本日は、歴史と経験を誇る、ここアテネオ文化・学術協会において、講演の機会を与えられたことは、私の最大の名誉とするところであります。ご尽力してくださったロペス・ベレス会長をはじめ、関係の諸先生方に深く感謝申し上げるものであります。
さて、21世紀まで、あと5年半。世界は、まさにカオス(混沌)一色に塗りつぶされております。コミュニズム(共産主義)の崩壊により、にぎやかに開幕ベ ルが鳴らされたかに見えた民主の舞台も、数年を経ずして、暗転してしまい、時代は、文字どおり"世紀末"の暗雲に覆われております。
民族や宗教がらみの争乱はあとを絶たず、本来ならば、人間性に欠かすことのできない彩りである文化や文明さえも、対立・相克の火種になりかねません。冷戦構造の崩壊は、我々の意図と期待とは裏腹に、あたかも"パンドラの箱"を開け放ったかの感さえするのであります。
こうした時流に棹さしつつ、21世紀文明にアプローチしていくには、どのような観点が必要とされるでしょうか。
目下のところ、最も多く論議されているのは、21世紀文明は、近代の産業文明、科学文明の延長線上に考えられてはならないということであります。大量生 産・大量消費・大量廃棄といった近代の産業文明のあり方をこのまま推し進めていけば、早晩、人類社会そのものの破局を迎えてしまうことは、明らかでありま す。
3年前のブラジル・リオデジャネイロでの国連環境開発会議は、「持続可能な開発」という選択をしておりましたが、ともかくそれを踏み台にして、格段の英知の結集が迫られているところであります。
それと同時に、私は、仏法者の立場から、時代精神の深層、つまり、ヨーロッパ主導の近代文明のエートス(道徳的気風)ともいうべきものにスポットを当ててみることも、重要な課題ではないかと訴えたいのであります。
そこまで光を照射しなければ、容易に打開の道が見つからないほど、時代の閉塞状況は深刻であるといえないでしょうか。
こうした人類史的課題を前にしたとき、私の脳裏に鮮やかに蘇ってくるのは、貴国の卓越した思想家ルイス・ディエス・デル・コラール博士の洞察であります。 コラール博士は、三十年余り前、文化使節として来日され、多くの講演などを通し、我が国に、強い印象と多大な感銘を残していかれました。その博士が、近代 文明のエートスとして見いだしていたのは、何でありましょうか。
それは、フランス革命における政治や法律といった表層の次元ではなく、「人間の尊厳に対する新たな感覚」(『ヨーロッパの略奪――現代の歴史的解明』小島 威彦訳、未来社)であり、また「人間本来の力に対する想像を絶した信頼」(同前)であります。そして、「この地上における人間生存に対する有効的確な支 配」(同前)なのであります。
これは、言ってみれば、かのゲーテが悲劇『ファウスト』に描ききったような、ファウスト的自我の発揚でありましょう。貪欲なまでに認識し、行動し、支配しようとする近代精神の精髄であり、ヨーロッパ近代をして世界を席巻せしめた歴史的原動力でありました。
いうまでもなく、それは近代精神、近代文明のエートスの"光"の部分でありますが、また、そこには、必ず"影"の部分がつきまとっています。
その限界と行き詰まりは、「心根つき果てて苦難の煉獄を横切りつつある」(同前)ファウストに譬えられているとおりであります。
私がなぜこのような史観に注目するかといえば、近代文明の位置づけ、捉え方が"反時代"的でなく、優れて"弁証法"的であるからであります。
先進諸国におけるカルト集団の横行が象徴するように、世紀末の闇が深ければ深いほど、人々の目は"反近代""反時代"的になりがちであります。
なればこそ、大切なことは、近代文明の"光"と"影"、"正"と"負"を厳しく分別し、"光"と"正"の部分を正しく継承しゆく「弁証法」的な史観ではないでしょうか。
こうした観点から熟考してみれば、我々が近代文明のエートスから、何を継承していくべきかは、明らかになるはずであります。
それは、進歩や創造、挑戦や開拓、自発や能動などの言葉を冠するにふさわしい、いつの時代にも変わらぬ人間性の普遍的な美質であります。日々新たに社会や 自然に働きかけ、交流しながら、環境と同時に自分自身をも更新しゆく、人間生命の意欲的にしてダイナミックな発現にほかなりません。
それはまた、21世紀文明のエートス形成にも、枢要な役割を果たしていくにちがいない。
その継承作業にあたり不可欠なことは、近代文明の"影"と"負"の部分を、どう矯め直し、軌道修正していくかであります。
仏典「己に勝つものこそ最上の勝者」
ご存じのように、仏教では「安穏」や「解脱」、更に「禅定」などの精神状態を極めて重視します。
言葉こそ違え、すべて自己の内面世界をどう律していくかを説いたもので、仏教では「自律」こそ一切の営為に先立ち、それなくしては一切が砂上の楼閣になってしまうであろう要諦中の要諦なのであります。
実際、仏典をひもといてみれば――。
「他人に教えるとおりに、自分でも行なえ――。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に制し難い」(『ブッダの真理のことば感興のことば』中村元訳、岩波文庫)
「戦場において百万の敵に勝つよりも、一人の自己に勝つものこそ、最上の戦勝者である」(田村芳朗『人間性の発見涅槃経』筑摩書房)こうした言葉は、枚挙に暇がありません。
このように、おびただしい仏説の意図するところを一言にしていえば、「自律」の勧めといえますが、それは、他律的な宗教的呪縛に決別しようとした近代文明のエートスとは、いささか異なります。
同じように自己の確立を志向しているとはいえ、ファウスト的自負とは、はっきりと一線を画した「自律の構図」ともいうべきものを、仏教では説いているからであります。
それは、釈尊が特に晩年に強調していた「自帰依、法帰依」という構図であります。
釈尊の最後の説法の一つには、こうあります。
「みずからを洲とし、みずからを依りどころとして、他人を依りどころとしてはならぬ。法を洲とし、法を依りどころとして、他を依りどころとしてはならぬ」(増谷文雄『仏教百話』筑摩書房)
すなわち、自己を律するには、自らを依りどころにして、他人や外部の出来事に紛動されぬ不動の自己を築かねばならない。その不動の自己を築くには、独り高 しとする我見や傲慢を排し、徹して法を依りどころとする――そこに、真の「自律」も可能になるというのが、「自帰依、法帰依」の構図であります。私がここ で強調しておきたいのは、この「法」が、徹頭徹尾"内在"的に説かれているということであります。
生命に内在しているがゆえに、「法」の働きは、いつに、人間がそれを自覚できるかどうかにかかっています。仏は"覚者"といって、その自覚が最高度に達した人のことであります。そして、自覚とは、「自律」とほとんど同義語なのであります。
従って、仏という偉大な覚者にとって、最大の悩みは、迷い多き人間にこの自覚が可能なのか?可能であったにしても、人生の荒波の中で、はたして自覚をもち続けられるのか?という難問でした。
だからこそ、釈尊や、日蓮大聖人は、最高の宗教的自覚を得た後、その「法」を民衆に説き及ぶに際し、幾度かの逡巡を重ねているのであります。「法」の内在的自覚ということは、確かに人類史的な難問であります。
しかし、この一点を避け、「法」を外在化させてしまえば、すぐさまそれは他律的規範と化し、人類の前には、「自律」の道は、依然として閉ざされてしまうで ありましょう。外在化された「法」が、多くの場合、聖職者や権力者に利用され、人間を奴隷的地位にまでおとしめてしまうことは、多くの宗教的非寛容性が、 たどってきた血塗られた道に明らかであります。
ゆえに、貴国の偉大な言語学者メネンデス・ピダルが、スペイン精神史の美質を次のように描き出すとき、同じく内在的、自律的規範を志向するものとして、心からのエールを送りたいのであります。
すなわち、「欠乏に耐えることにおいて堅忍不抜なスペイン人は、人間をしてあらゆる逆境を超越させる知恵の規範、すなわち『堅忍し節制せよ』 (sustine et abstine)を胸中に持している。その内部に本能的かつ基本的な特殊のストイシズム(=禁欲主義)を抱いている。つまり彼は 生まれつきのセネカ主義者なのである」(『スペイン精神史序説』佐々木孝訳、法政大学出版局)と。
第二に「共生」――共に生きる、という視点を申し上げてみたいと思います。
「悲劇」の冒頭、ファウストは、次のように独白します。「あらゆるものが一個の全体を織りなしている。一つ一つがたがいに生きてはたらいている」(大山定 一訳、前掲書)ここには、宇宙の森羅万象が、互いに関連し、依存し合いながら、絶妙なハーモニーを奏で、生々流転しゆく「共生」の生命感覚が脈動しており ます。大きく息を吸い、大自然や大宇宙と自在に交感しゆく、こうした、おおどかな生命感覚は、現代人から、はるかに縁遠くなってしまいました。
いうまでもなく、現代文明の基調は、自然を人間と対立させ、人間によって支配・征服されるべき対象として捉え続けてきたからであります。その結果、人間自身の孤立と自己疎外は、ファウスト的自我の悪魔的側面が招き寄せた帰結といってよいでしょう。
多くの識者が指摘するように、21世紀文明の地平を拓くためには、こうした自然観、宇宙観の軌道修正こそ急務であります。ここ数年、「共生」が未来世紀へのキー・ワードとして、にわかに脚光を浴びているゆえんも、ここにあります。
その点、仏教では、人間と、それを取り巻く人間社会や自然、宇宙などの環境と不可分のものとして捉える視点を、一貫してもってきました。
大我に生きゆく菩薩の人生を
その一つに、「依正不二」という原理があります。
手みじかに言えば、「正報」とは我々の自己自身を、「依報」とは我々を取り巻く環境を意味しております。
そして、我々自身と環境とは、常に一体にして不二であり、互いに影響し合い、相互浸透し合いながら調和をたもっていくというのが、仏教の基本的な考え方であります。
こうした知見が、ポスト・モダンの知のパラダイム(範型)として大きく注目を集めていることは、皆さま方、ご存じのとおりであります。
仏法の捉え方によれば、「人間」と「自然」が織り成すハーモニーとは、決して静的なイメージではありません。
それは、創造的生命がダイナミックに脈動しゆく、活気にあふれた世界であります。そのダイナミズムは、先に近代文明の継承すべきエートスと申し上げた、「進歩」や「創造」、「挑戦」や「開拓」などの能動的エネルギーを、余すところなく摂する広がりを有しております。
そうした「正報」と「依報」とのダイナミックな関係を、仏典では簡潔に「正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる」(「瑞相御書」御書1140頁)としているのであります。
まず、前半部分の「正報なくば依報なし」でありますが、例えば、我々が死んだところで、人類は存続していきますし、極端に言えば、人類が滅亡しても、それが、宇宙の終わりを意味するわけでもありません。
にもかかわらず、「依報」の存在そのものを「正報」のなかに包み込み、「正報なくば依報なし」と断ずるのは、もはや、人間と環境とが不可分であることの客観描写というよりも、宗教的確信に基づく主体的決断であります。
その決断の根拠を、仏教では「一念」と呼んでおります。
「正報なくば依報なし」とは、その「一念」の地平をば、時間と空間の限界を超えた、宇宙大の「大我」にまで拡大せよ、との促しであり、更に言えば、その決 断にふさわしい生き方、大乗仏教で菩薩道と呼んでいる、「小我」を去って「大我」にのっとった生き方をも要請しているのであります。
とはいえ、主体的決断だけで終わっていたのでは、独我論や唯心論、あるいはファウスト的独尊にさえ陥りかねません。
そこで、仏典の後半部分では「正報をば依報をもつて此れをつくる」と、最新のエコロジー(生態学)的視点を先取りしたかのような補足がなされ、「依正」の 絶妙なバランスがとられているのであります。この環境への温かい眼差しによって、「正報なくば依報なし」との断固たる意志は、ほどよく融和され、人間と環 境とのダイナミックに相互浸透しゆく、真の「共生」の在り方へと止揚されているのであります。
さて、皆さまは、こうした仏教の「依正不二」論が、オルテガ哲学の精髄である「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救え ない」(『ドン・キホーテに関する思索』A・マタイス、佐々木孝共訳、現代思潮社)との命題に、驚くほど親近していることにお気づきだと思います。
「私は、私と私の環境である」という言葉は、「正報なくば依報なし」と同じように、自我の「大我」への広がりを志向していないでしょうか。
「環境を救わないなら、私をも救えない」という言葉からは、「正報をば依報をもつて此れをつくる」と同じような、共生へのベクトルが感じ取れないでしょうか。
従って、そのオルテガの「文明とは、何よりもまず、共存への意志である」(神吉敬三訳、前掲書)との言葉に、また、大思想家ウナムーノの「強者は、根源的 に強い人は、エゴイストになることができない。充分に力を有している人は、自らの力を他に与えるものなのだ」(「生粋主義をめぐって」佐々木孝訳、『ウナ ムーノ著作集――スペインの本質』所収、法政大学出版局)との言葉に接するとき、私はそこに、大航海時代以来、数百年の時の試練を経て、貴国の精神水脈を 流れ続けてきた「共生」のエートス、「世界市民」のエートスの一端を垣間見る思いがします。
それはまた、大乗仏教の精髄である菩薩道とも、深く通底しているのであります。
第三に「陶冶」という点に触れてみたい。
ここにも近代文明が忘失してきた盲点があると思うからであります。
近代の産業文明は、利便や効率、快適さなどの追求を旗印に、数百年間をまっしぐらに走り抜いてきました。その結果、空前の富の蓄積がなされ、物質的な側面 では、先進国の一般市民は、往昔の王侯貴族も及ばぬ生活が可能となりました。しかし、その代償として、いわゆる産業社会のトリレンマ(三者択一の窮境)と 呼ばれるもの――すなわち、(1)増え続ける人口を養う経済発展(2)枯渇する資源・エネルギー(3)環境破壊の三者が、互いに規制しあい矛盾しあうとい う複雑な連鎖構造など、多くの難題を抱え込んでいることは、周知の事実であります。
しかも、より深刻なことは、産業文明の進展が生命力の衰弱というか、内面世界の劣化現象を引き起こしてしまっているという事実ではないでしょうか。
利便や快適さを追うあまり、困難を避け、できるだけ易きにつこうとする安易さから、「陶冶」が、二の次、三の次にされてきたのが、近代、特に20世紀であります。
内面性の陶冶を怠ったことへの「しっぺ返し」を、最も痛切な形で受けているのが、旧社会主義国でありましょう。
私は現在、ゴルバチョフ元ソ連大統領と、雑誌で対談を進めておりますが、氏は、急進主義の誤りというかたちで、繰り返し、そのことに触れています。
「過激主義というのは、物事を単純に決めつけてしまうことへの誘惑と同じく、しぶといものです。二十世紀において、性急な決定や、すべての困難を一挙に解 決できる摩訶不思議な解決法がある、という単純な思い込みのために、人々は、どれほど辛酸をなめたことでしょう」また「"最も急進的な、革命的なものが、 変革と進歩をゆるぎないものにする"という、19世紀、20世紀の考えは誤りです」(『二十世紀の精神の教訓』潮出版社)――と。私も、全く同感でありま す。
フランス革命の動向に厳しい眼を注ぎ続けたゲーテの「内面的訓練の過程を与えずして、単にわれわれの精神だけを解放するような種類のものは、ことごとく有害である」(小島威彦訳、前掲書)との警句を、今、私は思い起こしております。
「内面的訓練の過程」――これ、すなわち、内面性の陶冶であります。
これをおろそかにし、制度の変革のみ先行することへの危惧は、フランス革命に対してバーク(イギリスの思想家)が、アメリカ革命に対しトクヴィル(フラン スの歴史家)が、ロシア革命に対しガンジーが、中国革命に対し孫文が、ニュアンスの違いこそあれ、一様に表明しているところであります。
そして現在、社会主義国に限らず、自由主義国も含め、世紀末の人類社会に横行する物質主義、拝金主義、倫理の崩壊は、彼らの危惧が、決して杞憂には終わらなかったことの証左であります。
オルテガが、60年以上も前に憂慮していた「慢心しきったお坊ちゃん」(神吉敬三訳、前掲書)の時代とは、さながら今日のことのようであります。
「人間革命」は人格錬磨の異名
古来、仏教では「忍辱」ということを修行の柱としてきました。
また、釈尊の臨終の言葉が、「怠ることなく修行を完成なさい」であったように、内面の陶冶や鍛えを、第一義的課題として重視してきております。
この点に関する日蓮大聖人の訓戒を、幾つか挙げてみましょう。
「鉄は炎打てば剣となる」(「佐渡御書」御書958頁)「闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし」(「一生成仏抄」御書384頁)
「いまだこりず候法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(「曾谷殿御返事」御書1056頁)このように、内面世界の陶冶や鍛えの勧めが、いずれも"剣""鏡""田と作物"などの具体的事例に寄せて述べられている点に、留意していただきたい。
これらの農作物や手仕事を特徴づけているのは、活字の世界などと違い、結果を得るまでの過程に少しの手抜きも許されない、つまり要領やごまかしの通用しない世界であるということであります。
例えば、田に育つ稲にしても、収穫に至るまでに、実に88段階ともいわれる手順を踏まなければならず、どれ一つ欠けても満足のいく結果は得られません。
名刀を鍛え上げるにしても、鏡を磨き上げる場合も、同じ道理であります。
そして、独り、人格や内面性の陶冶作業のみが、この道理の埒外にいられるわけはない。手抜きやごまかしは許されないのであります。
にもかかわらず、近代文明の申し子ともいうべき「慢心しきったお坊ちゃん」たちは、この道理に背を向け、楽をしよう、易きにつこう、簡単に結果を手に入れ ようとするあまり、オルテガの言う「真の貴族に負わされているヘラクレス的な事業」(神吉敬三訳、前掲書)などとは、縁なき衆生と化してしまった感さえあ ります。
その結果、旧社会主義国はもとより、"勝利"したはずの自由主義国にあっても、シニシズム(冷笑主義)や拝金主義の横行する「哲学の大空位時代」を招き寄せてしまいました。
その陶冶なき脆弱な内面世界と、未曾有の大殺戮を演じた二十世紀の悲劇的な外面世界とは、深い次元で重なり合っているように思えてなりません。
ゆえに、私どもは、人格の陶冶の異名ともいうべき「人間革命」の旗を高く掲げ、新たな人間世紀の夜明けを目指し、航海を続けているのであります。
以上、私は、21世紀文明構築のための要件と思われるものを「自律」「共生」「陶冶」の3点にしぼって申し上げてみました。それらが、煉獄のファウストの苦悩にとって、希望の曙光たりうるかどうかは、歴史の審判にゆだねる以外はないでしょう。
しかし、一歩を踏み出さずして、二歩も千歩もありません。私は一仏法者として、試練の歴史を生きる同時代人として、諸先生方とともに、全力をあげて、この未聞の開拓作業に汗を流してまいる決意であります。
最後に、貴国の偉大な精神的遺産である『ドン・キホーテ』の一節を申し上げ、私の話を終わらせていただきます。「遍歴の騎士は世界の隅々へ分け入るがよ い、およそこみいった迷路へ踏み入るがよい、一歩ごとに不可能なことに敢然と立ち向かうがよい、人住まぬ荒地の真夏の日の灼くがごとき炎熱に堪え、冬は風 雪の厳しい寒さに堪えるがよい」(「セルバンテス2」会田由訳、『世界古典文学全集』40所収、筑摩書房)
ご清聴、ありがとうございました。
さて、21世紀まで、あと5年半。世界は、まさにカオス(混沌)一色に塗りつぶされております。コミュニズム(共産主義)の崩壊により、にぎやかに開幕ベ ルが鳴らされたかに見えた民主の舞台も、数年を経ずして、暗転してしまい、時代は、文字どおり"世紀末"の暗雲に覆われております。
民族や宗教がらみの争乱はあとを絶たず、本来ならば、人間性に欠かすことのできない彩りである文化や文明さえも、対立・相克の火種になりかねません。冷戦構造の崩壊は、我々の意図と期待とは裏腹に、あたかも"パンドラの箱"を開け放ったかの感さえするのであります。
こうした時流に棹さしつつ、21世紀文明にアプローチしていくには、どのような観点が必要とされるでしょうか。
目下のところ、最も多く論議されているのは、21世紀文明は、近代の産業文明、科学文明の延長線上に考えられてはならないということであります。大量生 産・大量消費・大量廃棄といった近代の産業文明のあり方をこのまま推し進めていけば、早晩、人類社会そのものの破局を迎えてしまうことは、明らかでありま す。
3年前のブラジル・リオデジャネイロでの国連環境開発会議は、「持続可能な開発」という選択をしておりましたが、ともかくそれを踏み台にして、格段の英知の結集が迫られているところであります。
それと同時に、私は、仏法者の立場から、時代精神の深層、つまり、ヨーロッパ主導の近代文明のエートス(道徳的気風)ともいうべきものにスポットを当ててみることも、重要な課題ではないかと訴えたいのであります。
そこまで光を照射しなければ、容易に打開の道が見つからないほど、時代の閉塞状況は深刻であるといえないでしょうか。
こうした人類史的課題を前にしたとき、私の脳裏に鮮やかに蘇ってくるのは、貴国の卓越した思想家ルイス・ディエス・デル・コラール博士の洞察であります。 コラール博士は、三十年余り前、文化使節として来日され、多くの講演などを通し、我が国に、強い印象と多大な感銘を残していかれました。その博士が、近代 文明のエートスとして見いだしていたのは、何でありましょうか。
それは、フランス革命における政治や法律といった表層の次元ではなく、「人間の尊厳に対する新たな感覚」(『ヨーロッパの略奪――現代の歴史的解明』小島 威彦訳、未来社)であり、また「人間本来の力に対する想像を絶した信頼」(同前)であります。そして、「この地上における人間生存に対する有効的確な支 配」(同前)なのであります。
これは、言ってみれば、かのゲーテが悲劇『ファウスト』に描ききったような、ファウスト的自我の発揚でありましょう。貪欲なまでに認識し、行動し、支配しようとする近代精神の精髄であり、ヨーロッパ近代をして世界を席巻せしめた歴史的原動力でありました。
いうまでもなく、それは近代精神、近代文明のエートスの"光"の部分でありますが、また、そこには、必ず"影"の部分がつきまとっています。
その限界と行き詰まりは、「心根つき果てて苦難の煉獄を横切りつつある」(同前)ファウストに譬えられているとおりであります。
私がなぜこのような史観に注目するかといえば、近代文明の位置づけ、捉え方が"反時代"的でなく、優れて"弁証法"的であるからであります。
先進諸国におけるカルト集団の横行が象徴するように、世紀末の闇が深ければ深いほど、人々の目は"反近代""反時代"的になりがちであります。
なればこそ、大切なことは、近代文明の"光"と"影"、"正"と"負"を厳しく分別し、"光"と"正"の部分を正しく継承しゆく「弁証法」的な史観ではないでしょうか。
こうした観点から熟考してみれば、我々が近代文明のエートスから、何を継承していくべきかは、明らかになるはずであります。
それは、進歩や創造、挑戦や開拓、自発や能動などの言葉を冠するにふさわしい、いつの時代にも変わらぬ人間性の普遍的な美質であります。日々新たに社会や 自然に働きかけ、交流しながら、環境と同時に自分自身をも更新しゆく、人間生命の意欲的にしてダイナミックな発現にほかなりません。
それはまた、21世紀文明のエートス形成にも、枢要な役割を果たしていくにちがいない。
その継承作業にあたり不可欠なことは、近代文明の"影"と"負"の部分を、どう矯め直し、軌道修正していくかであります。
仏典「己に勝つものこそ最上の勝者」
ご存じのように、仏教では「安穏」や「解脱」、更に「禅定」などの精神状態を極めて重視します。
言葉こそ違え、すべて自己の内面世界をどう律していくかを説いたもので、仏教では「自律」こそ一切の営為に先立ち、それなくしては一切が砂上の楼閣になってしまうであろう要諦中の要諦なのであります。
実際、仏典をひもといてみれば――。
「他人に教えるとおりに、自分でも行なえ――。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に制し難い」(『ブッダの真理のことば感興のことば』中村元訳、岩波文庫)
「戦場において百万の敵に勝つよりも、一人の自己に勝つものこそ、最上の戦勝者である」(田村芳朗『人間性の発見涅槃経』筑摩書房)こうした言葉は、枚挙に暇がありません。
このように、おびただしい仏説の意図するところを一言にしていえば、「自律」の勧めといえますが、それは、他律的な宗教的呪縛に決別しようとした近代文明のエートスとは、いささか異なります。
同じように自己の確立を志向しているとはいえ、ファウスト的自負とは、はっきりと一線を画した「自律の構図」ともいうべきものを、仏教では説いているからであります。
それは、釈尊が特に晩年に強調していた「自帰依、法帰依」という構図であります。
釈尊の最後の説法の一つには、こうあります。
「みずからを洲とし、みずからを依りどころとして、他人を依りどころとしてはならぬ。法を洲とし、法を依りどころとして、他を依りどころとしてはならぬ」(増谷文雄『仏教百話』筑摩書房)
すなわち、自己を律するには、自らを依りどころにして、他人や外部の出来事に紛動されぬ不動の自己を築かねばならない。その不動の自己を築くには、独り高 しとする我見や傲慢を排し、徹して法を依りどころとする――そこに、真の「自律」も可能になるというのが、「自帰依、法帰依」の構図であります。私がここ で強調しておきたいのは、この「法」が、徹頭徹尾"内在"的に説かれているということであります。
生命に内在しているがゆえに、「法」の働きは、いつに、人間がそれを自覚できるかどうかにかかっています。仏は"覚者"といって、その自覚が最高度に達した人のことであります。そして、自覚とは、「自律」とほとんど同義語なのであります。
従って、仏という偉大な覚者にとって、最大の悩みは、迷い多き人間にこの自覚が可能なのか?可能であったにしても、人生の荒波の中で、はたして自覚をもち続けられるのか?という難問でした。
だからこそ、釈尊や、日蓮大聖人は、最高の宗教的自覚を得た後、その「法」を民衆に説き及ぶに際し、幾度かの逡巡を重ねているのであります。「法」の内在的自覚ということは、確かに人類史的な難問であります。
しかし、この一点を避け、「法」を外在化させてしまえば、すぐさまそれは他律的規範と化し、人類の前には、「自律」の道は、依然として閉ざされてしまうで ありましょう。外在化された「法」が、多くの場合、聖職者や権力者に利用され、人間を奴隷的地位にまでおとしめてしまうことは、多くの宗教的非寛容性が、 たどってきた血塗られた道に明らかであります。
ゆえに、貴国の偉大な言語学者メネンデス・ピダルが、スペイン精神史の美質を次のように描き出すとき、同じく内在的、自律的規範を志向するものとして、心からのエールを送りたいのであります。
すなわち、「欠乏に耐えることにおいて堅忍不抜なスペイン人は、人間をしてあらゆる逆境を超越させる知恵の規範、すなわち『堅忍し節制せよ』 (sustine et abstine)を胸中に持している。その内部に本能的かつ基本的な特殊のストイシズム(=禁欲主義)を抱いている。つまり彼は 生まれつきのセネカ主義者なのである」(『スペイン精神史序説』佐々木孝訳、法政大学出版局)と。
第二に「共生」――共に生きる、という視点を申し上げてみたいと思います。
「悲劇」の冒頭、ファウストは、次のように独白します。「あらゆるものが一個の全体を織りなしている。一つ一つがたがいに生きてはたらいている」(大山定 一訳、前掲書)ここには、宇宙の森羅万象が、互いに関連し、依存し合いながら、絶妙なハーモニーを奏で、生々流転しゆく「共生」の生命感覚が脈動しており ます。大きく息を吸い、大自然や大宇宙と自在に交感しゆく、こうした、おおどかな生命感覚は、現代人から、はるかに縁遠くなってしまいました。
いうまでもなく、現代文明の基調は、自然を人間と対立させ、人間によって支配・征服されるべき対象として捉え続けてきたからであります。その結果、人間自身の孤立と自己疎外は、ファウスト的自我の悪魔的側面が招き寄せた帰結といってよいでしょう。
多くの識者が指摘するように、21世紀文明の地平を拓くためには、こうした自然観、宇宙観の軌道修正こそ急務であります。ここ数年、「共生」が未来世紀へのキー・ワードとして、にわかに脚光を浴びているゆえんも、ここにあります。
その点、仏教では、人間と、それを取り巻く人間社会や自然、宇宙などの環境と不可分のものとして捉える視点を、一貫してもってきました。
大我に生きゆく菩薩の人生を
その一つに、「依正不二」という原理があります。
手みじかに言えば、「正報」とは我々の自己自身を、「依報」とは我々を取り巻く環境を意味しております。
そして、我々自身と環境とは、常に一体にして不二であり、互いに影響し合い、相互浸透し合いながら調和をたもっていくというのが、仏教の基本的な考え方であります。
こうした知見が、ポスト・モダンの知のパラダイム(範型)として大きく注目を集めていることは、皆さま方、ご存じのとおりであります。
仏法の捉え方によれば、「人間」と「自然」が織り成すハーモニーとは、決して静的なイメージではありません。
それは、創造的生命がダイナミックに脈動しゆく、活気にあふれた世界であります。そのダイナミズムは、先に近代文明の継承すべきエートスと申し上げた、「進歩」や「創造」、「挑戦」や「開拓」などの能動的エネルギーを、余すところなく摂する広がりを有しております。
そうした「正報」と「依報」とのダイナミックな関係を、仏典では簡潔に「正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる」(「瑞相御書」御書1140頁)としているのであります。
まず、前半部分の「正報なくば依報なし」でありますが、例えば、我々が死んだところで、人類は存続していきますし、極端に言えば、人類が滅亡しても、それが、宇宙の終わりを意味するわけでもありません。
にもかかわらず、「依報」の存在そのものを「正報」のなかに包み込み、「正報なくば依報なし」と断ずるのは、もはや、人間と環境とが不可分であることの客観描写というよりも、宗教的確信に基づく主体的決断であります。
その決断の根拠を、仏教では「一念」と呼んでおります。
「正報なくば依報なし」とは、その「一念」の地平をば、時間と空間の限界を超えた、宇宙大の「大我」にまで拡大せよ、との促しであり、更に言えば、その決 断にふさわしい生き方、大乗仏教で菩薩道と呼んでいる、「小我」を去って「大我」にのっとった生き方をも要請しているのであります。
とはいえ、主体的決断だけで終わっていたのでは、独我論や唯心論、あるいはファウスト的独尊にさえ陥りかねません。
そこで、仏典の後半部分では「正報をば依報をもつて此れをつくる」と、最新のエコロジー(生態学)的視点を先取りしたかのような補足がなされ、「依正」の 絶妙なバランスがとられているのであります。この環境への温かい眼差しによって、「正報なくば依報なし」との断固たる意志は、ほどよく融和され、人間と環 境とのダイナミックに相互浸透しゆく、真の「共生」の在り方へと止揚されているのであります。
さて、皆さまは、こうした仏教の「依正不二」論が、オルテガ哲学の精髄である「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救え ない」(『ドン・キホーテに関する思索』A・マタイス、佐々木孝共訳、現代思潮社)との命題に、驚くほど親近していることにお気づきだと思います。
「私は、私と私の環境である」という言葉は、「正報なくば依報なし」と同じように、自我の「大我」への広がりを志向していないでしょうか。
「環境を救わないなら、私をも救えない」という言葉からは、「正報をば依報をもつて此れをつくる」と同じような、共生へのベクトルが感じ取れないでしょうか。
従って、そのオルテガの「文明とは、何よりもまず、共存への意志である」(神吉敬三訳、前掲書)との言葉に、また、大思想家ウナムーノの「強者は、根源的 に強い人は、エゴイストになることができない。充分に力を有している人は、自らの力を他に与えるものなのだ」(「生粋主義をめぐって」佐々木孝訳、『ウナ ムーノ著作集――スペインの本質』所収、法政大学出版局)との言葉に接するとき、私はそこに、大航海時代以来、数百年の時の試練を経て、貴国の精神水脈を 流れ続けてきた「共生」のエートス、「世界市民」のエートスの一端を垣間見る思いがします。
それはまた、大乗仏教の精髄である菩薩道とも、深く通底しているのであります。
第三に「陶冶」という点に触れてみたい。
ここにも近代文明が忘失してきた盲点があると思うからであります。
近代の産業文明は、利便や効率、快適さなどの追求を旗印に、数百年間をまっしぐらに走り抜いてきました。その結果、空前の富の蓄積がなされ、物質的な側面 では、先進国の一般市民は、往昔の王侯貴族も及ばぬ生活が可能となりました。しかし、その代償として、いわゆる産業社会のトリレンマ(三者択一の窮境)と 呼ばれるもの――すなわち、(1)増え続ける人口を養う経済発展(2)枯渇する資源・エネルギー(3)環境破壊の三者が、互いに規制しあい矛盾しあうとい う複雑な連鎖構造など、多くの難題を抱え込んでいることは、周知の事実であります。
しかも、より深刻なことは、産業文明の進展が生命力の衰弱というか、内面世界の劣化現象を引き起こしてしまっているという事実ではないでしょうか。
利便や快適さを追うあまり、困難を避け、できるだけ易きにつこうとする安易さから、「陶冶」が、二の次、三の次にされてきたのが、近代、特に20世紀であります。
内面性の陶冶を怠ったことへの「しっぺ返し」を、最も痛切な形で受けているのが、旧社会主義国でありましょう。
私は現在、ゴルバチョフ元ソ連大統領と、雑誌で対談を進めておりますが、氏は、急進主義の誤りというかたちで、繰り返し、そのことに触れています。
「過激主義というのは、物事を単純に決めつけてしまうことへの誘惑と同じく、しぶといものです。二十世紀において、性急な決定や、すべての困難を一挙に解 決できる摩訶不思議な解決法がある、という単純な思い込みのために、人々は、どれほど辛酸をなめたことでしょう」また「"最も急進的な、革命的なものが、 変革と進歩をゆるぎないものにする"という、19世紀、20世紀の考えは誤りです」(『二十世紀の精神の教訓』潮出版社)――と。私も、全く同感でありま す。
フランス革命の動向に厳しい眼を注ぎ続けたゲーテの「内面的訓練の過程を与えずして、単にわれわれの精神だけを解放するような種類のものは、ことごとく有害である」(小島威彦訳、前掲書)との警句を、今、私は思い起こしております。
「内面的訓練の過程」――これ、すなわち、内面性の陶冶であります。
これをおろそかにし、制度の変革のみ先行することへの危惧は、フランス革命に対してバーク(イギリスの思想家)が、アメリカ革命に対しトクヴィル(フラン スの歴史家)が、ロシア革命に対しガンジーが、中国革命に対し孫文が、ニュアンスの違いこそあれ、一様に表明しているところであります。
そして現在、社会主義国に限らず、自由主義国も含め、世紀末の人類社会に横行する物質主義、拝金主義、倫理の崩壊は、彼らの危惧が、決して杞憂には終わらなかったことの証左であります。
オルテガが、60年以上も前に憂慮していた「慢心しきったお坊ちゃん」(神吉敬三訳、前掲書)の時代とは、さながら今日のことのようであります。
「人間革命」は人格錬磨の異名
古来、仏教では「忍辱」ということを修行の柱としてきました。
また、釈尊の臨終の言葉が、「怠ることなく修行を完成なさい」であったように、内面の陶冶や鍛えを、第一義的課題として重視してきております。
この点に関する日蓮大聖人の訓戒を、幾つか挙げてみましょう。
「鉄は炎打てば剣となる」(「佐渡御書」御書958頁)「闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし」(「一生成仏抄」御書384頁)
「いまだこりず候法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(「曾谷殿御返事」御書1056頁)このように、内面世界の陶冶や鍛えの勧めが、いずれも"剣""鏡""田と作物"などの具体的事例に寄せて述べられている点に、留意していただきたい。
これらの農作物や手仕事を特徴づけているのは、活字の世界などと違い、結果を得るまでの過程に少しの手抜きも許されない、つまり要領やごまかしの通用しない世界であるということであります。
例えば、田に育つ稲にしても、収穫に至るまでに、実に88段階ともいわれる手順を踏まなければならず、どれ一つ欠けても満足のいく結果は得られません。
名刀を鍛え上げるにしても、鏡を磨き上げる場合も、同じ道理であります。
そして、独り、人格や内面性の陶冶作業のみが、この道理の埒外にいられるわけはない。手抜きやごまかしは許されないのであります。
にもかかわらず、近代文明の申し子ともいうべき「慢心しきったお坊ちゃん」たちは、この道理に背を向け、楽をしよう、易きにつこう、簡単に結果を手に入れ ようとするあまり、オルテガの言う「真の貴族に負わされているヘラクレス的な事業」(神吉敬三訳、前掲書)などとは、縁なき衆生と化してしまった感さえあ ります。
その結果、旧社会主義国はもとより、"勝利"したはずの自由主義国にあっても、シニシズム(冷笑主義)や拝金主義の横行する「哲学の大空位時代」を招き寄せてしまいました。
その陶冶なき脆弱な内面世界と、未曾有の大殺戮を演じた二十世紀の悲劇的な外面世界とは、深い次元で重なり合っているように思えてなりません。
ゆえに、私どもは、人格の陶冶の異名ともいうべき「人間革命」の旗を高く掲げ、新たな人間世紀の夜明けを目指し、航海を続けているのであります。
以上、私は、21世紀文明構築のための要件と思われるものを「自律」「共生」「陶冶」の3点にしぼって申し上げてみました。それらが、煉獄のファウストの苦悩にとって、希望の曙光たりうるかどうかは、歴史の審判にゆだねる以外はないでしょう。
しかし、一歩を踏み出さずして、二歩も千歩もありません。私は一仏法者として、試練の歴史を生きる同時代人として、諸先生方とともに、全力をあげて、この未聞の開拓作業に汗を流してまいる決意であります。
最後に、貴国の偉大な精神的遺産である『ドン・キホーテ』の一節を申し上げ、私の話を終わらせていただきます。「遍歴の騎士は世界の隅々へ分け入るがよ い、およそこみいった迷路へ踏み入るがよい、一歩ごとに不可能なことに敢然と立ち向かうがよい、人住まぬ荒地の真夏の日の灼くがごとき炎熱に堪え、冬は風 雪の厳しい寒さに堪えるがよい」(「セルバンテス2」会田由訳、『世界古典文学全集』40所収、筑摩書房)
ご清聴、ありがとうございました。
