1991年4月アーカイブ

本日は伝統を誇る貴大学のこのような晴れやかな席でのスピーチの機会を賜り、アブエ バ総長並びにローマン学長、アグルト学部長はじめ諸先生方に深く感謝申し上げるものであります。経営コースの開設より75周年という佳節に巣立ちゆかれる 卒業生の皆さま、本当におめでとうございます。

貴国、そして世界の未来を開きゆく俊逸の皆さまとお会いでき、私はこんなにうれしいことはありません。また、お父さま、お母さま方にとって、どれほど大き な喜びであり、誉れであるか――心よりお祝い申し上げます。私も大学を創立した人間として、深く深く知ることができるのであります。

ここで私は、一国、一民族の立場を超えて、貴国の英雄ホセ・リサールが志向した「世界市民」たる皆さま方に、私も同じ世界市民の立場から、所感の一端を申し上げさせていただきたいと思います。

私は若いころから、"事業を左右せよ、事業に左右されるな"との言葉が大変好きでありました。ビジネスは、その本来の性格から、経済効率をあげ、利潤を追 求することを第一義としています。もしビジネス人が事業に左右され、「企業の論理」や「資本の論理」しか眼中にないとするならば、行き着く先は、利潤をめ ぐる争いであり、それはしばしば戦争の誘因にさえなってきました。

ビジネスが平和構築のために貢献をなそうとするならば、そうした論理を「人間の論理」のもとにリードせねばならないでありましょう。

そのために何が必要か――。私は平和を志向するビジネス人の精神的バックボーンとして、端的に「公正」の精神を挙げてみたい。日本語の「公正」には、一方で「公平」や「平等」、他方で「正義」の意味が含まれております。

興味深いことに貴国の言葉「カタルンガン」が、まさに日本語の「公正」の二つの意義、つまり「正義」と「平等」という両義をはらんでいるとうかがい、私は 新鮮な感動をおぼえました。こうした「公正」な精神の持ち主は、経済活動によって、ともすれば富める国、富める階層がますます富み、貧しい国、貧しい階層 がますます貧しくなっていくといった矛盾を決して見逃さないでありましょう。

また「公正」の人は、地球環境を破壊し、生態系のバランスを崩しながら独走する経済成長が、どんなに危険かをよく知っています。いわんや規制の緩やかな国への公害の"輸出"などを許すはずはありません。このような点は、特に日本が心しなければならないことであります。

もとより「公正」の精神といっても、所与のものではありません。アブエバ総長が、創価大学の講演で紹介された貴国の「ハヤニハン」(共同社会における相互 扶助)の精神など、民族の伝統的な美質が、時代の試練のなかで鍛え上げられながら、獲得されていくものでありましょう。それによって「公正の精神」は、素 朴な民族感情から鋼のような強さと、陽光のような温かさと、天空のような広がりとを併せもった普遍的精神へと昇華していくと思うのであります。

その試練と葛藤は、例えば、貴大学の出身である作家のステヴァン・ハヴェリャーナの名作『暁を見ずに』によく描き出されております。一読して私は、第2次大戦中の日本軍の暴虐さを改めて思い知らされ、深く謝したい気持ちに粛然とかられました。

私は、何としても次の世代には、平和への友情の道を開きたいと念願してやまない一人であります。

作品の中で、いとこ同士のいずれも心やさしい3人の若者たちが、一方はゲリラ隊、他方は、日本軍に協力する警官とに引き裂かれ、戦わざるを得なくなります。

日本軍を待ち伏せしている夜、敵のなかに、いとこのポロがいるのを知り、カルディンとゴンドイが問答を交わす印象的なシーンがあります。

「『おかしな戦争だよ、これは』。彼(=ゴンドイ)は溜息をついた。

『ある人間がその兄弟と闘うんだからな』。

『ゴンドイ、』と、カルディンはいった。

『ポロは、ここにいる俺たち全部にとって友だちでもあるし、従兄弟でもある。だが、俺たちにどんな選択の自由があるんだ?』

『でも、相手の士気を沮喪させれば十分だろう。こんな戦争なんか終ってくれないかなあ』。」

(阪谷芳直訳、井村文化事業社)

さり気ないやりとりのなかに、暴力と非暴力をめぐって、「公正」なる判断、選択への痛切な模索がなされております。

どちらが正しいのかは、おそらく答えの出ない問題であり、そこに悲劇の悲劇たるゆえんがあるのです。

あえて言えば、両者が互いに触発し合って――弁証法の言葉を借りれば、骨肉の情を大切にするフィリピンの伝統を体現するゴンドイ的「やさしさ」が「正」と なり、カルディン的「強さ」「冷徹さ」が「反」となって触発し合い、より高次の「合」の世界を目指していかねばならないわけであります。

それは「部分観」から「全体観」への跳躍といってもよく、私は真実の「公正」さというものは、そのような次元において開示されてくる普遍的精神であるように思えてなりません。

そうした普遍的精神は、ビジネスの世界にあっても、一企業、一国のみの「部分益」に執着せず、地球人類という「全体益」に立脚しつつ、時には、自らの利害を超えた尊い自己犠牲さえいとわぬ「公正」な判断を可能ならしむるにちがいありません。

ホセ・リサールは、有名な『エル・フィリブステリスモ』の末尾で、ある登場人物に託して「わが国の自由が、剣によって戦いとられねばならぬといっているの ではない」「われら自身が自由にふさわしいものになることによって、それを戦い取らなければいけない」(『反逆・暴力・革命――エル・フィリブステリス モ』岩崎玄訳、井村文化事業社)と訴えております。

「人間の論理」で「資本の論理」をリード理想と現実の狭間で苦悶しつつも、リサールはそこに、非暴力が暴力に、精神が力に勝利しゆく"はるかな夢"を追っ ていました。その精神の勝利はまた、「企業の論理」や「資本の論理」に対する「人間の論理」の勝ちどきの異名でもあるはずであります。

これは皆さま方にお聞きすべきことですが、貴国の1986年2月の革命は、こうしたリサールの夢への"偉大なる一歩"であったといえないでしょうか。

17年間続いてきた独裁政権を、非暴力を基調にした民衆パワーで打倒した偉業は、世界史上に燦然と輝いております。

アブエバ総長が就任演説で、「我らが人民は、平和と自由への愛、共同体と連帯の意識、人間の尊厳の尊重、深い道徳的・宗教的本性といった我が民族の最も深い美質を行動に顕現させた」と形容しておられるように、まさしく偉大にして歴史的な"一歩"でありました。

皆さま方は、二月革命が標榜し、いまだに解決されていない課題を更に一歩、大いなる完成へと進めゆく尊い使命の方々でありましょう。

その平和と繁栄への希望みなぎる遠征の前途に思いをはせつつ、私は、ホセ・リサールの青春の詩を贈らせていただきます。

静かなる顔をあげたまえ

この日に

フィリピンの若人よ!

君達の慈愛と勇気を燦然と輝かせよ

わが祖国の汚れなき希望の君達よ!

偉大なる魂の君達よ

貴き思索でその魂を満たしたまえ

そして力強く高めよ

清冽なる精神を風よりも速く栄光の頂きへと旅立たせよ!

最後に、若き皆さまの偉大なる人生の歴史と活躍をお祈りし、そしてまた、偉大なる、貴大学の、ますますのご発展と、伝統が永遠であり、そして栄光に輝きゆかれますよう心よりお祈り申し上げ、私のお祝いのスピーチとさせていただきます。

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