幹部がいささかたりとも傲慢であったり、理不尽な理由で会員を叱りつけたり、成果をあおったりなどの組織悪の一切を許してはならない

私たちは日常において、どのような時に安堵というものを感じるだろうか。

もちろん、それぞれの嗜好性や性格、環境によってさまざまであろうが、気がおけない親しい友人や仲間との会話、もしくは対話において、心からほっとすることができる、ということはよくあるものだ。

以前のことだが、ふだん活動には活発とは言えない学会員の友人に会合で会った時に、彼が奇しくも語っていたことが印象に残っている。

「何で会合に来たのかって? 別に会合が楽しくて来るんじゃないよ。会合が終わった後のたわいのない話がしたくて来たんだ」

忌憚のない意見に感心するのと同時に、自分も本音のところは、彼と同じなんだと感じたものだ。

確かに、たわいのない会話、さらに言えば雑談だけでは物事は何も進まない。

しかし、こうした余分とも思われる雑談やたわいのない会話こそ、本来大切なものなのではないかということを、つくづく感じてならない。

SGI会長とコックス氏の対談「21世紀の平和と宗教を語る」で両氏は以下のように語っている。

コックス 私が思うに、最善の意見交換や文化交流ができるのは、セミナー室のような場所ではなく、カフェのような場所なのです。
家庭や職場、大学の研究室、旅行先などの形式ばらない場所での人々との交流のなかでこそ可能なのです。

池田 確かに、型にはまらない開かれた語らいこそ、対話の醍醐味ですね。
対話で最も大切なことは、胸襟を開き、人間としての温かな心を、いきいきと通わせていくことです。

カフェ……ゆったりと落ち着いた気分で、コーヒーや紅茶をすすりながら、哲学や生き方について意見を交換する――夢のような、理想的空間ではないか。。

そうした安堵を感じさせてくれる夢のような空間や時間が、会合が終わった後でしか得られないようであれば、それはやはり本末転倒というべきであろう。

私たちは常に「戦いを!」「勝利を!」と呼びかけられている。

ゆえに、組織こそ戦場という考えが当たり前になっているが、組織は本来、庶民のオアシスなのではないのだろうか。

戦場は社会にあり、そこで懸命に戦った戦士が傷を癒しに戻ってくる場が、学会というオアシスなのではないか。

戦士はオアシスで傷を癒し、英気を大いに養い、また社会という戦場に飛び出していく。

幹部がいささかたりとも傲慢であったり、理不尽な理由で会員を叱りつけたり、成果をあおったりなどの組織悪の一切を許してはならないのだ。

そうした組織悪を増長させるような存在を生まないためにも、普段からの「たわいない会話」こそ重要になってくるのだ。

つまり本音の対話が。

「最近、組織で本音が出せてないなぁ」ともし、思う節があれば、その組織は硬直化していることを疑うべきだ。

胸襟を開いて、本音の対話をぶつけ合っていっていくことが、組織の硬直化を防ぎ、組織のオアシス化を促すことを私たちは確認していかなければならない。

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小単位の対話を各地で自発的に推進できるよう配慮していくことが組織に求められる絶対的”責務”

創価学会において、今最も欠けているものは何か。

小単位による会合、つまり対話であろう。

モンタナ州立大学のマービン・ショー教授は、宗教組織における小単位の対話について次のような見解を示している(聖教新聞1991年9月18日付)。

私は、宗教の興隆と活性化にとって不可欠なのは”小単位”の対話である、と確信しております。小単位の対話こそが人間の信頼関係を築く、もっとも効果的な手段であるといえましょう。

さらに、小人数の対話においては、それぞれが率直に意見を交換するなかで、自らの主張がグループに反映され、自主的な”参加”の意識も芽生えてきます。

社会のなかで人々が密接に共存し、豊かな情報を交換しながら、しかし実際にはお互いの意思が通いにくい、奇妙な孤立の時代ともいえる現代――。小単位の対話こそ、人々が社会的な立場、思考の相違を超えて互いが真に心を開き、理解しあうための格好の手段となるものです。

もちろん対話には”動機”が必要であります。人々は、単なる対話のための対話ではなく、より高き目的達成のために、対話し啓発しあい、より良き未来の方向を見すえていくべきであります。そして啓発された対話からは、実践への強きエネルギーが生み出されていかねばならないことも心に留めておくべきです。

宗教の指導者の使命は権威の詔勅(しょうちょく)を下すところにあるのではなく、人々の間に和を結び、希望を与え、人類愛をはぐくむところにあるということも申しそえておきたいと思います。

人間の集まりに重要なものの一つに”啓発”がある。

人が人に会う動機はさまざまだが、一番単純かつ純粋なものとしては、自分にはない”何か”を他人に求めることにある。

すなわちそれは、啓発であり、触発だ。

俳優の森繁久弥氏が、かつて聖教新聞のてい談で「あなたにとって芝居とは」との質問に対し、「アラームである」と答えたことがある。

「アラーム」つまり、警鐘をならす。

また、覚醒する、命を揺り動かす。

人間の集まるところには、「アラーム」があるべきなのだ。

生命のアラームをお互い震わせながら、進むべき道を模索する作業を自然体で行っていくこと――これが、学会の組織を”人間味”あふれる組織としてさらに躍動していくための命脈なのではないだろうか。

一方的に語られる指導を聞いて終わってしまっては不完全だ。

自分の命の中で鳴ったアラームは、どういう音色なのかについて、自らの口で語り、対話という行為を通して初めて意味のあるものになるものだから。

この小単位の対話を各地で随所に、自発的に推進できるよう配慮し、そこに徹して尽くしていくことが、組織に求められる絶対的”責務”だと言っていいだろう。

池田SGI会長はリーダーの要件に続いて、会合の在り方について、アメリカのメンバーに以下のように呼びかけている(1991年10月2日「世界平和の日の集い」)。

その意味から、「世界一のアメリカSGI」を目指しての新たなスタートにあたり、「楽しい会合」「意義ある対話」をアメリカの新モットーとしてはどうだろうか。

どんな会合も、さわやかに、朗らかに。皆が”来てよかった。楽しかった”と思えるような集いを。また、独りよがりの話ではなく、皆が納得できる「有意義な語らい」の方がどれほど価値があることか。

“心の滋養になった。希望がわいた。確信をつかめた。前進の力となった”――と、相手の心にしみ入るような対話をお願いしたい。

創価学会が座談会から始まったように、昔も今も、私たちに唯一必要なのは、小単位の「有意義な語らい」にほかならない。

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人間の側からの”内発的”な対応がなければ容易に権力による情報操作を許し”笑顔のファシズム”さえ招来しかねない

なぜ、SGI会長は創価ルネサンス宣言と時を合わせるようにソフト・パワーについて世に問うたのか。

ソフト・パワーはそもそも、ハーバード講演(1991年)にも列席していたハーバード大学のジョセフ・ナイ氏が提唱した概念だが、その主な対象は外交および国際関係であり、武力や戦力(ハード・パワー)に主眼をおいた外交から、文化や経済(ソフト・パワー)による信頼醸成を促すことを指す。

その概念をSGI会長は大きく広げ、社会(組織)と人間の関係性において、社会の枠組みの維持・発展に重きを置くハード・パワー優先の発想を逆転し、社会を構成する人間の持てるソフト・パワー(内発の力)に最も重きを置く哲学を提唱したのだ。

分かりやすく言えば「組織のための人間」から「人間のための組織」への転換。

当時、「組織のための人間」の象徴であるソ連および東欧共産主義社会の崩壊が連鎖的に進んでいた。

その意味において講演におけるソフト・パワー提言は、民主主義の確立を宣言し、棹差す画期的な意義をもつといえる。

その際、ソフト・パワーの時代を切り拓く最も大切なキー・ワードとして、私は”内発的なるもの”ということを申し上げてみたいと思います。

ハード・パワーというものの習性は”外発的”に、時には”外圧的”に人間をある方向へ動かしますが、それとは逆に、人間同士の合意と納得による”内発的”なうながし、内発的なエネルギーを軸とするところに、ソフト・パワーの大きな特徴があります。

このことは古来、人間の精神性や宗教性に根ざした広い意味での哲学の本領とするところでありました。ソフト・パワーの時代とはいえ、そうした哲学を欠けば、つまり、人間の側からの”内発的”な対応がなければ、知識や情報がいかに豊富でも、例えば容易に権力による情報操作を許し、”笑顔のファシズム”さえ招来しかねないのであります。

“笑顔のファシズム”の到来を招かないため、権力による情報操作を許さない唯一の方法は私たちの間で、縦横無尽の対話を重ねていくほかない。

対話の中でしか、それぞれのソフト・パワーは醸成されていくことはできないからである。

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