SGI憲章
前文
我ら創価学会インタナショナルのすべての構成団体および構成員は、仏法を基調とする、平和・文化・教育への貢献をめざしてゆく。
20世紀を生きた人類は、「戦争と平和」「差別と平等」そして「貧困と豊かさ」という対極にある状態を、過去のどの世紀の人類よりも激しい振幅の中で経験した。
核兵器をはじめとする軍事技術の革新は人類絶滅の危機的状況をもたらしており、民族や宗教による激しい差別の現実は今なお紛争を絶やさない。そして、人類のエゴと放漫は、南北問題や地球環境の深刻な悪化などの「地球的問題群」を引き起こし、人類の存亡の危機をもたらしている。
日蓮大聖人の仏法は、人間生命の限りなき尊厳性を説き、すべての人を包含する慈悲といかなる困難をも克服する智慧をもたらす法である。そして、この智慧は人間精神の創造性を拓き、人類社会の直面するいかなる危機をも克服し、平和で豊かな共生の人類社会を実現できることを説く「人間主義」の法である。
我らSGIは、この「人間主義」に基づく「世界市民の理念」「寛容の精神」「人権の尊重」を高く掲げ、非暴力と対話により、こうした人類的課題に挑み、人類社会に貢献することを深く決意して、ここに以下の目的および原則を確認し、このSGI憲章を制定する。
目的と原則
1.SGIは生命尊厳の仏法を基調に、全人類の平和・文化・教育に貢献する。
2.SGIは「世界市民」の理念に基づき、いかなる人間も差別することなく基本的人権を守る。
3.SGIは「信教の自由」を尊重し、これを守り抜く。
4.SGIは人間の交流を基調として、日蓮大聖人の仏法の理解を広げ、各人の幸福の達成に寄与していく。
5.SGIは各加盟団体のメンバーが、それぞれの国・社会のよき市民として、社会の繁栄に貢献することをめざす。
6.SGIはそれぞれの国の実情をふまえて、各加盟団体の自立性と主体性を尊重する。
7.SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく。
8.SGIはそれぞれの文化の多様性を尊重し、文化交流を推進し、相互理解と協調の国際社会の構築をめざす。
9.SGIは仏法の「共生」の思想に立ち、自然保護・環境保護を推進する。
10.SGIは真理の探求と学問の発展のため、またあらゆる人々が人格を陶冶し、豊かで幸福な人生を享受するための教育の興隆に貢献する。
(SOKAnet ワールドワイドSOKA SGI憲章より転載)
アイトマートフ
池田氏との出会いを何にたとえたらいいだろうか?
私は比喩を探している。
宿命のもつ捉えがたい法則を明らかにして、それをごくありふれた日常生活の観点と、同時に哲学的な観点とから私に説明しうるのは彼だけである。
もしかしたら、私の想像のなかに突然浮かんだ一つの光景が余計な説明抜きで私の内面的な希求を伝えてくれるかもしれない。
その希求の対象は、我々人間が当面ぼんやりと思い望んでいるだけのものである。
しかし突然我々はまたとない目覚めの喜びを感ずる。
人間の顔が見えたのである。
そしてひとりでに会話が生まれる。
心と心との会話、知性と知性との会話が。
それは次のようなものであった。
それぞれ長い旅を続けていた二人の旅人が偶然に出会った場面を想像してほしい。
二人ともすでに疲れ果てていた。
人生の旅は長く辛いものだからである。
少なからざるイバラが身をも心をも傷だらけにしていた。
のどの渇きが辛い。
それ以上に飢えが耐え難い。
いや、生理的な飢えのことではない。
それならばささいな物で満たすことができる。
私が言っているのは、生の意味づけを求める精神的な飢えである。
それは創作の苦しみに似ている。
サン・テグジュペリが思い出される。
彼は身をもって体験したことを、のちに次のような言葉で表現した。
「自分が実際にどれだけの値打ちがあるかを知ろうと思うなら、砂漠で独りぼっちになってみることだ」
アイトマートフ
私は長い間、心の中でこのような対談にあこがれ、好機の訪れを待っていた。
今まで経験した事柄の多くに触れる話し合いがいつかは必ず行われねばならな
かった。
そこでは回想も、反省も、主義の主張も、一緒くたになされる。
私はどうしてかそのような会談は、遅かれ早かれ必ず行われるという予感をもち続けて
いた。
今や私はそれは天命によるものだ、運命によって決められていたものだ、とあえて思う。
私たちは、昔からお互いに出会うべく歩き続けていたのだと思
う。
めいめいが自分の人生の重荷を担いながらである。
もうひとつ、このことで大きな役割を演じたのは、池田大作氏の人格である、と私は理解している。
私に
とって池田氏は大きな吸引力をもつ「磁石」であった。
若いころ私はキルギスの村の老人たちを見て、よく驚いたものである。
老人たちは話
し相手がいない、胸の内を打ち明ける相手がいない、と言って嘆いていた。
「周りに人がいっぱいいるのに、話し相手がいない、とはどういうことだろう?」と
私には不思議だった。
しかし今なら私にも老人たちの気持ちが分かる。
それはなくてはならぬ話し相手に対する渇望である。
遅かれ早かれ私はその人を探し出さ
ねばならなかった。
私の心が次第に思いこがれはじめていたその人をである。
自分をより明確に、より正確に理解し、知ることを助けてくれるようなその人をで
ある。
なぜならば、ショーペンハウエルの言葉を借りれば、「私は万人であり、万人は私」だからである。
おそらく、彼、池田大作氏も同じ
ことを必要としていたに違いない。
私はそう思う。
創価学会の創立80周年、SGIの発足35周年を記念して、私の所感の一端を述べる前に、まず、このたびハイチを襲った大地震によって亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
また、ご家族や友人を亡くされた皆さま方、被災された方々に、SGIを代表してお見舞いを申し上げます。
甚大な被害に胸が痛むばかりであり、国際社会全体で総力をあげて救援活動を進め、一日も早い復興がなされゆくことを、深くお祈りするものです。
難事業には信念と粘り強さが不可欠
さて1年前、世界中が注視するなか、若々しくまた力強く登場したオバマ政権は、アメリカ史上初のアフリカ系大統領の誕生という劇的要素もあって、旗印とした"チェンジ"(変革)に、世界中から期待が集まりました。
折しも一昨年のリーマン・ショック以来の世界同時不況が、グローバル社会を席巻しており、淵源の地であるアメリカから何らかの変革へのメッセージが発せられるのではないか、との思いが寄せられていました。
オバマ大統領が就任の翌月に成立させた「アメリカ再生・再投資法」は、エネルギー対策などを軸に新しい雇用の創出を目指すものとして注目を集めましたが、危機の根は深く、本格的な回復には、まだまだ時間がかかるようです。
グローバル経済全体を見ても、各国の政策対応もあって、金融危機は一応小康状態を取り戻したように見えるものの、その分、財政赤字は拡大し、雇用情勢の悪化に歯止めがかかったとは到底いえない。
80年前の大恐慌の際、混乱を繰り返した景気の"二番底"を憂慮する声も見え隠れしております。
とはいえ、オバマ大統領の登場が、近代科学技術文明の悪魔的所産ともいうべき核兵器をめぐる状況に、大きな一石を投じたことは明らかです。
特に、唯一の核使用国としての道義的責任に言及し、「核兵器のない世界」を目指すとした、昨年4月のプラハでの演説は、手詰まり状態にあった核軍縮への動きに、画期的な希望の光を投げかけたといってよい。
師の戸田城聖第2代会長の志を継いで、折々に核廃絶への提言を行い、また政治指導者、識者との対談でも強く訴え続けてきた私も、そうした流れの定着、加速を願い、昨年の9月8日、師の「原水爆禁止宣言」の日に合わせて、「核兵器廃絶へ民衆の大連帯を」と題する記念提言を発表しました。
もとより、"黙示録的兵器"とも呼ばれ、人類史の業ともいうべき核兵器の削減、廃絶といった難事業が、一朝一タに進むはずがない。
むしろオバマ氏がノーベル賞の受賞演説で述べたように、「ガンジーやキングのような人が実践した非暴力は、あらゆる環境で現実的あるいは可能であるというわけではなかったと思います。しかし、彼らが説いた愛、人類が進歩するということへの確信は、つねに我々の道を指し示す北極星であり続けるでしょう」(『オバマ演説集』三浦俊章編訳、岩波書店)との、柔軟かつ粘り強い取り組みこそ肝要なのではないでしょうか。
まさしくガンジーの言のごとく、「よいものはカタツムリのように進む」(『真の独立への道』田中敏雄訳、岩波書店)からであります。
オバマ大統領がさまざま取り組もうとしている挑戦については、個別の政策決定を短いスパン(期間)で捉え、短絡的に期待値を失望に転ずることは避けたい。理想を堅持しながら、一つ一つ現実の課題を乗り越えようとする努力を国際社会で支え、大きく広げていくべきだと思います。
それとはやや異なる次元から、今回私かスポットを当ててみたいのは、現代文明が行き着いた一つの位相、現代人が否応なく直面せざるをえないデクリネーション(衰勢)の時運――大まかに言ってペシミズム(悲観主義)さらにはニヒリズム(虚無主義)と総称される時代精神の有り様に関してなのであります。
ニヒリズムというと、いわゆる"神の死"=注1=を契機にしたヨーロッパ的思潮に思われがちですが、東洋にも、ニヒリズムの系譜は数多くあります。しかし、そこまで話を広げる必要はなく、ここでは、グローバリズムの矛盾が露わになった荒涼たる風景の中、瘴気のように立ちのぼっている文明の病理の謂なのであります。
日本においても、そのような傾向は、顕著に見られるのではないでしょうか。ともかく、暗いペシミスティックな話が多すぎます。単に日本経済が、かつてのような"右肩上がり"の成長は望めないであろう、といった悲観的な観測にとどまらず、その底流には、そこはかとないデクリネーション(衰勢)の感触、前世紀の大恐慌の際の社会主義というオプション(選択肢)さえ持たないペシミスティック、ニヒリスティックな心象風景があります。
それはバブル時代の浮かれた風潮、喧噪とは一見正反対に見えます。しかしそれは、その実、コインの表と裏のように、両者は一体である。時流に任せて、どちらかが顔をのぞかせているにすぎない。
フランスの気鋭の論客エマニュエル・トッド氏は、金融主導のグローバリズムを評して、「社会のあらゆる足枷から『個人を解放する』ことを望みながら、貨幣とその蓄蔵を崇める中に安全を求めようと怯えて震えている小人をつくるのに成功したにすぎない」(『経済幻想』平野泰朗訳、藤原書店)と喝破しています。この「小人」の顔を表から見れば 「マモニズム」(拝金主義)で、裏から見れば「ニヒリズム」であって、逆もまた真であります。
世界同時不況を教訓に意識を転換
経済的な能力を至上視する弊害
いずれも、金銭がすべての尺度であり、それ以外の価値基準を持たない"価値空位時代"の産物であり、対極に位置するように見えて、実は近代文明が半ば必然的に生みだした「双子」(トッド氏)にほかなりません。
グローバリズムの正の側面は当然のことながら、貧困や「格差社会」をはじめ負の側面を論じる場合でも、ほとんどがこの価値基準に依っている。そこからは、先行き不安な、ギスギスした、寒々としたうつろな響きしか伝わってこない。
格差の拡大等は疑いようのない事実ですし、それを引き金とする犯罪や自殺に追い込まれるような事態は、決して放置されてはならない。このことは、第一義的には政治の責任として、これまでも繰り返し訴えてきたところであります。正義や公平性という人間社会を成り立たせているエートス(道徳的気風)を担保するためにも、法的、制度的なセーフティーネット(安全網)の整備を怠ってはならない。
そのことを強調した上で、私が懸念するのは、そうした外的・物質的条件の整備は、事態への対症療法にはなっても、根本療法にはなりえないのではないかということであります。「対症療法」を下支えし、それをより確かなものにするためにも、精神面からの裏打ち、つまり価値観の転換が必要なのではないか。
人間の価値基準を、どれだけ金銭や利益を手にすることができるかといった経済的能力に専ら委ねていく生き方、近代文明のトレンド(流れ)は、ソ連型社会主義の興亡という壮大な試練をくぐり抜けた後も、なかなか軌道修正できないようです。
欲望の無限拡大、無限解放を容認する近代文明、近代資本主義の痼疾ともいえますが、ローマクラブのリポート『成長の限界』が警鐘を鳴らしてから40年近く、今回の世界同時不況を苦い教訓として、そろそろ病理を自覚すべきではないでしょうか。
そして、経済的能力を専ら人間の価値基準とすることは、トッド氏流にいうなら「小人」の価値観、というよりも価値観の空位、欠落であると看破する意識の転換を行うべきです。
外的・物質的条件に限るなら、往昔の王侯貴族をしのぐほどの生活水準にある人々が少なくない現代の先進国社会の中から、なぜかくもペシミズム、ニヒリズムの瘴気のようなものが立ちのぼっているのかを問うべきです。
宗教のハンドルとブレーキの役割
さて、近代文明発展の最大の推進力、駆動力となったのが、いうまでもなく科学技術でした。
その科学者の立場から、宗教とくに仏教との接点を探り続けてきた泉美治氏は、こう述べています。「人類は欲望というアクセルによって知能というエンジンを動かし、宗教というハンドルとブレーキによって安定した生活を求めてきました」(『科学者が問う 来世はあるか』人文書院)と。
この比喩を借りれば、近代文明、とりわけ近代資本主義というシステムは、例えばマックス・ウェーバーが分析したように、プロテスタンティズムの倫理というブレーキとハンドルが作動することによって、辛うじて欲望が制御され、安定した人間生活を保障してきた。換言すれば何のための勤勉か、何のための努力か、蓄財か、といった価値観からの問いかけが日常的になされていた。それによって、人間精神、人間生活のバランスが保たれてきました。
ハンドルやブレーキが機能不全に陥ったらどうなるかのウェーバーの言う「心情のない享楽人」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波書店)の横行であり、昨今指弾されている「強欲資本主義」などは、その末期症状といってよい。欲望や知能の独り歩きであり、そういえば、今回の金融危機を招いた信用バブルの背景には、投機性を至上視したデリバティブ(金融派生商品)市場の拡大などがあり、その開発には最先端の金融工学が駆使されていたという。金融市場のカジノ化に熱中した人たちの脳裏に、果たして「何のため」という問いが浮かんだでしょうか。
とりわけ、知能すなわち科学技術というエンジンの暴走は、放置しておけば、人類の命運にさえかかわってきます。
20世紀に入って大きく揺らいでいた歴史の進歩という観念を破砕して、"ヒロシマ"の悲劇を現出した核技術の悪夢は、飽くなき欲望(仏法的にいえば、修羅の生命の限りなき増長)と先端技術がセットになった独り歩きが、いかに危険極まりないかということを、白日の下にさらしました。ジョセフ・ロートブラット博士が、私との対談集(『地球平和への探究』潮出版社)で、原爆投下を耳にした時の心境を「絶望」の二字で表していたように、それは人類の前途に、価値観の崩壊、ニヒリズムの暗雲を重く垂れ込めさせました。
さらに、ニヒリズムという観点から見逃してならないのは、ある種の突出したバイオテクノロジー、例えば生殖系列遺伝子操作=注2=などの行き過ぎ、独り歩きの危険性であります。
それは、フランシス・フクヤマ氏の著作『人間の終わり』や、ビルマッキベン氏の著作『人間の終焉』が警告するように、人類が千年にわたって蓄積してきた道徳や宗教、文化、芸術などの精神的遺産を根こそぎにし、無価値化させる 「人間後」(ポスト・ヒューマン)の時代を、SFの世界ではなく、現実のものとしかねない。
特に遺伝子操作のような技術は、人間のエゴイズムを巧妙に取り込みながら知らず知らずのうちに、気づいてみると取り返しのつかないところまで事態を進行させてしまう恐れさえあります。その意味から核技術が"人類"への脅威であるとすれば、生殖系列遺伝子操作などは"人間"への脅威といってよいのではないでしょうか。
そして、両者の周りをしきりに、ある時は我が物顔に、ある時は素知らぬ顔で徘徊しているのが、ニヒリズムなのであります。
価値観を欠く科学技術というものは、コントロールが効かず、人間社会を根底から脅かす凶器と化しかねません。
その肥大化が、ポイント・オブ・ノー・リターン(引き返し不能な点)が憂慮されるほど急速に進んでいる現在、マルティン・ハイデッガーの技術論――不気味なのは技術化そのものより、それに対する我々の側の備えができていないこと、とする技術論に注目が集まるのも当然の成り行きだと思います。
価値感情の欠乏がもたらすもの
価値観の「空位」といえば、かつてシモーヌ・ヴェーユは「二十世紀前半の本質的な特性は、価値の概念の稀薄化、いやほとんどその消失」であるとして、次のように述べています。
「数年前ヴァレリーが指摘したように、とくに善に関係する言葉が、堕落してしまっています。徳、高貴さ、名誉、誠実さ、寛大さといった言葉は、ほとんど口に出せないものになるか、あるいは偽似的な意味をもってしまいました。言葉はもう人間の特性を正当に讃えるためには何の手段をも提供しません」(『シモーヌ・ヴェーユ著作集Ⅱ』橋本一明ほか訳、春秋社)と。
ヴェーユは、これを「価値感情欠乏症」と名付けましたが、昨年1月の提言で触れたガブリエル・マルセルといい、優れた思想家の洞察は"長生き"するものです。
ヴェーユの言葉をタイムスリップさせて、今日の世相に当てはめても、まったく違和感がない。否、病はより「膏肓」に入っているかもしれない。病理の集約的な現れともいうべき戦争のかたち一つ取り上げてみても、大量破壊兵器といいテロといい、現代戦争を特徴づけるのは"無差別性"です。そして"無差別性"は、個々の人格にかかわらざるを得ない善悪の価値感情を拒絶しているからです。
「創価」の運動に寄せられた期待
「創価」とは、いうまでもなく価値創造の謂であります。
それは、ニヒリズム、価値空位時代に楔を打ち込み、近代文明の暴走に対して、ハンドルやブレーキの機能を回復させる人類史的挑戦であるというのが、私どもの深く期するところであります。
凍てついたニヒリズムの大地をたたき破り、息も絶え絶えの「善の価値」「善の言葉」を掘り起こし、"崩し"(悪)に染まるな、"鍛え"(善)に生きよと、人間精神を蘇生させゆく、地道にして確たる民衆覚醒運動なのであります。それはまた、私がライフ・ワーク『人間革命』のテーマに据えた、「一人」の宿命転換を「人類」の宿命転換へと運動させゆく、価値観の大転換運動にほかなりません。
うれしいことに、こうした創価の運動の本質を理解し、共感と励ましのエールが、私たちの機関紙・誌に数多く寄せられています。
いわく「時代の風潮に少しも流されることなく、確かな哲学、理念を基調とした聖教新聞の論調こそ、今の時代に最も求められるものです」、いわく「聖教新聞は世の中を元気にし、幸せにしてきました。日本が一番大事にしなければならない平和・文化・教育という視点を貫いてきたことが読者の支持を得ている理由でしょう」、いわく「世界が今必要とする"励まし"を贈る新聞です」、いわく「トルストイやゲーテ、ユゴーなどは、人類精神史における"巨人"です。活字文化の衰退が憂慮されている今の時代に、これらの"巨人の言葉"が頻繁に登場するメディアは、聖教新聞くらいでしょう」等々、ペシミズム、ニヒリズムの瀰漫する昨今の閉塞状況を突破しゆくパイオニアとしての期待を寄せてくださっております。
私の友人で、一昨年亡くなった作家のチンギス・アイトマートフ氏は、優れた文人ならではのセンスでこの点を捉えておられました。
ゴルバチョフ大統領の側近として、ペレストロイカの生き証人であった氏は、旧ソ連時代は、権力による"検閲"に苦しんだが、ソ連崩壊後は"商業主義"という一層手強い"検閲"が現れたことを憂慮し、一つのエピソードを語りました。
――若いジャーナリストが、全財産をはたいて良質の新聞を発刊。悪戦苦闘の結果、10号で廃刊。その時、彼は、友人に言われたそうです。
「君の新聞には、ゴシップ記事もなければ、面白く仕立てた、うわさ話もない。――殺人事件もないじゃないか。だれが、そんな新聞を買うと思う?」と。
アイトマートフ氏は続けました。「その反対が、創価学会の機関紙『聖教新聞』です。同じように、ゴシップ記事も、捏造も何もない。きわめて高い文化的な内容です。なのに、ずうっと発刊され続け、何百万という方々が読んでいる。これは、大変なことです」と。
仏法が志向する世界観と宇宙観
ともあれ、時代を開き、価値を創造しゆく"発条"となり、"エネルギー源"たりうるものこそ、宗教であるというのが、私どもの変わらざる信念であります。科学的知見と真正面から向き合い、懐深く包み込みながら、人類を破滅させかねない先端技術の暴走を制御していく「ハンドル」「ブレーキ」の役割を演じうる宗教パワーこそが要請されている。
具体的にいえば、"神はさいころを振らない"をモットーに、宗数的奇跡の類を峻拒していたアインシュタインが晩年強調していた「宇宙的宗教」「宇宙的宗教感覚」(ウィリアム・ヘルマンス著『アインシュタイン、神を語る』雑賀紀彦訳、工作舎)といったイメージから想起される、純一にして調和のとれたコスモス感覚の広がりであります。それは、私がトインビー博士とその存在を深く首肯し合った"究極の精神的実在"とも重なってくるものです(『二十一世紀への対話』、『池田大作全集第3巻』所収)。その世界に参入、感得していくのは、近代科学が依って立つ時間や空間の概念をも相対化し包括しゆく研ぎ澄まされたある種の感受性、哲学的・宗数的直観でありましょう。
とはいえ、そうした感受性は、巨大な人格に固有のものでは決してない。雑事の日常性や末梢神経にしか訴えない情報化社会の喧噪を断ち割ってみれば、すべての人に備わり、真のリアリティー、真に生きるに値するものの心音を聴き取ることのできる能力です。
加島祥造氏が、あるインタビューで語っていた言葉が印象に残っています。「ヒア・ナウ(今ここ)だけが本当の現実なんだ」「このヒア・ナウに熱心ならいい。老い込んだ気持ちでいるなら若くても年寄りだよ」(「日本経済新聞」昨年10月29日付夕刊)と。そして、豊かさや幸福を"外部"にのみ求める現代文明に対し、真の豊かさは「自分の中の潜在能力の豊かさに気づくこと」と氏はいいます。
「ヒア・ナウ」とは言い得て妙であり、まさしく「足下を掘れ、そこに泉あり」であります。
アインシュタインも述べています。「私の永遠は、今、この瞬間なんだ。興味があるのはただ一つ、今自分がいる場所で目的を遂げること」(前掲『アインシュタイン、神を語る』)と。それはまた、仏教のものの捉え方――世界観、宇宙観とも水脈を通じております。ここでは詳述しませんが、「因果倶時」「久遠即末法」「刹那成道・即身成仏」=注3=などの大乗仏教の基本概念は、物理的時間、歴史的時間の経過に沿ったものではなく、近代科学の依拠する時間や空間とは次元を異にしております。
また、物理的、歴史的な時間軸という仮構の上に成り立つ「確実」な過去や未来は、ニーチェが『生に対する歴史の利害』(『ニーチェ全集第4巻』小倉志祥訳、理想社)で告発したように、史実ではあってもどこかよそよそしく、生に対するリアリティーという点で不徹底さを免れず人生の決定的要因ではない。
仏典には「已とは過去なり来とは未来なり已来の言の中に現在は有るなり」(御書753ページ)と。現在は過去から未来へと流れる一瞬にしかすぎないように見えるが、その現在の一瞬にこそ、無限の過去と永劫の未来を包み込む真のリアリティーがある。そのリアリティーこそ、過去からの束縛を引き受けつつ、未来への希望を引き寄せていく生命の底力の源泉といえる。
その意味で、"今"がすべての起点なのだ。「ヒア・ナウ」「今、この瞬間」こそ生き方の軸足の拠点であり、あらゆる人間的営為のアルファ(出発点)でありオメガ(究極)なのです。
そこを踏み外して、軸足を仮構の世界に移してしまうと、自ら生み出した先端技術の奴隷と成り果てたり、バブルやパニックに右往左往してしまう。リアリティー(現実)がバーチャル・リアリティー(仮想現実)に侵食されてしまうのであります。私ども宗教者の使命とは、その軸足を正しい位置に戻し、暴走する近代文明の軌道修正を図っていくところにあります。
不断の精神闘争が価値創造の源泉
いわゆる仏法で説く菩薩道という社会的実践も、宇宙大の生命観に立つと同時に、今日より明日へ「善く生きる」ことに余念のない、果敢な行動の謂でありましょう。「宇宙的宗教」「宇宙的宗教感覚」を唱道したアインシュタインが、同時に「宇宙的人間」「宇宙的良心」を体して、平和運動に挺身していったように、敢然と一人立ち、時代変革挑むパイオニアは、真の現実である「ヒア・ナウ」「今、この瞬間」を見据え、そこに集中し、そこで脈動し、そこから価値創造を開始する。やむにやまれぬ衝動に後押しされるように、三世十方を包摂した豊饒な現実の、あまたある選択肢の中から「善の価値」「善の言葉」を、丹念に注意深く、ある時は果敢に選び取っていくのであります。紡ぎ出していくのであります。
学問に王道がないように、「善」の道にも王道はない。現実に身を置き、あえて苦難に挑戦しながら、不断の精神闘争の溶鉱炉の中で、徹底して己を鍛え上げていくしかない。そこに「善」を成就させゆく直道が開けゆく。マルセルの言うように、「状況の特殊性と法の普遍性との間には常に必ず緊張が存在している」「この緊張そのものこそ、価値の原動力」(『マルセル著作集6』小島威彦ほか訳、春秋社)だからであります。「不断の精神闘争の溶鉱炉」と「緊張そのもの」とは同義語といってよい。そこに、仏典の「浅きは易く深きは難し」「浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」(御書310ページ)との金言が不磨の実践規範としての輝きを放ってくるのです。
溶鉱炉や緊張を過たずくぐり抜けるには、この「深きに就く心」、さらには「月月・日日につよ(強)り給へ」(御書1190ページ)の「強る心」が必要不可欠となってくる。そこには、一日そしてまた一日と、ともすれば「易き」に流れがちな人間の弱さと踵を返して、理想を追い、自己を鍛え、向上させていこうとする心の"張り"があります。
諸行は無常であり、現実は変化変化の連続である。ことわざにあるように「士別れて三日なれば、即ち当に刮目して相待つべし」で、成長しゆく人は三日たてば何らかの変化の兆候を示しているはずです。
「深きに就く心」の人は、そうした変化を見逃さず、鋭く対応し、常に価値創造への前進の歩みを止めることはない。希望、勇気、精進、友誼、親切など「善の言葉」は、状況の打破に敢然と挑む人の資質にいかにも似付かわしい"錦"といってよい。
それ故、私は、ハーバード大学での講演(1991年9月、「ソフト・パワーの時代と哲学」)で、良心の内発的な発現のためには「苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断」といったプロセスが欠かせない、と訴えました。
宗教にありがちな、いわゆる"お任せ信仰""お縋り信仰"は、必然的に「宗教阿片説」に陥ってしまい、苦難に満ちた時代変革の主体者としての道、大乗仏教で説くところの菩薩道を踏破できるはずがありません。
オルテガ・イ・ガセットは、そうした「不断の精神闘争の溶鉱炉」の有り様を「歴史的生」として次のように活写しております。
「わたしは歴史の絶対的な予定説を信じない。わたしは逆に、あらゆる生、したがって歴史的生は、純粋な刹那によって構成されているものであり、その一瞬一瞬はそれに先行する一瞬に対して相対的に未確定であるために、現実はその一瞬において逡巡し、一カ所で足踏みし(pietine sur place)、多くの可能性の中のどれに決めるべきかに迷うものであると信じている。この哲学的逡巡こそが、あらゆる生的なものに、あのまごう方なき不安と戦慄を与えているのである」(『大衆の反逆』神吉敬三訳、筑摩書房)
この「哲学的逡巡」とは、優柔不断とは似て非なるもので、固定観念を排し、「まごう方なき不安と戦慄」の緊張感の中から「善」を探り当てる力の源泉を意味します。
釈尊の初転法輪の際の"梵天勧請"の説話が想起されます。――成道の後、その悟りの甚深、微妙で知り難いため、釈尊が説法を開始するのを躊躇、逡巡していると、梵天が現れ、苦しみ悩む人々のために、説法を勧め、請うた。それによって初転法輪が成った、と。オルテガのいう「哲学的逡巡」は、釈尊の躊躇、逡巡とどこかで響き合っているはずです。
価値創造の源泉なるが故に、その逡巡は、強弓を目一杯引き絞る膂力にも似て、満を持してそこから放たれる矢は、どんな困難をも乗り越えて「善」を射当ててていくにちがいない。それを体した人は、したがって一瞬一瞬、柔軟に、慎重かつ迅速に、ジレンマを克服しながら、意を決して一つそしてまた一つと「善の価値」「善の言葉」を選択していくはずです。
ユゴーが提起した正義をめぐる対話
そのプロセスを、かつて私は、ある長編詩(「青年の譜」、『池田大作全集第39巻』所収)の中で、「一人ひとりの哲学と思想の中に/平和裡に漸進的な/汝自身の/健全なる革命を」と呼びかけました。その「善」を志向しての選択や決断は人それぞれ、ケース・バイ・ケースであり、「ヒア・ナウ」、「今、この瞬間」、マルセルのいう「状況の特殊性」によって千差万別ですが、「深きに就く心」「強る心」とは、そこから逃げたり避けたりせず、最後まで自らの使命を貫徹しゆく力なのであります。
一例を挙げれば、若い頃からの愛読書『レ・ミゼラブル』(豊島与志雄訳、岩波書店)の冒頭に、「正しき人」ミリエル司教と死を目前にした老ジャコビニスト(過激な革命主義者)が、"正義"をめぐって火花を散らすシーンがあります。
キリスト教の正義か、フランス革命の正義か――。一方が「断頭台に向かって拍手をしたマラーをどう考えますか」と迫れば、すぐさま他方が「では新教迫害に関して讃歌を歌ったボシュエについて何と考えます?」と応じ、激しく切り結ぶ。おそらくこれは、史実に託したユゴーの「自己内対決」「自己内対話」(苦悩、葛藤、逡巡......)であったと思います。
ユゴーは、どちらかに軍配を挙げている訳ではないが、それは、「正義とは何か」との問いかけが、古来人々を悩まし続け、現在も悩ましている難問中の難問であることの証左といえましょう。
肝心なことは、"問答無用"の暴力の誘惑に抗して、最後まで「哲学的逡巡」「緊張そのもの」「不断の精神闘争の溶鉱炉」の不可欠性を、そして人間を人間たらしめる鍛えの場はそこにしかないことを、決して忘失してはならないということであります。本来、人間が真に人間らしく生きるために、絶対に避けて通れぬ前提が「他者」の存在です。すなわち、辛抱強く自身を鍛える過程で必然的に、否応なく浮かび上がってくるものこそ、「他者」との対峙、対話の要請にほかなりません。
周知のようにオルテガは、「他者」との共存が「野蛮」と決別する「文明」の絶対要件としていました。そして、この「他者性の尊重」「他者性の習慣化」ということは、かの凍てついた旧ソ連の政治文化に言論や対話の力を劇的に復活させたゴルバチョフ元大統領との対談集(『二十世紀の精神の教訓』、『池田大作全集第105巻』所収)で、親しく語り合ったところであります。
先に「個々の人格にかかわらざるをえない善悪の価値感情を拒絶」するのがニヒリズムとしましたが、その意味からも「他者」「他者性」の復活は、価値感情欠乏症の時代を切り開き、「善の価値」「善の言葉」を復権させゆく直道であると、私は信じております。
「月月・日日につよ(強)り給へ」とは、そのニヒリズムの超克、価値創造の労作業への無上にして無比の促しなのであります。 続いて、世界が直面する危機を乗り越え、「平和と共生の21世紀」を本格的に築くための方策について論じておきたい。
今、世界に広がる経済危機は、多くの国々に深刻な影響を及ぼしています。加えて懸念されるのは、経済危機が世界に落とす暗い影が、貧困や環境などの地球的問題群に臨むための国際協力を躊躇させたり、後退させる状況を生じさせてしまうことです。一つの危機がペシミズムを広げ、そのペシミズムがさらなる危機を招く悪循環は、何としても断ち切らなければならない。
地球温暖化の問題にしても、2013年以降の温室効果ガス削減の枠組みづくりは難航しておりますが、希望の光明がまったくないわけではありません。
例えば、国連環境計画(UNEP)が呼びかける植樹キャンペーンを通じて、昨年末までに74億本の植樹が達成されました。実に小学生から一国の大統領まで数百万人が参加して、全世界の人々が1本ずつ木を植えた数に相当する植樹が行われたのです。
ほかにも、UNEPなどが2008年に立ち上げた温室効果ガスの排出量をトータルで限りなくゼロにすることを目指す「気候中立ネットワーク」が広がりをみせ、国や地方自治体、企業やNGO(非政府組織)に加えて、大学が参加するまでになっています。
国家間の交渉が難航を極める一方で、新しい角度からの国際協力や、さまざまな人々や団体の自発性を原動力とするアプローチによって、現実の壁を突き崩そうとする挑戦が続けられているのです。
今年は、核拡散防止条約(NPT)の再検討会議や、貧困に苦しむ人々の半減などを目指す「ミレニアム開発目標」=注4=に関する特別サミットなど重要な会議が多く、地球的問題群に活路を見いだす上で、まさに正念場となる年であります。
どんなに険しい山であっても、頂上にいたる道は必ずあるはずです。たとえ行く手を断崖絶壁に阻まれたとしても、あきらめずに道を探して前へ前へと進んでいけばよい。その意味でも今、私たちに求められるのは、眼前の危機を時代変革の最大のチャンスと捉え、向かい風を追い風に変える「発想力」と強い「意志」ではないでしょうか。
今から80年前、私ども創価学会は、大恐慌で世界が震撼し、混迷の闇が深まる時代に誕生しました。
その創立にあたり、牧口常三郎初代会長が呼びかけていたのが、「依他的生活」や「独立的生活」から「貢献的生活」への転換であります(『牧口常三郎全集第5巻』第三文明社)。
つまり、周りの環境や時代状況に翻弄される生き方でもなく、自身を守る力はあっても他者の不幸を一顧だにしない生き方でもない。仏典に説く「人のために火をともせば・我がまへあき(明)らかなるがごとし」(御書1598ページ)のように、人々のために尽くして自らを輝かせる生き方を社会に広げる行動の中にこそ、混迷の闇を晴らしゆく源泉がある、と訴えたのです。
その牧口会長の精神を受け継いだ戸田第2代会長もまた、「世界にも、国家にも、個人にも、『悲惨』という文字が使われないようにありたい」(『戸田城聖全集第3巻』)との信念で、生命尊厳の思想を根本に平和を求める民衆の連帯を築くことに全力を注ぎました。
思うに、現代の地球的問題群を解決する上でも、こうした人類益や地球益に立った視座への転換が何にも増して重要となっているのではないでしょうか。
「未来はどうなるか」といった傍観者的な立場ではなく、「今、どう行動すべきか」との当事者意識をもって危機の克服を目指し、自らの為すべき役割を定め、時代変革に積極的にかかわっていく――いわば、自発能動の貢献的な生き方を良い意味で競い合い、時代精神へと高めていくことが肝要でありましょう。
そこで私は、こうした問題意識を念頭に置きつつ、「他者」の欠落が最も極まった形となって人類の生存権を脅かし続けている核兵器の問題と、多くの人々の尊厳を蝕んでいる貧困などの"地球社会の歪み"の解消に取り組むことを、人類史を転換するための急所と位置付け、その具体策を何点か提示しておきたい。
核を容認する思想を打破するために
まずは、核兵器の問題についてです。
私は昨年9月に発表した提言で、「核兵器のない世界」の基盤を築くために、核廃絶に向けた軍縮の推進や、核兵器に依存しない安全保障への移行など、5項目にわたる提案を行うとともに、年来の信条として、こう訴えました。「核時代に終止符を打つために戦うべき相手は、核兵器でも保有国でも核開発国でもありません。真に対決し克服すべきは、自己の欲望のために相手の殲滅も辞さないという『核兵器を容認する思想』です」と。
そこで今回は、この「核兵器を容認する思想」の打破に焦点を当てつつ、次のようなホップ・ステップ・ジャンプを経て、核廃絶への潮流を確実にすることを呼びかけたい。
第1に、NPT体制を根幹に「核兵器の不使用」を義務化する領域を広げ、核兵器の役割を縮小させる制度的な下地をつくる。
第2に、国際刑事裁判所が管轄する戦争犯罪の中に、新たに「核兵器の使用とその威嚇」を盛り込み、核兵器を名実ともに"使用できない兵器"として明確化する。
第3に、国連憲章に基づき、総会と安全保障理事会が連携して核兵器全廃に向けた取り組みを進める。
いずれも容易ならざる課題ですが、その足場となるものはすでに存在しており、決して不可能な挑戦ではありません。
私は、まず5月のNPT再検討会議でその先鞭をつけるとともに、向こう5年間で三つの挑戦を全力で進め、原爆投下から70年にあたる2015年に、核時代に終止符を打つ意義を込めた「核廃絶サミット」を広島と長崎で行うことを提案したいのです。
核拡散防止条約発効から40周年
第1の挑戦は、制度面から「核兵器の不使用」の領域を拡大させることです。
これまで、核兵器の使用を一律に禁止する条約は存在せず、その法的空白を埋める挑戦は、非核兵器地帯の設置という地域的なアプローチによって続けられてきました。昨年、中央アジアとアフリカで非核兵器地帯条約が発効し、中南米、南太平洋、東南アジアでの条約に続くものとなりましたが、これだけ多くの地域で核兵器の排除を決めるにいたった意義は、誠に大きいといえましょう。
核兵器による戦争の危険を回避するためにあらゆる努力を払い、人々の安全を保障する措置をとることを前文で謳ったNPTが発効してから今年で40年になりますが、保有国はその義務を十分に果たしてきたといえるでしょうか
そもそもNPTは、核保有の状態を恒久的に認めているわけではありません。むしろ、核抑止政策を続ける保有国の姿勢が、垂直的拡散(核兵器の開発競争)や水平的拡散(核保有を望む国の増加)を招き、NPTの土台を揺るがしてきた現実を想起すべきです。
今こそ保有国は「核兵器のない世界」のビジョンを共有し、"脅威"を突き付け合い、恐怖の均衡を保とうとする抑止論の呪縛を断ち切り、ともに脅威を削減して"安心"を与え合うような政策転換に踏み出し、「安全と安心の同心円」を世界全体に広げていくアプローチヘと舵を切るべきではないでしょうか。
そこで私は、その試金石として保有国が5月のNPT再検討会議で次の三つの誓約をし、2015年までに実現させることを強く求めたい。
(1)NPTに加盟し、条約の義務を遵守する非保有国に対し、保有国が核兵器を使用しない「消極的安全保障」を、法的拘束力のある合意としてまとめる。
(2)保有国で「核兵器の相互不使用」について協議し、これを条約化する。
(3)非核兵器地帯が成立していない地域で、その前段階として「核不使用宣言地域」の成立を目指す。
このうち、(2)と(3)のハードルは決して低くないことは承知していますが、指摘しておきたいのは、その政治的決断は差し当たり、核保有を維持した状態のままでも下せる点です。
(2)の「核兵器の相互不使用」に関して、仮にアメリカとロシアとの間だけでも協定ができれば、時代を画する分水嶺となることは間違いない。その結果、同盟国との関係を含め、想定される脅威が大幅に削減される見込みが生じ、国外での核弾頭配備やミサイル防衛計画の見直し、さらには"核の傘"を段階的に解消する糸口が見いだせるようになるのではないか。
日本とオーストラリアが主導する「核不拡散・核軍縮に関する国際委員会」が先月発表した報告書で盛り込まれたように、伝統的な核政策の見直しを求める声は、今や"核の傘"に依存してきた国からもあがるようになっているのです。
核不使用宣言地域の制度づくりを
また(3)の「核不使用宣言地域」については、世界の非核化を進める上での重要な一里塚として、大量破壊兵器の拡散や核テロの防止を含めた包括的な制度を目指すべきだと考えます。
この制度の主眼は、核を保有する国や"核の傘"に依存する国が存在する地域で脅威と脅威が角突き合わせる"恐怖の均衡"から脱し、冷戦後にアメリカが旧ソ連諸国との間で進めた協力的脅威削減=注5=のように、各国が協力して脅威を取り除く流れを定着させる点にあります。
残念ながら現行のNPTには、ともに脅威を削減し、互いに安心を与え合う仕組みは備わっていませんでした。もし各地域で協議が進めば、制度の外にいて孤立を深めるよりも、制度に加わって安全と安心を確保する方が望ましくなる環境が生まれ、新たに核兵器を開発したり、保有しようとする動きに歯止めがかかると思います。
こうした制度を通じて、各地で「安全と安心の同心円」が広がっていけば、"核の傘"に依存してきた国々はもとより、北朝鮮やイラン、そしてNPTの枠外にあるインド、パキスタン、イスラエルを含める形で、世界全体の非核化を進めるブレイクスルー(変革への突破口)となっていくのではないか。
「核不使用宣言地域」の制定にあたって、地域内の国々が批准すべき条約の候補として考えられるのは、包括的核実験禁止条約、核テロ防止条約、核物質防護条約、生物兵器禁止条約、化学兵器禁止条約などで、将来的には兵器用核分裂性物質生産禁止条約(カットオフ条約)もリストに加えるべきでしょう。
かつてアメリカのケネディ大統領は、「平和を切り開くための一個で間に合うような簡単なカギはありませんし、また、一つや二つの国の勢力によって採択された魔力をもった一大方式などというものもないのです。真の平和は多くの国々の協力によって、生み出されたものでなければならないし、それは、多くの一措置が重なって初めて作り出されるものなのです」(『英和対訳ケネディ大統領演説集』長谷川潔訳注、南雲堂)と訴えました。
私は昨年9月の提言で、北朝鮮の核問題に臨む6カ国協議の国々で北東アジアに「核不使用宣言地域」を設けて、北朝鮮の核放棄を含む地域の非核化への環境整備を進めることを主張しましたが、長らく緊張が続く中東や南アジアなどでも、同様の制度づくりに向けて議論を深めていくことを強く望むものです。
「使用の禁止」が全面禁止への楔に
第2の挑戦は、核使用の違法性を明確化する規範を打ち立てることです。
これまで大量破壊兵器について、その開発や製造、保有や貯蔵、移転や取得などを全面禁止する条約は、生物兵器と化学兵器の分野で成立してきました。
全面禁止にいたる重要な転機となったのは、1925年のジュネーブ議定書による「使用の禁止」です。
これは、毒ガス兵器の使用で多くの犠牲者を出した第1次世界大戦の反省に立って締結されたもので、議定書では化学兵器の使用に対する国際世論の非難を踏まえて、その禁止は「諸国の良心及び行動をひとしく拘束する国際法の一部として広く受諾される」とし、生物兵器の使用についても同様に禁止しました。
今や、化学兵器や生物兵器は多くの国々で忌み嫌われ、使用はおろか、保有すること自体が国際的な不名誉につながるとの認識が確固たるものになりました。非人道的兵器の最たる存在である核兵器についても、同様の認識を定着させて、目に見える形で規範化させる必要があります。
SGIの代表も出席した昨年9月のメキシコでの国連広報局NGO年次会議で、国連の潘基文事務総長が「核兵器は道義に反するものであり、いかなる軍事的価値も与えられるべきではない」と強調したように、核兵器は負の価値しかもたらさないことを、指導者たちは認めるべき時を迎えているのです。
私は、化学兵器や生物兵器が全面禁止にいたった経緯がそうであったように、核時代に終止符を打つための楔は、まず「使用の禁止」に関する規範の確立にあると考えます。
思えば、半世紀以上前(1957年9月)に、師の戸田第2代会長は「原水爆禁止宣言」を発表し、核兵器は絶対悪であり、いかなる使用も断じて許してはならないと訴えました。
その後、国連総会でも、核兵器の使用は人類と文明に対する犯罪とみなされるとの決議が採択され、同趣旨の決議が繰り返されてきましたが、いまだ明確な法的規範として確立するまでにはいたっていません。
現に、96年に国際司法裁判所で核兵器の使用と威嚇に関する勧告的意見が出された際、人道法の原則と規則に一般的に違反するとしながらも、「国家の生存そのものが危機に瀕しているような自衛の極端な状況」の場合についての結論は示されませんでした。
この未決着の部分が存在する限り、核の使用を正当化する余地が残り続けるだけに、明確な規範を打ち立てる必要があります。
民衆の声の反映が国際法を普遍化
先の勧告的意見の審理に判事として臨み、「核兵器による威嚇・使用はいかなる状況においても違法である」との個別意見を付けたクリストファー・ウィラマントリー氏(国際反核法律家協会会長)は著書『国際法の普遍化』の中で、「法的信念を構成するものとしての人々の視点」の重要性を指摘し、民衆の声の反映が国際法の普遍化につながると強調しています。
実際、核兵器をめぐる歴史を振り返っても、一触即発の危機が起こるたびに指導者たちの心に生じた葛藤や自制、また、二度と核兵器による惨劇を繰り返してはならないという国際世論の高まりが相まって、膠着状態が一つ一つ破られてきたといえましょう。
キューバ危機で核戦争の淵に立たされた米ソが歩み寄り、63年に初めて核開発を制限する「部分的核実験禁止条約」が成立した時には、ライナス・ポーリング博士ら科学者をはじめとする市民運動の高まりがありました。また、チェルノブイリの原子炉事故などを背景に米ソ首脳会談が重ねられ、最初の核軍縮合意となった「中距離核戦力全廃条約」が87年に締結された時も、80年代にヨーロッパ各地でミサイル配備の反対運動が起こったことが政策転換を後押しする要因になったといわれています。
そもそも核兵器は、第2次世界大戦直後には、通常兵器の延長線上で、使用の可能性が半ば当たり前のように考えられていました。しかし、核兵器は"絶対に使用してはならない兵器"であり、脅威を少しでもなくさねばならないとの意識が、一つ一つは微々たる前進であっても、国際社会で着実に積み増された結果、核兵器の使用に対する認識が正されてきたのです。
理想と現実とのギャップがいくら大きくても失望したり、あきらめる必要はまったくない。その乖離を埋める「新しい現実」を世界の民衆が連帯してつくりだせばよいのです。対人地雷やクラスター爆弾の禁止条約も、そうした連帯を礎に実現したものでした。
私は昨年9月の提言で、志を同じくする人々や団体、宗教界や精神界、世界の諸大学・学術機関などが共同で、国連の諸機関とも協力して取り組む、仮称「核兵器廃絶を求める世界の民衆宣言」運動を立ち上げることを提案しました。そこで今回は、その運動の一環として、国際刑事裁判所規程を改正し、核兵器の使用と威嚇を戦争犯罪にすることを呼びかけたい。
そして、広島と長崎への原爆投下から70年にあたる2015年を一つの目標に「核兵器の禁止」を人類共通の規範にすることを強く訴えたい。その規範の確立をもって、被爆者の方々の悲願であり世界の人々が願う核廃絶への道を何としても開くべきです。
核兵器禁止条約の制定を求める署名
そもそも、核兵器の使用を戦争犯罪にすることは、規程の検討段階で各国が主張していたものの、最終的に見送られた経緯があり、私も規程が採択された翌99年の提言で再検討を呼びかけていたものです。
こうした中、昨年11月、国際刑事裁判所の第8回締約国会議で、メキシコがこの問題を提起し、今後、作業部会を設置して他の改正案とともに議論していくことが決まりましたが、この機会を最大に生かすべきでありましょう。
討議にあたっては、国際刑事裁判所に加盟していない国々――特に保有国に、オブザーバーとしての参加を積極的に呼びかけていくべきでしょう。大切なのは、多くの国が核兵器の脅威と非人道性に、より真剣向き合い、議論を深めることにあるからです。
あくまでも改正を目指す目的は、核兵器の使用を戦争犯罪として"処罰する"ことではなく、「いかなる理由があっても核兵器は絶対に使用してはならない」との"規範を打ち立てる"ことにあります。
私どもSGIは、戸田第2代会長の「原水爆禁止宣言」を原点に、核兵器の脅威と非人道性を訴え、廃絶を呼びかける活動を半世紀にわたり続けてきました。その実績をもとに、「原水爆禁止宣言」発表50周年にあたる2007年からは、「核兵器廃絶への民衆行動の10年」を新たに立ち上げ、核戦争防止国際医師の会が進める核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)に協力して、「核兵器禁止条約」の制定を目指す運動に力を入れています。
核兵器の使用を戦争犯罪とする規程の改正は、「核兵器禁止条約」への機運を高める突破口となるに違いありません。創価学会では年頭から青年部を中心に、草の根の対話で次代を担う若い世代の意識啓発を進め、同条約の制定を求める署名活動を開始しており、5月のNPT再検討会議に合わせて国連に提出することを目指しています。
どれだけ困難が伴おうとも、現実に押し流されず、大いなる理想に生き抜くことに、青年の青年たる証しがあります。核兵器の禁止を実現させる鍵が、民衆の圧倒的意思を示すことにあるならば、青年の連帯こそが時代変革への最大の原動力となるものです。
今後もSGIとして、22カ国・50都市以上で行ってきた「核兵器廃絶への挑戦と人間精神の変革」展の開催に力を入れ、教育ツールとしての5言語版DVD「平和への願いをこめて――広島・長崎 女性たちの被爆体験」の上映などを進めながら、師の遺訓を果たすべく、"核兵器禁止に向けての民衆の包囲網"を幾重にも強固なものにしていきたいと思います。
安保理首脳会合の定例化で核軍縮を
第3の挑戦は、国連憲章に基づき、総会と安全保障理事会が連携して核兵器の全廃に向けた取り組みを進めることです。
現在、アメリカとロシアは、第1次戦略兵器削減条約の失効に伴う新たな核軍縮条約の締結を目指しています。しかし、その削減幅をもってしても、世界にはまだまだ大量の核弾頭が残存する状態が続きます。
核兵器の削減を本格的に進めるためには、米ロ両国だけでなく、核兵器を保有するすべての国を対象とした核軍縮の枠組みを設けることが欠かせません。その方法として私は、対象国のすべてが加盟する国連憲章を基礎に、核廃絶のロードマップ(行程表)づくりとその履行に取りかかることを呼びかけたい。
憲章の第11条は、総会が軍備縮小と軍備規制を律する原則を審議し、加盟国や安全保障理事会に勧告できるとしています。
また26条は、世界の人的資源と経済資源が軍備に転用されることを最小限にし、国際社会の平和と安全を図るシステムを構築する責任が安全保障理事会にあると明記しています。
これまで総会が第11条に基づき、さまざまな軍縮問題に積極的にかかわってきたのに対し、安保理は十分な役割を果たしてきたとはいえず、第26条は休眠状態が続いてきました。
こうした中、安保理で初めて核不拡散と核軍縮をテーマとする首脳会合が昨年9月に行われ、「核兵器のない世界」に向けた条件を構築するとの決議が採択されました。保有5カ国は、常任理事国として、この決議を実行に移すべく、今後も安保理で国連事務総長を交えた形での首脳会合を定例化して、多国間核軍縮を交渉する場とし、核廃絶に向けたレールを責任もって敷くべきではないか。
また総会の取り組みとしても、これまで核廃絶を目指して行われてきた決議の実績を踏まえつつ、今後は、提案国など有志の国々が緊張緩和や軍縮に取り組んだ内容を付帯事項に集約する形で明記し、その道義的な力をもって保有国に一定割合の核軍縮の履行を求めていく勧告を、毎年重ねていってはどうか。
もとより、核廃絶を果たす責任が保有国の側にあることはいうまでもありません。しかし、いつ完結するかわからない削減交渉の進展をただ待つのではなく、非保有国が自らの行動の重みをもって義務の履行を迫っていくことが、核廃絶への登頂を早めることにつながるのではないか。それこそが、「核軍縮の現実的な追求には、すべての国家の協力が必要である」とした国際司法裁判所の勧告的意見にかなう道でもあると、私は思うのです。
また、核軍縮を求める国際社会の意思を背景にした新しい形の決議を重ねる中で、各国が意欲的に脅威を削減する動きが定着していけば、憲章第26条に基づく軍備規制を求めるコスタリカが主張しているように、「社会支出の優先順位及びミレニアム発展目標を含む国際的な発展目標と競合し、人間の安全保障を危うくしている、忌まわしい軍備競争の気運から脱却する助けとなる」(ピースデポ「核兵器・核実験モニター」第318号)に違いありません。
貧困や環境問題など各国が一致して"人類共通の課題"に取り組むべき現代にあって、その解決のために必要となる人的資源や経済資源を犠牲にしてまで費やされてきたのが軍事費であり、なかんずく核兵器は地球的問題群の解決に資するどころか、"人類共通の脅威"を生む元凶となってきたものです。
軍縮問題の第一人者であるパグウォッシュ会議のジャヤンタ・ダナパラ会長とモントレー国際大学院不拡散研究所のパトリシア・ルイス副所長が、大量破壊兵器であれ小型武器であれ、軍縮は第一に「人間の安全保障」の問題として考えねばならないとして、次のように訴えていたことが思い起こされます。
「われわれは軍縮をその正しい地位、すなわち人間中心の安全保障に関する考えの中核に組み入れることが必要である。軍縮は人道的活動である」(黒澤満『軍縮国際法』信山社出版)と。
私は、この「人道的活動としての軍縮」の理念に基づき、憲章第26条を活性化し、核廃絶と世界の脱軍事化の潮流を着実に強めていくことを呼びかけたい。
被爆国として十数年にわたって核廃絶を目指す総会決議の提案国となり、非核3原則と武器輸出3原則を掲げてきた日本が、二つの原則の堅持を誓約した上で、その旗振り役としてのリーダーシップを発揮することを切に望むものです。
日本は昨年11月、アメリカとの間で"核兵器の全廃を達成するための条件を整えるために積極的に取り組む"との共同ステートメントを発表しましたが、安保理の非常任理事国を務める今年1年間を端緒として、アメリカをはじめとする保有国に強く働きかけながら、核廃絶への道筋をつける役割を担うべきではないでしょうか。
地球社会の歪みを解消するために
次に、経済危機でより浮き彫りになった人間の尊厳を脅かす"地球社会の歪み"を解消するための課題について論じておきたい。
経済危機の影響で昨年は途上国の成長率が大幅に鈍化し、世界全体でも第2次世界大戦以降で初めてマイナス成長を記録しました。特に、社会的に弱い立場に置かれている人々が被る打撃は大きく、そうした人々に的を絞った支援ができなければ、経済危機が各地で新たな人道的危機を引き起こす危険があるとの懸念が高まっています。
私は以前から、人々の生活と尊厳を危機や脅威から守り、「人間の安全保障」を強固なものとするためには、国際的なセーフティーネットの整備とともに、長期的な取り組みとして、一人一人のエンパワーメント(能力開花)が肝要となると訴えてきました。そこで、今回は「雇用」と「女性」と「子ども」に焦点を当てた提案をしたい。
一つめの項目として訴えたいのは、国際労働機関(ILO)が昨年6月に採択した「仕事に関する世界協定」に基づき、各国で失業対策と若年層の雇用改善に努めるとともに、途上国の雇用環境の安定化を国際社会で支援していく流れをつくることです。
昨年の世界全体の失業者数は、記録史上最悪となる2億1900万人以上に達するといわれます。膨大な数もさることながら、重要なのは、こうした数字の裏にどれだけの人々の惨状が潜んでいるかに目を向け、政治の責任として社会に広がる不安と困窮の闇が晴れるまで対策をとり続けることです。
とりわけ若い世代に及ぼす影響は大きく、社会人としてスタートラインに立つ時期から、働く場所を得られなかったり、突然に職を失うことは、経済的な困窮はもとより、自分が社会で必要とされないことへのショックや、将来への不安が募り、ひいては生きる希望まで打ち砕かれてしまう結果を招きかねません。
一方で、仮に働く場所があっても非人間的で過酷な生活を強いられたり、いつまで働けるのかわからず、人生設計を立てる見通しさえ立たない状態は、「人間の尊厳」を根底から脅かしかねないものです。
この点に関し、ILOは、労働は商品ではなく、仕事は尊厳の源でなければならないとの理念に立ち、「すべての人にディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)を」と提唱してきました。
昨年9月に行われたG20サミットでもその重要性が認識され、「我々は、世界経済が完全に健全な状態に回復し、世界中の勤勉な家庭が『働きがいのある人間らしい仕事』を見つけることができるようになるまで休むことはできない」との一節が首脳声明に盛り込まれています。
かつて、1929年の大恐慌が引き起こした不況の嵐に、人々が無防備のままでさらされ、社会が混迷を深めた悲劇を繰り返すことがあってはなりません。
ILOが警告するように、経済危機に対応する形で導入した支援措置から、各国政府が早期に手を引くようなことがあれば、雇用情勢の回復を何年も先送りにし、始まったばかりの景気回復を脆弱かつ不完全なものとする恐れがあり、十分な留意が必要です。
ゆえに、今後も各国が連携して、雇用政策に軸足を置いた対策をとり続けることが何よりも肝心であり、その連帯の礎となるのが 「仕事に関する世界協定」にほかなりません。
そこで私は、G20の下に「ディーセント・ワーク」と「仕事に関する世界協定」を推進するためのタスクフォース(専門部会)を設けることを提案したい。
今年はG20の雇用労働担当大臣会合が予定されていますが、そこで専門部会を設置し、G20が世界の雇用を回復する牽引力としての役割を担い、人々が心の底から危機は遠のいたと実感できるよう、責任をもって手立てを講じるべきではないでしょうか。
特別サミットで体制を立て直す
二つめの提案は、達成が危ぶまれる国連の「ミレニアム開発目標」を、女子教育の拡充を軸に軌道に乗せるためのものです。
今回の経済危機では、直接責任のない多くの途上国が巻き込まれ、貧困に対する闘いが停滞を余儀なくされたばかりか、その瀬戸際にいた人々までもが新たに貧困に突き落とされる事態が生じています。国連の潘事務総長は、「目標達成期限をわずか5年後に控えた今、私たちは2015年に向けて最後の力を振り絞らねばならない」と訴えましたが、先進国の積極的な支援がこれまで以上に必要となっているのです。
9月には「ミレニアム開発目標」に関する特別サミットの開催が予定されています。このサミットで協力体制を立て直し、地球上のすべての人々が尊厳を輝かせ、自らの可能性を最大に発揮できる時代に向けて、今再びの挑戦を開始すべきではないでしょうか。
そこで私は、まず「女子教育の拡充」を突破口に、事態の改善を総合的に図ることを呼びかけたい。
「ミレニアム開発目標」では、貧困や飢餓への取り組みをはじめ、すべての項目に女性にかかわる課題が包含されており、目標達成への勢いを取り戻し、加速させるためには、男女の平等と女性のエンパワーメントが鍵を握るからです。
初等教育を修了した母親の場合、子どもの5歳以上の生存率は2倍に高まるほか、子どもの栄養状態や学校への登校率が改善する傾向がみられ、"世代から世代にわたる貧困"を終わらせる大きな力となることが期待されます。また、長い間、女子教育に力を入れてきた国々では、経済的にも発展していくことが明らかになっています。
まさに、一人の女子が歩む道筋を変えることで本人はもとより、家族や子どもの未来も明るくし、やがて社会全体に希望の光明を広げていく力が教育には備わっているのです。
ユニセフが主導する「国連女子教育イニシアチブ」などによって初等教育の分野では目覚ましい成果がみられますが、2015年に向けてさらに勢いを増し、多くの女性が中等教育以上の課程を学ぶことができるような環境づくりを進めるべきではないか。
そこで私は、途上国の債務の一部を免除した分を、その国の女子教育のための予算に充当する「女性のための未来基金」を国際的に設けることを提案したい。
さまざまな脅威に翻弄されてきた女性たちに教育の機会を広げ、女性たちが、危機を打開する主体者として立ち上がり、自らが望む方向へと時代の流れを変えていく――。そのためのエンパワーメントの種子を蒔いていくことが喫緊の課題だと思うのです。
思えば、創価学会の牧口初代会長も"女性たちこそ未来の理想社会の建設者"との信念で、女性の地位が著しく低かった100年前の日本で、女子教育の普及に情熱を注ぎました。
学校を拠点に「人間の安全保障」確保し子どもを平和の文化の担い手に
小学校を卒業しながらも何らかの理由で中等教育を受けることができなかった女性たちを対象に、通信教育を行う組織を設立し、教材の工面や機関誌の編集にあたりました。
また、十分な学資がない女性たちのために、当時の日本の女子教育で重要な要素を占めていた裁縫や刺繍などを無料で教える施設の開設に尽力したのです。
私もその精神を継いで、創価大学に通信教育部を設けるとともに、創価女子短期大学を創立しました。
1325号決議採択から10周年
さらにSGIでは、女性が主役となっての平和運動を世界で進め、日本では、平和学者エリース・ボールディング博士の監修で制作した「平和の文化と女性」展や、地域における啓発の場としての「平和の文化フォーラム」の開催などに力を入れてきました。
これらの活動に込めた"女性こそピースメーカー(平和の創造者)"とのメッセージは、牧口会長の信念を現代に蘇らせたものであると同時に、2000年10月に国連の安全保障理事会で採択された1325号決議=注6=の精神とも通底するものです。
決議の意義については、実現に尽力したアンワルル・チョウドリ氏(前国連事務次長)と意見交換しましたが、その最大の意義は、21世紀の開幕を前に"女性の関与なくして永続的な平和の実現はない"との理念を、国連から世界に発信した点にあります。
氏も決議を踏まえて、「女性が関わることによって、『平和の文化』はより強靭な根を張ることができる」(連載対談「新しき地球社会の創造へ」、「潮」2009年6月号所収)と強調していました。
折しも昨年9月の国連総会で、女性が直面する問題を扱う四つの組織(国連女性開発基金、女性の地位向上部、ジェンダー特別顧問室、国際女性調査訓練研修所)を統合して、男女平等のための新たな機構を創設し、組織の機能や権限を総合的に高める改革を目指すことが決議されました。
私は、新機関の発足にあたって、女子教育の拡充を含む「女性のエンパワーメント」の推進とともに、安保理の1325号決議をフォローアップする作業を、活動の柱に盛り込むことを呼びかけたい。
和平プロセスヘの女性の参加一つをとってみても、国連の平和構築委員会がブルンジやシエラレオネの復興を進めるにあたって、決議を重視する動きが見られた一方で、世界全体では、平和合意の署名者に女性が占める割合は2%以下、交渉者については7%を占めるにすぎず、まだまだ決議の精神が本格的に浸透するまでにはいたっていない状況があります。
本年は、第4回世界女性会議で女性政策の国際基準となる「北京行動綱領」が採択されてから15周年にあたり、安保理の1325号決議の採択から10周年の佳節を迎えます。
今年をさらなる飛躍への出発点として、国際社会における「女性のエンパワーメント」の力強い前進を期すとともに、決議の履行に向けて積極的に取り組む「1325号に関するフレンズ国(有志国グループ)」の輪を広げて、平和構築における女性の関与を本格的に高めるには何が必要かを討議し、現状の打開を図ることを望むものです。
危機のしわ寄せを受けるのは子ども
三つめの提案は、子どもたちの生命と生活を守り、「平和と共生の21世紀」の揺るぎない基盤を固めるためのものです。
先進国であろうと、途上国であろうと、社会が危機に直面した時、そのしわ寄せを最も強く受けるのは子どもたちです。
今回の経済危機においても、各国で景気が後退し、国家の財政や家計が逼迫する中で、十分な栄養を得られなくなったり、満足な保健ケアを受けられなくなったり、学校をやめて働かざるを得なくなったりする子どもたちが増加することが懸念されています。
そこで私は、学校をさまざまな脅威から子どもたちを守る屋根、すなわち「人間の安全保障」を確保する拠点とする一方で、子どもたちを「平和の文化」の担い手に育てる場としていくことを呼びかけたい。
すでに世界保健機構(WHO)では、学校を健康増進の拠点として重視する活動を95年からスタートしています。
このアプローチは現在、WHOやユニセフなど四つの機関が共同して進める「FRESH」の枠組みにも受け継がれ、健康に生活するためのスキルを磨く教育や、栄養ある食事の提供などを柱とした学習環境の整備を進めることが目指されているのです。
このうち、学校給食の配給は、世界食糧計画が長年にわたり取り組んできたように、子どもの健康と未来を守る重要なセーフティーネットとなっています。
またユニセフでは「子どもに優しい学校」を提唱し、地震や台風に強い学校づくりを支援し、学校が子どもたちにとって危機の時には避難する場所となり、日常性を取り戻し、傷ついた心を癒やす場所となるよう、呼びかけてきました。
私は、これまで国連の諸機関などが学校を拠点にして進めてきた活動の経験や実績を踏まえつつ、今後、「人間の安全保障と平和の文化のための学校拠点化プログラム」として発展させることを提案したい。
近年、子どもたちを単に庇護すべき存在としてではなく、"変革の媒介者"として位置付けてエンパワーメントしていく動きが重視されてきましたが、そこから歩みをさらに進めて、人類の悲劇の流転史を転換するために、次代を担う子どもたちから時代変革の波を起こす環境づくりを目指すべきだと思うのです。
今年で「世界の子どもたちのための平和の文化と非暴力の国際10年」は最終年となります。来年以降はこれを引き継ぐ形で、学校を拠点に「平和の文化」を全地球に広げる活動を進めるべきではないか。
国連で99年に採択された「平和の文化に関する行動計画」では、取り組むべき課題の一つとして次の項目が掲げられていました。
「子どもたちが早い時期から、あらゆる争いを、人間の尊厳を尊重するような精神、寛容と非差別の精神をもって平和的に解決することが可能になるような価値観の形成、態度、行動の様式ならびに生き方を身につけるような教育をすすめる」(平和の文化をきずく会編『暴力の文化から平和の文化へ』)
学会創立80周年
SGI発足35周年
歴史を創る民衆の大連帯を!
「子どもの幸福」をすべての出発点に
いわば、こうした内容を軸に、学校や家庭などあらゆる場での教育を通じて、生命や尊厳を脅かす危険に対処できる力と、暴力的手段によらずに対話を通じて問題を解決する精神を培っていく。そして、成長した子どもたちが将来にわたって、自分のみならず、身の回りの人々の人権や尊厳を守る存在となり、「平和の文化」を社会に根付かせる担い手となっていく流れをつくり出すことを、私は呼びかけたいのです。
その上で、「平和の文化」の裾野をより広げるためには、国連や政府による取り組みだけでなく、市民社会の側から、価値観や振る舞いや生き方といった次元で「平和の文化」の要素となる考え方を、粘り強く意識啓発していく努力が重要となります。
これまで私どもは、牧口初代会長の精神を受け継ぎ、社会が直面する問題を考える出発点に「子どもたちの幸福」を据えることを呼びかけてきました。
89年に子どもの権利条約が採択されたことを受け、「世界の子どもとユニセフ展」や「子どもの人権展」の巡回を日本で進めたほか、96年からはアメリカ各地などで「子どもの権利と現実」展を行いました。
また、国際10年を支援する一環として、2004年から「世界の子どもたちのための平和の文化の建設」展を各国で開催するとともに、2006年からは日本各地で「平和の文化と子ども展」を巡回してきたのであります。
子どもは未来からの使者であり、人類の宝である。その胸に勇気と希望を灯すことが世界の平和につながっていく――。私どもは、今後もこの信念に基づき、「子ども第一」の世界を目指して邁進していきたい。
先例のない変化を歴史に与える挑戦
かつて歴史家のトインビー博士が、次のように強調していたことを思い出します。
「われわれは、歴史をして繰りかえさせるべく運命づけられているのではありません。つまりわれわれ自身の努力を通じて、われわれの順番において何らかの新しい、先例のない変化を歴史に与える道がわれわれには開かれているのであります」(『試練に立つ文明』深瀬基寛訳、社会思想社)と。
創価学会は今年で創立80周年、SGIは発足35周年を迎えますが、私たちの歩みもまた、時代の激流に押し流されることなく、価値創造への挑戦を民衆の手で重ねてきた歴史にほかなりませんでした。
時代の闇が深ければ深いほど、混迷の闇を打ち払う一隅の光となることを願い、一人一人がそれぞれの地域で深く根を下ろしながら、希望の未来を切り開く挑戦を、192カ国・地域で進めてきたのです。
今後も、自他ともの幸福を目指す「貢献的生活」を呼びかけた牧口初代会長、「地球上から悲惨の二字をなくしたい」と訴えた戸田第2代会長の精神を胸に、一対一の対話による人間生命の触発を根本に、世界の民衆による「平和と人道の大連帯」を力強く築いていきたいと思います。
<語句の解説>
注1 神の死
19世紀の哲学者ニーチェは、プラトン以来の哲学思想、特にキリスト教への信仰が失われ、多くの道徳的な価値が根拠を失った危機的状況を「神の死」と名
付けた。作家のドストエフスキーも『罪と罰』で何の理由もなく老婆を殺害したラスコリニコフの姿を通し、この文明論的テーマを取り上げ、神の死が道徳を否
定しニヒリズムの温床となることを描いた。
注2 生殖系列遺伝子操作
遺伝子操作には、遺伝病患者を治療するために、身体の特定部位に修正された遺伝子を挿入したウイルスを注入する「体細胞遺伝子治療」と、「生殖系列遺伝
子操作」がある。このうち後者は、生殖細胞(卵子や精子)や初期受精卵に改変を施し、誕生前に遺伝子を操作するもので、倫理的な観点などから世界的に認め
られていない。
注3 因果倶時、久遠即末法、刹那成道・即身成仏
原因とそこから生ずる結果が同時に具わっていることを「因果倶時」といい、久遠元初・時と末法の時とが相即して不二であることを「久遠即末法」という。
「刹那成道」は「即身成仏」と同義語で、妙法の功力によって衆生がその身のままで仏に成ることを説いた法理。法華経以前の諸経では、歴劫修行(長期の修
行)を経て初めて成仏することができると説かれていた。
注4 ミレニアム開発目標
2000年9月に採択された「国連ミレニアム宣言」などをもとにまとめられた国際社会が達成すべき目標。2015年を目標期限とし、極度の貧困と飢餓の解消、初等教育の完全普及、ジェンダーの平等と女性の地位向上、乳幼児死亡率の引き下げ、妊産婦の健康改善など、8分野18項目の達成が目指されている。
注5 協力的脅威削減
91年にソ連が崩壊したのに伴い、核兵器をはじめとする大量破壊兵器の関連物質や技術の国外流出が問題化した際、拡散防止や脅威削減を目的にアメリカを中心に西欧諸国が進めた政策。ロシアをはじめ旧ソ連諸国を対象に、核兵器解体のための資金・技術協力のほか、旧軍事施設に従事していた科学者や労働者に対する給与助成などを行った。
注6 1325号決議
国連安全保障理事会が2000年10月に、女性に対する戦争の影響や、紛争解決と平和維持における女性の役割について初めて採択した画期的な決議。女性に対する犯罪の訴追や、紛争下における女性と少女の保護の強化などを要請するとともに、平和と安全保障の維持と促進のためのあらゆる努力に、女性が平等に参加し、全面的に関与することを求める内容となっている。