私たちが目指すべき勝利とは数や成果を競うことではなく、人間の尊厳と自由と平等とを勝ち取る人権の闘争にほかならない
私たちが日ごろ求られている「闘争」「勝利」の意味について考えてみたい。
闘争と勝利の過程が仮に3つの段階があると設定してみたい。
第一段階は「自己との闘争と勝利」であろう。
自らに勝つことはすべての勝利への第一歩となるわけだが、それは最も超えがたい困難な闘争を伴う。
自分の命に潜む、弱さ、怠惰、悪意、嫉妬心、猜疑心など、だれでも持ち合わせている獅子身中の虫との闘争は必須の課題だ。
自分に「勝つ」は、「克つ」と読み替えることができる。
つまり、自分に克つとは、「克己(こっき)」とも言い、「自分を律する」「自分を制する」という意味合いを持つ。
英語で言えば、「self-control」となる。
この「克己心」を持つということは、言うはやすいが、これほどに自在のものとすることが難しい。自己との闘争に勝てなければ、次の段階に進むことは決してできない。
第二段階、つまり対人、対社会における「闘争」「勝利」について。
自分のみを律すること以上に難しいのが、この対人的、対社会的な営みにおける闘争と勝利ではないか。
現代の社会においては人とのかかわり、社会との接触を避けて生きることはほぼ不可能だからだ。
ゆえに「克己心」というものは、自己規律という範疇を超え、人に対する思いやりや調和を重んずる心、寛容の精神など、人間や社会の関係性においても、発揮されていかなければならず、そこに精神の闘争というものがいやおうなしに不可欠となる。
人間関係の悩み、仕事や勉強における乗り越えがたい壁、そして襲いかかる病気など、さまざまな精神的、身体的闘争を強いられよう。
SGI会長とクーデンホーフ=カレルギー氏との対談「文明・西と東」(1972年)で、「闘争」について、以下のように語っている。
カレルギー氏 生活とは、つねに闘争です。人間同士の間でも、動物の世界でも生命が存続するかぎり、闘争がつづきます。この事実を遺憾だとする理由は何もありません。闘争はあらゆる競争の根底にあるものであり、完成への道程です。もっとも強いものが勝ち、もっとも美しいものが生き残ることが、進歩と繁栄の秘訣です。
カレルギー氏は、動物にせよ、人間にせよ、生きるための一瞬一瞬が闘争であるということを指摘している。
つまり、闘争をやめた時点で訪れるものは死であるということを示唆しているのだ。
氏は続けて、闘争の本質について、こうも語っている。
カレルギー氏 闘争は、騎士精神でもあります。日本の武士道は、闘争を演劇にまで高めました。男はみな戦わなければなりません。唯一の問題があるとすれば「騎士のごとく戦うか、悪人として戦うか」でしょう。闘争を美化するのは、フェア・プレーのみです。
ジェントルマンシップという言葉がもっともふさわしいカレルギー氏らしい闘争の考え方だ。
最後の第三段階、広宣流布を目指すための「闘争」と「勝利」について。
広宣流布とは、人間の尊厳と自由と平等とを勝ち取る、人権の闘争にほかならないはずである。そして、そこにこそ、創価学会の担うべき社会的使命もあろう。
山本伸一の生涯にわたる人権闘争への金剛の決意が、彼の胸中に人知れず芽吹いていたのである。
――権力の魔性の桎梏からの人間の解放、人権の勝利……。よし、やろう。仏子として、わが人生を賭けて。
伸一の一念に深く刻まれたこの誓いこそ、やがてSGI(創価学会インタナショナル)運動として広く世界をつつみゆく、新しきヒューマニズムの潮流をもたらす源泉にほかならなかった。(人間革命第11巻「裁判」の章)
この人間革命の一節をして、何に対する闘争が必要なのか、何を勝ち取るべきなのかのすべてが述べられている。
つまり、私たちが目指すべき勝利は、決して数を競うような組織主義的闘争ではなく、「人間の尊厳と自由と平等とを勝ち取る、人権の闘争」なのだ。
そして、「人間の尊厳」とは? 「自由」とは? 「平等」とは? 「人権闘争とは?」との問いかけは限りなく続いていかざるをえない。
その不断なる問いかけこそが、カレルギー氏が示唆した闘争であり、「騎士精神」であり、「フェア・プレー」の闘争なのであろう。
そこをいかに私たちがとらえきるか、それともあきらめてしまうかで、将来の広宣流布の進展の在り方が決まってしまうのではないか。
考えていく必要がある。
語らっていく必要がある。
試みていく必要がある。
そして具体的に行動していく必要がある。
何を考え、何を語らい、行動をとっていくべきなのか――。
池田SGI会長による「文明・西と東・まえがき」の一部にそのヒントを読み取ることができよう。
現代にもっとも欠けていることは、人間を本源的に考えること、つまり、人間生命の尊厳なる存在についての考え方の欠如であると思う。この思考を忘れて人間復権はありえない。私はそこで、二十一世紀をあえて”生命の世紀”と名づけたい。というより、その方向にリードしていかなければならないという私の願いでもある。
“生命の世紀”とは、端的に言えば生命の尊厳を根底とする時代、人格、個人の幸福を、いかなることのためにも、手段としないことである。いいかえると、人間の生命、人格、幸福は、いっさいの目的であって、絶対に手段にしてはならないという考え方が確立された社会であり、その上に築かれる文明ということである。
いかなる対立や、相克であっても、力によるのでなく、人間の英知によって、新しい解決の道を求めるべきである。そしてそれを私は、二十一世紀に賭けたい。
SGI会長がかつて示した「二十一世紀に賭けたい」のその世紀は今はまさに私たちの手の中にある。
そして、私たちの目の前に大きく開けている。
「生命の尊厳を根底とする時代、人格、個人の幸福」のために、一人ひとりの徹した精神闘争こそが求められている。
