇上から示したものと位置付けて差支えないだろう。 タイトルに示されているように、この講演のテーマは二つ。 「ソフトパワー」と「哲学」である。 二つのテーマの要旨は以下のようになる。 （１）ハード・パワーが“外発的”“外圧的”に人間を動かすのに対し、ソフト・パワーは人間同士の合意と納得による“内発的”な促し、エネルギーを軸とする。 （２）信仰における外面的規範や戒律は良心が本来持つ内発的な働きは逼塞させられ、堕落しマヒしてしまう。 （３）ほとんどの宗教が陥ってきたのは、制度的な側面が硬直化することによって制度が人間を拘束し、宗教本来の純粋な信仰心が失われてくるという本末転倒。 （４）ジレンマを伴う苦悩と忍耐と熟慮の中にこそ良心の内発的な働きは、善きものへと鍛え上げられ、人間を分断し、破壊する悪を、最小限度に食い止めることができる。 （５）内発的精神に支えられた自己規律、自己制御の心（哲学）が現代に必要。 宗教組織のリーダーである池田SGI会長は、宗教組織が最も陥りやすい弱点を指摘したうえで、その課題を克服する方法について明確に言及している。 つまりは、創価学会も例外なく、この弱点を抱えており、講演で示した克服への努力を模索し、努力していかなければならないことは言うまでもない。 SGI会長が示した上記5項目の宗教組織の在り方について、果たして常なる検討が加えられ、厳しい自己批正が試みられているといえるだろうか。 もし、顧みられていない、語られることがないと思う節があるなら、私たちの組織の在り方が上記で示された５項目について、精査し、点検を試みるべきであろう。 そうした地道な作業なくして、組織が自浄作用を獲得することは不可能であり、よって組織の普遍化も永遠化もあり得ないことをSGI会長は講演で示したのだということを、私たちは認識すべきだ。 にほんブログ村]]></description>
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		<title>人道的競争とは一人ひとりのソフト・パワーを生かした無償の社会貢献の実践</title>
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		<pubDate>Wed, 09 May 2012 02:32:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ippei</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[牧口初代会長が示した「人道的競争」について、考えてみたい。 牧口会長はその著書「人生地理学」において、「人道的競争」を以下のように語っている（趣旨を要約。現代表記に改めた）。 人間（人類）は歴史上、さまざまな生存競争を繰り返しながら、その営みを手にしてきた。その変遷を「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」とそれぞれ位置づけられる。 略奪や征服を目的とした軍事的競争から、人間は次第に競争の仕組みを進化させ、流血等の悲劇をもたらさなくとも可能な競争のあり方を生み出してきた。 経済的競争の時代の次に来るべきものは人道的競争である。 そしてその競争の形が野蛮であった時代は殺戮など悲劇をもたらしたが、次第に洗練され、熟成していき、最終的には利己を乗り越えた人道のための競争に至る、と牧口会長は予見する。 極めてユニークだと思われる点は、人間が洗練されるに従って、軍事→政治→経済と、その競争の枠組みは移り変わっていく一方で、競争という形はいつの時代にも変わらないということだ。 人間にとって生存競争は本能に植え付けられたものであるがゆえ、不可避。 ならば、その本能を最大限に生かし、競争がもたらす負の面ではなく、プラスの光を見い出そうと牧口会長は考えたのであろう。 人間の本質を見事に見据えた牧口会長の慧眼がもたらした卓見である。 さらに牧口会長は同著において、以下のように続けている（現代表記に改めた）。 人道的競争とは、かつて武力や権力によってしてきたことを「無形の勢力」をもって、自然に感化させることにある。 すなわち「威服」(権威をもって従わせること)の代わりに「心服」をさせることなのだ。 「無形の勢力」「威服」「心服」と難しい語句が並んでいる。 ＳＧＩ会長は、その意味合いについて、ＳＧＩ提言（２００９年）において、とても分かりやすく解説している。 このくだりなど、私の知友に引き寄せていえば、何度かお会いしたハーバード大学のジョセフ・ナイ教授の「ソフト・パワー」とは何なのか。 それは、強制や報酬ではなく、魅力によって望む結果を得る能力である」（山岡洋一訳『ソフト・パワー』日本経済新聞社）との指摘と、瓜二つではないでしょうか。 「無形の勢力」とはソフト・パワー（内発の力）であり、「威服」は強制・報酬、「心服」とは、魅力。 ソフト・パワーの概念はハーバード大学のジョセフ・ナイ教授発案の概念で、それが主に外交において展開されていたものを、１９９１年のハーバード大学の講演において、ＳＧＩ会長が外交に限らず、人類が生きていくうえでのすべての局面において、このソフト・パワーが大いに生かされるべきと主張した。 以上から、「人道的競争」を現代的に言い換えるならば、「一人ひとりのソフト・パワーを生かした無償の社会貢献の実践」ということになる。 ちなみに「人生地理学」は牧口会長が明治３６年（１９０３年）、３２歳の時に世に示した著書だが、この「人道的競争」という斬新かつ今最も世界が希求してやまない人間の生存の在り方を、既に１００年以上も前に構想し、発表していたことは、牧口会長の先見の明の正しさを証明している。 当時無名の存在だった初代会長が世に初めて問い、その弟子（戸田２代会長）に受け継がれ、さらにその弟子である池田ＳＧＩ会長が、その思想を１００年の時を経て今に蘇らせ、現実のものへと着実な歩みを進めていく――。 この素晴らしき師弟継承を私たちは、単に賛嘆するだけで終わるのではなく、その思想を現実のものへと展開してこそ、初めてそこに連なる弟子としての資格を得ることができるのではないか。 私たちにとって、人道的競争の具体的実践とは何かについて、じっくりと話し合う機会を持つ必要がある。 にほんブログ村]]></description>
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		<title>ソフト・パワー（個々人の内発の力）は公共に尽くす社会貢献のために使われることで、初めてその存在意義を表す</title>
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		<pubDate>Mon, 07 May 2012 06:33:24 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[池田ＳＧＩ会長が､1991年9月26日、ハーバード大学において行った講演「ソフト・パワーの時代と哲学」は、ＳＧＩにとって歴史的な講演である。 同講演には私たちが永遠に追求し続けるべき課題である「創価ルネサンス」運動の基盤となるべき思想が含まれている。 その意義を理解するためには、この講演のテーマとなった「ソフト・パワー」の重要性を指摘したハーバード大学のジョセフ・ナイ教授との対談（９１年５月１０日）について触れる必要があろう。 ここでは、ソフト・パワーとハード・パワーの定義から始まり、指導者にとって、世界にとってソフト・パワーがいかに重要であるかについて語り合われている。 ナイ教授の言葉を引用してみよう。 &#8220;ハード・パワー&#8221;が相手を威圧的に&#8221;屈服させる&#8221;力だとすれば、&#8221;ソフト・パワー&#8221;は自分のしたいことをさせながら相手を取り込み、リードする力といえます｡それ自体の魅力をもって､相手を魅了していく力です。 これに対して池田ＳＧＩ会長は、以下のように語り、教授への全面的な賛同を表明している。 命令ではなく、魅力によって人々をリードする。これは、私どもにとって、一番関心の深い、また最も心を砕いている観点です。威圧的な&#8221;ハード・パワー&#8221;の指導者ではなく、民主と文化の&#8221;ソフト・パワー&#8221;の指導力をこそ人々は望んでいるし、このいき方、思想が、民衆の中に大河のうねりとなって広がっていく時、世界は真に「人間」を中心に回転を始めるでしょう。「新たな国際秩序」の問題は「新たな文明の在り方」「新たな人間の生き方」と表裏一体なのです。 これら対談で交わされた言葉は、数カ月後のハーバード大学における講演において、宗教的な角度から縦横無尽に展開されたということは改めて言うまでもないだろう。 さらにナイ教授との対談の中で、ＳＧＩ会長がハーバード大学が第一級のリーダーを陸続と輩出しうる理由を問うたのに対して、教授はこう述べている。 まず申し上げるべきは、伝統の力でしょう。&#8221;真理の追究&#8221;と&#8221;公共の利益に資する&#8221;――これがハーバード大学の精神ですが､私たちは長い間この信念を守り抜いてきましたし､今もなお伝統の実現のために努力しています｡ここに人が育つ背景があると思います。 これに対して､池田ＳＧＩ会長は､以下のように応じている。 &#8220;自分は何もしないで、真剣に行動する人のあら探しばかりしている&#8221;――ハーバード大学では、そんな四流、五流の人間など眼中にないと。私も、いかなる非難を浴びようとも自ら行動し、社会に、世界に、貢献しゆく本物の人間をこそ育てたい。それが真情です。創価大学も、こうした&#8221;行動する英知&#8221;を育てるためのものです。 &#8220;公共の利益に尽くしていくこと&#8221;――この仏法でいう菩薩行を行ずるという目的なしに、真理の追究も無益であるし、ましてや行動の価値はないに等しい。 また、現在の日本を蝕む利己主義、経済至上主義のどれをとっても、この公共に尽くしていこう、すなわち社会のため、世界のため、人類のために惜しみなく尽くそうといった崇高な精神や思想とは懸け離れたものといわざるをえない。 池田ＳＧＩ会長は、「公共に尽くす」――つまり&#8221;社会・人類貢献&#8221;を建学の精神とするハーバード大学を舞台とすることで、講演テーマとなる「ソフト・パワー」が発揮されるべき方向性を示そうとしたのではないか。 ゆえにＳＧＩ会長が、ソフト・パワーの重要性を訴え、内発的な力を引き出す哲学の在り方を示したのもすべて、人類に、社会に貢献するためのものであるということを認識しなければ、この講演を読む意味はないとさえ思えるのである。 例えば、ＳＧＩ会長は講演の中で、仏法の中の「縁起」の考え方に触れている。 人間は孤独の中では生きられない。 さまざまな関係性、社会性の中で、それぞれが役割を果たしながら生きている。 ゆえに、「いかによく生きるか」は「いかによく人のために自分の命を使っていくか」という自らの問いかけにほかならないということを、この「縁起」という思想で展開されている。 つまり、その実践とは、社会貢献であり、人類貢献という菩薩の行いそのものであることを講演では強調されているわけだ。 にほんブログ村]]></description>
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		<title>打ち出しだけによらない、私たち個々人のソフトパワーを十全に生かした自主的な活動の在り方をとっていくことは決して不可能なことではない</title>
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		<pubDate>Fri, 04 May 2012 16:16:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ippei</dc:creator>
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		<description><![CDATA[多様性は、生命が志向する本質であり、本能と言っていいだろう。 もしそうでなければ、地球という生命体が、これほどの多様性を育んできた理由が見当たらない。 言うなれば、多様性は生命を生命たらしめる必要条件なのだ。 多様性という観点で創価学会を俯瞰するならば、１９２カ国の世界に広がる多彩なＳＧＩメンバーこそ、その象徴だ。 この多様性を守り、育む姿勢は、池田ＳＧＩ会長の世界広布の旅から学ぶことができよう。 「新・人間革命」第１巻には、初の広布旅となるアメリカにおけるＳＧＩ会長の行動の軌跡がつづられているが、ここにおける一貫したテーマは、多様性を尊重することにあったと推察される。 シカゴにおける質問会の後、会長はある青年に人種問題について問いかけ、青年は&#8221;黒人&#8221;への差別は存在し、偏見もないとは言えないが、この信心の世界においては肌の色の違いに意味はなく、同志と思えていると答える。 以下はこのやりとりに続く、ＳＧＩ会長の発言である。 そうですか。大事なことですね。ひとことに人類といっても多様です。人種も、民族も、言語も、文化も、国籍も異なっている。また、まったく同じ顔をした人が二人といないように出生をはじめ、職業も、立場も、考え方も、好みも、一人ひとり違います。この多様性のうえに成り立っているのが、人間の社会であり、仏法でいう『世間』なんです。 しかし、人間は、ともすればその差異にこだわり、人と人とを立て分け、差別してきた。本来、一つであるべき人間が、差異に固執することによって、分断に分断を重ね、果てしない抗争を繰り返してきたのが、人間の歴史であったといってもよいでしょう。大聖人の仏法は、その分断された、人間と人間の心を結ぶ、人類の統合の原理なんです。 この言葉はアメリカのメンバーに述べられたものだが、もちろん、すべてにおいて普遍的に通じる人間と社会の在り方であり、視点であろうと思われる。 私たちに引き寄せて考えてみよう。 私たちの間では、その多くが人種、民族、言語、文化、国籍において同じであるため、それらの違いがもたらす偏見やハレーションはほとんどないと言っていいだろう。 しかし、会長も指摘しているように、職業、立場、考え方、好み等になると、まさに千差万別であり、何一つとして画一的なものはない。 その差異を基本的には私たちはこだわりを持つことなく、人間の連帯を築き上げていることは、素晴らしい人間共和の模範の形であろう。 この多様性を保つのみならず、生かしてこそ、組織の持続可能な発展と繁栄をもたらすことは間違いない。 事実、それぞれの職業や立場によって差別を設けたりすることは創価学会においては、ほとんど見られることも感じられることもないといっていい。 それぞれの差異を認め合う文化と伝統が根付いているのである。 創価学会の会員間における多様性の価値は見事に開花している。 一方で、組織の活動の在り方についてはどうか。 ここにおいては、多様性の価値が十分に発揮されているとは言いがたい。 先にも指摘したように、創価学会は多様な職業、年齢層、考え方の人々をもって構成されている団体だ。 しかし、基本的に組織の活動の在り方は、各部ごとの一律の打ち出しに負っている。 打ち出しに沿わない活動を現場で発案し、実践していくことは基本的には許されない。 確かに打ち出しによる活動は、効率的であり、数字的な集計を容易とする。 しかし、一方でハードパワー的要素が強く、個々のソフトパワーを生かすにはむしろ不都合な方法だ。 打ち出しだけによらない、私たち個々人のソフトパワーを十全に生かした自主的な活動の在り方をとっていくことは決して不可能なことではない。 それは1991年、SGI会長によるハーバード大学における講演「ソフトパワーの時代と哲学」で明確に示されている。 あれから20年以上が経つ。 SGI会長の呼びかけも空しく、私たちは打ち出しというハードパワーの活動に負い続けている。 この状況を最も憂えているのは、ソフトパワーによる宗教改革を私たちに託したSGI会長ではないかということを感じているのは、果たして私一人だけであろうか。 にほんブログ村]]></description>
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		<title>対話はその深い底流において、激流のごとく何かを動かしうるパワーをもつ</title>
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		<pubDate>Tue, 01 May 2012 14:46:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ippei</dc:creator>
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		<description><![CDATA[少人数、小単位による座談も必要だが、それ以上に大事なことは、やはり一対一の対話だ。 一対一の対話がなぜ重要なのか――。 そこにおいて、最も本音というものを出しやすいからだ。 もちろん、相対する関係性において、本音など出しようのない場合もあるだろう。 しかし、それがたとえ険悪な関係にあったとしても、一対一で率直に語り合った時に、一瞬にして打ち解けるという可能性を秘めているのだ。 私もその法則に則り、時間の許す限り、人と一対一で会い、それぞれができうる限り、本音でぶつかり合えるようにと心がけているつもりだ。 とりわけ、諸事情あり、ここ数年間、音信不通のままにいた友人たちとの久しぶりの邂逅は、極めて有意義で楽しいひと時であり、感動的ですらある。 大した発展的な話はできないかもしれない。 世間話の延長で終わってしまうこともしばしばだ。 しかし、その会話のはしばしの中にも、お互いの心が触れ合い、次への何か新たなヒントや触媒をもたらしてくれるのは確かで、そのことを私たちは確認し合いこそしないが、別れる時点において、既に次に会う機会を楽しみにしているという気持ちを共有している。 そういう複雑な感動を対話はもたらしてくれる。 その対話が何か広宣流布を具体的に進めているのか、と問われるなら、それはほとんど何も進めていないように見えるとしか言い様がない。 しかし、それは見えないだけで、深い底流において、激流のごとく何かを動かしうるのも対話なのである。 対話、対話、対話。 対話の可能性をこれからも深く追求していくべきであろう。 そして、実際の行動の中でその真価を感じとっていく必要がある。 にほんブログ村]]></description>
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		<title>「自己規律の力」による自己への不断の問いかけなく、言われるがままに相手と敵対し、悪と断じ、撲滅を願ってしまえば、掻き立てられる憎悪によって良心はみずみずしい判断力を失う</title>
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		<pubDate>Wed, 25 Apr 2012 05:58:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ippei</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://hannitimura.net/diversity/?p=2183</guid>
		<description><![CDATA[池田ＳＧＩ会長は、論文「非暴力に関する私の一考察」において、「順縁」「逆縁」の止揚に不可欠な、「自己規律の力」について、以下のように述べている。 私は、ここに「自己規律の力」の際立って自発的・内発的な発現へのうながしがあると思っている。 なぜなら、対立する相手の中にも「悪」と同時に「善」を認め、自らをも「善」にも「悪」にもなりうる存在であることを自覚することのできる自己客観化能力――相手を一方的に「悪」とし、自分を独善的に「善」とする自己絶対化とは対極にあるこの能力は、言葉の真の意味での精神の緊張と充溢を必要とするからだ。 そうした「自己規律の力」は、ガンジーが「非暴力を行うには、剣士よりはるかに大きな勇気がいる」と述べているように、真実の勇気の異名でもある。 一連のＳＧＩ会長の主張は、極めて重要な、そして深刻な問題提起を私たちに投げかけているとは言えないか。 私たちは「悪との戦い」を常に求められている。 「悪に勝利せよ」と呼びかけられている。 しかし、ＳＧＩ会長は、「相対立する人間や集団を敵と決めつけ、抹殺し去るような思考方法は、仏法とは原理的に無縁である」と述べるとともに、『すべてを「善と悪」、「光と闇」、「敵と味方」に二分していくマニ教的二元論のタイプほど、仏法的発想と遠いものはない』とも述べている。 この矛盾とも言える二つの言説を私たちはどうとらえていけばいいのか――。 ここにこそ、私たちが命の基底に置くべき「自己規律の力」の存在意義があるのではないか。 「なぜ、私たちは戦わなければならないのか」 「なぜ、私たちは平和を求めるべきなのか」 「彼らは果たして悪なのか、そうではないのか」 「では私は、善なのか、悪なのか」 「どうすれば彼らとより大きな結びつきを得ることができるのか」 &#8230;&#8230;等々、こうしたわずかな自身への問いかけの中にも、「自己規律の力」の発現が促されるとは言えないだろうか。 このような「自己規律の力」による自己への不断の問いかけなく、ただ周囲の言われるがままに相手と敵対し、悪と断じ、その撲滅を願ってしまえば、その外発的に掻き立てられる憎悪によって、私たち一人ひとりの良心はみずみずしい判断力を失ってしまうに違いない。 このことをＳＧＩ会長は、１９９１年の講演「ソフト・パワーの時代と哲学」（ハーバード大学）で以下のように指摘している。 パスカルは異国におけるそのような信仰の在り方（信仰や布教に際して、良心の従うべき判例の体系を豊富に整えていたジュスイット派の「良心例学」）そのものを、必ずしも非難しているのではない。 たしかに、やむをえぬ選択を余儀なくされる場合もあるかもしれないが、そこに至るまでに多くの良心の苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断があるはずである。それは、良心の内発的な働きそのものである。 にもかかわらず、そうした選択の基準を、あらかじめ判例として外面的に与えられてしまうと、安易にそれに依存する結果、良心は逼塞させられ、マヒし堕落してしまう。 「易きをもとめる多数」へのおもねりでしかない「良心例学」とは、したがってパスカルにとって、良心の自殺行為にほかなりませんでした。 良心のマヒの先には何が訪れるのか――それは最も恐ろしく、最も警戒しなければならない「微笑みのファシズム」であることは、かつてＳＧＩ会長が新聞のインタビューに答え、語った通りだ。 他人の言説に惑わされず、流されず、真実の勇気の異名である内なる「自己規律の力」を一人ひとりが忍耐強く鍛え上げていく時、真の平和と共存という人類の悲願が現実のものとなりうるのではないか。 にほんブログ村]]></description>
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		<title>私たちが目指すべき勝利とは数や成果を競うことではなく、人間の尊厳と自由と平等とを勝ち取る人権の闘争にほかならない</title>
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		<pubDate>Sun, 22 Apr 2012 15:55:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ippei</dc:creator>
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		<description><![CDATA[私たちが日ごろ求られている「闘争」「勝利」の意味について考えてみたい。 闘争と勝利の過程が仮に３つの段階があると設定してみたい。 第一段階は「自己との闘争と勝利」であろう。 自らに勝つことはすべての勝利への第一歩となるわけだが、それは最も超えがたい困難な闘争を伴う。 自分の命に潜む、弱さ、怠惰、悪意、嫉妬心、猜疑心など、だれでも持ち合わせている獅子身中の虫との闘争は必須の課題だ。 自分に「勝つ」は、「克つ」と読み替えることができる。 つまり、自分に克つとは、「克己（こっき）」とも言い、「自分を律する」「自分を制する」という意味合いを持つ。 英語で言えば、「self-control」となる。 この「克己心」を持つということは、言うはやすいが、これほどに自在のものとすることが難しい。自己との闘争に勝てなければ、次の段階に進むことは決してできない。 第二段階、つまり対人、対社会における「闘争」「勝利」について。 自分のみを律すること以上に難しいのが、この対人的、対社会的な営みにおける闘争と勝利ではないか。 現代の社会においては人とのかかわり、社会との接触を避けて生きることはほぼ不可能だからだ。 ゆえに「克己心」というものは、自己規律という範疇を超え、人に対する思いやりや調和を重んずる心、寛容の精神など、人間や社会の関係性においても、発揮されていかなければならず、そこに精神の闘争というものがいやおうなしに不可欠となる。 人間関係の悩み、仕事や勉強における乗り越えがたい壁、そして襲いかかる病気など、さまざまな精神的、身体的闘争を強いられよう。 SGI会長とクーデンホーフ＝カレルギー氏との対談「文明・西と東」（1972年）で、「闘争」について、以下のように語っている。 カレルギー氏　生活とは、つねに闘争です。人間同士の間でも、動物の世界でも生命が存続するかぎり、闘争がつづきます。この事実を遺憾だとする理由は何もありません。闘争はあらゆる競争の根底にあるものであり、完成への道程です。もっとも強いものが勝ち、もっとも美しいものが生き残ることが、進歩と繁栄の秘訣です。 カレルギー氏は、動物にせよ、人間にせよ、生きるための一瞬一瞬が闘争であるということを指摘している。 つまり、闘争をやめた時点で訪れるものは死であるということを示唆しているのだ。 氏は続けて、闘争の本質について、こうも語っている。 カレルギー氏　闘争は、騎士精神でもあります。日本の武士道は、闘争を演劇にまで高めました。男はみな戦わなければなりません。唯一の問題があるとすれば「騎士のごとく戦うか、悪人として戦うか」でしょう。闘争を美化するのは、フェア・プレーのみです。 ジェントルマンシップという言葉がもっともふさわしいカレルギー氏らしい闘争の考え方だ。 最後の第三段階、広宣流布を目指すための「闘争」と「勝利」について。 広宣流布とは、人間の尊厳と自由と平等とを勝ち取る、人権の闘争にほかならないはずである。そして、そこにこそ、創価学会の担うべき社会的使命もあろう。 山本伸一の生涯にわたる人権闘争への金剛の決意が、彼の胸中に人知れず芽吹いていたのである。 ――権力の魔性の桎梏からの人間の解放、人権の勝利&#8230;&#8230;。よし、やろう。仏子として、わが人生を賭けて。 伸一の一念に深く刻まれたこの誓いこそ、やがてＳＧＩ（創価学会インタナショナル）運動として広く世界をつつみゆく、新しきヒューマニズムの潮流をもたらす源泉にほかならなかった。（人間革命第１１巻「裁判」の章） この人間革命の一節をして、何に対する闘争が必要なのか、何を勝ち取るべきなのかのすべてが述べられている。 つまり、私たちが目指すべき勝利は、決して数を競うような組織主義的闘争ではなく、「人間の尊厳と自由と平等とを勝ち取る、人権の闘争」なのだ。 そして、「人間の尊厳」とは？　「自由」とは？　「平等」とは？　「人権闘争とは？」との問いかけは限りなく続いていかざるをえない。 その不断なる問いかけこそが、カレルギー氏が示唆した闘争であり、「騎士精神」であり、「フェア・プレー」の闘争なのであろう。 そこをいかに私たちがとらえきるか、それともあきらめてしまうかで、将来の広宣流布の進展の在り方が決まってしまうのではないか。 考えていく必要がある。 語らっていく必要がある。 試みていく必要がある。 そして具体的に行動していく必要がある。 何を考え、何を語らい、行動をとっていくべきなのか――。 池田SGI会長による「文明・西と東・まえがき」の一部にそのヒントを読み取ることができよう。 現代にもっとも欠けていることは、人間を本源的に考えること、つまり、人間生命の尊厳なる存在についての考え方の欠如であると思う。この思考を忘れて人間復権はありえない。私はそこで、二十一世紀をあえて&#8221;生命の世紀&#8221;と名づけたい。というより、その方向にリードしていかなければならないという私の願いでもある。 &#8220;生命の世紀&#8221;とは、端的に言えば生命の尊厳を根底とする時代、人格、個人の幸福を、いかなることのためにも、手段としないことである。いいかえると、人間の生命、人格、幸福は、いっさいの目的であって、絶対に手段にしてはならないという考え方が確立された社会であり、その上に築かれる文明ということである。 いかなる対立や、相克であっても、力によるのでなく、人間の英知によって、新しい解決の道を求めるべきである。そしてそれを私は、二十一世紀に賭けたい。 SGI会長がかつて示した「二十一世紀に賭けたい」のその世紀は今はまさに私たちの手の中にある。 そして、私たちの目の前に大きく開けている。 「生命の尊厳を根底とする時代、人格、個人の幸福」のために、一人ひとりの徹した精神闘争こそが求められている。 にほんブログ村]]></description>
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		<title>組織的な伝達、連携の処理量の多さが信仰レベルの情緒面でのつながりを阻害、圧迫していないか</title>
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		<pubDate>Wed, 18 Apr 2012 10:37:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ippei</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[私たち創価学会員の組織活動は、受け身的なものだろうか、自主性に基づくものであろうか。 他律的だろうか、自律的だろうか。 ハードパワーによるものか、ソフトパワーによるものか。 それぞれの受け止め方があろうが、創価学会が信仰者の団体であるならば、前者、つまり受け身で、他律的で、ハードパワーによるあらゆる要素を排していかなければならない。 かつて、池田ＳＧＩ会長が昭和４５年（１９７０年）５月に行った第３３回本部総会での講演から、その点について考えてみたい。 今から４２年前と半世紀に近い昔の話ではあるが、創価学会の原点を再確認することは重要であろう。 この講演は、会長就任１０周年にあたって、それまでの建設の足跡を基盤にして、広布の完成期、総仕上げともいうべき方向性が示された重要なものである。 この中で、「創価学会の体質問題」としてＳＧＩ会長はこう述べている。 学会の体質として、特に外部からいわれていることの一つとして、学会は上意下達で下意上達がないという点があります。 本当はそうでもないのですが、とかくそう見られてしまう一面があることも否定できません。 これまでも、なるべく民主的な運営を心掛けてきたことは皆さんがもっともよく知っているはずであります。 今後とも、まず会の運営や会合等について、一人一人の意見が、なんとか最大限に吸収できるように改善したい。 そして、こうした具体的な積み重ねの上に上意下達という傾向を完全に是正していくように努めたいのであります。 この講演から、約４０年の時を経て、どれだけ下意上達の組織が出来上がっただろうか。 残念ながら、組織総体としては、望ましい下意上達の組織が構築されているとは必ずしも認めがたい。 会合は、主に上位役職の者から、下位役職の者への“伝達”が目的である。 連絡もしかり。 上位から下位への事務的な“連携”である。 いずれも組織運営には欠かせぬ要素である。 正確な伝達、綿密な連携なくして組織の命はない。 しかし、落とし穴は往々にして、そこにこそ潜んでいる。 つまり、伝達、連携の処理量の多さが、信仰レベルの情緒面でのつながりを阻害、圧迫してしまう。 圧迫しないまでも、時間的に許さなくなってしまうのである。 そこには、温かい情緒あふれる対話、会話がどうしても欠如する。 ゆえに、一人ひとりの組織に対する感情も、極めて薄く、表面的、義務的なものとなっていく。 これは、道理である。 そのことを、ことさらに取り上げて、信心がないからだ、訓練されてないなどと公言してはばからぬ人が、もしいるならばそれはとんだ思い違いと知るべきであろう。 人は組織それ自体に対する情熱を燃やすのではない。 燃やすのは、あくまでも自らの信仰に対してなのである。 そのベクトルが理解できなければ、到底、下意上達の組織など構築できるものではない。 ＳＧＩ会長は上記の講演から約２０年後、以下のように語っている。 会員同志を大切にする組織はあたたかい。 反対に、歴代会長の心を忘れ、形のみの存在となれば、組織は冷たくなってしまう。 そこには“権威”のみがまかり通るようになる。 広布の伸展にともない、組織が大きくなっていく。 問題は、組織の発展・規模に、人間の成長が追いついていくかどうかである。もし、それができなければ、組織を″幸福のための手段″として使いこなすことができなくなる。 そして逆に、組織の歯車として人間が使われていくような、会員を手段化してよしとする“組織悪”におちいってしまうであろう。 要するに「人間」と、官僚的命令系統で組織を動かそうとする「組織力学」との競争であり、「心」と「形」との競争であるともいえよう。（平成２年８月２日・総本山大石寺・常来坊） ＳＧＩ会長が常に懸念していた“組織悪”が、私たち周囲にいつのまにかはびこっていないか、注意深く見つめ、そうした傾向が感じとられるならば、厳しく指摘し、問題解決のための対話の機会をもっていくべきであろう。 それがＳＧＩ会長が私たちに示し続けてきた、組織を硬直化させないための、最重要な理念であり、実践であるに違いない。 もはや上からの改革は極めて難しいし、望むべくもない。 ゆえに、初代会長が遺訓で示したように、「下から動かす」しかない。 決して臆してはならない。 遠慮があってもいけない。 勇気をもって声をあげていくべきだ。 意見を発していくべきだ。 それが組織を蘇生させ、活性化させていく唯一の方法なのだから。 にほんブログ村]]></description>
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		<title>本音を語り合える小単位の座談、対話は学会の人間主義そのものである</title>
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		<pubDate>Mon, 16 Apr 2012 06:57:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ippei</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[「話をする際、話を聞く対象の人数が増えるに応じて、出せる本音の部分は小さくなっていく」という法則がある。 簡単に言えば、話す相手が少なければ少ないほどに本音が出しやすい、ということだ。 もちろん、相手によるのはもちろんだが……。 本音の対話（会話）は心を浄化してくれるし、何よりも楽しいと感じられるものだ。 逆に建前の話は人に退屈と苦痛すらもたらす。 池田ＳＧＩ会長は、小単位の会合の重要性について以下のように語っている。 アメリカの名門タフツ大学の元宗教学部長で、仏教研究で著名なハワード・ハンター博士も、「５・３」を祝福し、こう語ってくださった。 「創価学会の大発展の理由の一つは、この運動が、人間の魂に訴えかける運動だからです。自身の人生、さらには、周囲の人々の人生を意味あるものにするという価値創造の運動が、人々の心にアピールするのです。 そのうえで、創価学会には、洗練された組織力があります。学会の思想を、会員に伝えていく体制が整っています。 さらに、小単位のグループに焦点をあて、それを発展させていくところにも学会の強さがあります」 明快な洞察である。 大切なのは、会員一人ひとりである。 小単位の集いである。 婦人部の少人数の会合をはじめ、座談会などの&#8221;草の根の語らい&#8221;こそ、時代の最先端を行く民衆運動なのである。（2005年5月7日付聖教新聞） 創価学会の普遍の原点は一人を大切にするための小単位の集いである。 つまりは座談であり、対話なのである。 本音を語り合える小単位の座談、対話が、学会の人間主義そのものであると言っていい。 しかし、その本音を尽くした座談や対話が、絶対的に不足していると感じるのは私だけだろうか。 本音を抑え込み、建前だけで積み上げられた組織ほど弱いものはない。 創価学会発展の原動力であった「人間の魂に訴えかける」ことができなくなった運動に陥っていると、わずかでも感じることがあれば、組織の硬直化を疑うべきだ。 一度、硬直化してしまった組織を立て直すことは、多くの組織が直面しているように、極めて難しい。 ただ、唯一可能な手段は、繰り返すが、本音が出せる小単位による座談のほかないのだ。 創価学会の原点に立ち返ることだ。 にほんブログ村]]></description>
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		<title>私たちは仏法者であって、そもそも組織運営者ではない。ならば、ただひたすら仏法について談（かた）り合っていけばよい</title>
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		<pubDate>Thu, 12 Apr 2012 07:26:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ippei</dc:creator>
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		<description><![CDATA[「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」（「諸法実相抄」） たとえわずかでも力の限り、仏法を人に語っていきなさい、との意味を持つ御文だが、「かたらせ」の脇に「談」という漢字が添えられていることに注目したい。 この一字には大聖人が示す弘教、もしくは仏法について語り合うために必要な在り方が示されているのではないだろうか。 つまり、「人に仏法を理解させるには一方的に語り聞かせるだけではだめだ。対話、もしくは座談という双方向のやりとりが絶対に必要である」と。 牧口初代会長も双方向性のない布教の在り方には、否定的な考えを示している。 牧口先生 ＜座談会ではなく大規模な講演会形式にすべきではという意見に対して＞ 「それは違う。人生に関する問題は『対話』でなくては相手に通じない」 「日蓮大聖人の『立正安国論』にしても問答形式ではないか」 布教の在り方も座談会も方程式は全く同じはず。 座談会のメーンはあくまで双方向の対話を可能とする座談なのだ。 もし、こうした双方向性の要素を取り入れていない座談会にしてしまっているところは、要注意と思うべきであろう。 すべての創価学会の会合は双方向の運営とすべきなのではないか。 通達や伝達は通信手段で済む。 伝達が簡略化され、生じた時間をすべて対話、座談に費やしていけばよい。 通信手段を持たない人には訪問対話でフォローしていけばいい。 また、対話や座談の中において、通達を確認することも可能であろう。 組織的伝達や通達に多大な時間を割くことほど、愚かなことはない。 私たちは仏法者ならば、もっと仏法の価値（創造）について語り合う対話に執念を燃やしていかなければならない。 なぜなら私たちは仏法者であって、そもそも官僚でも組織運営者でもないからだ。 仏法者ならば、ただひたすら仏法について談（かた）り合っていけばよいのだ。 戸田会長、池田名誉会長の対話観が見事に表現されている言葉を紹介しよう。 戸田会長 「これからは対話の時代になる。人と語るということは戦うということであり、また、結び合うということだ」 池田名誉会長 「対話とは、人格と人格、精神と精神の交流です。互いに深い次元で認識し、相互理解から信頼へと進みゆけるのです」 座談と対話の在り方について、今一度それぞれが考え、とらえ直すべき時が来ている。 にほんブログ村]]></description>
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