<スピーチ>1998年3月16日 青年部「3・16」記念大会(全文)

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1998年3月16日 青年部「3・16」記念大会での名誉会長のスピーチ

一、「3・16」。その魂は、盛大な儀式でもなく、格好のよい言葉でもない。
大事なことは、ただ一つ、「勝つこと」である。
人生も、広宣流布も、「勝つか、負けるか」、この二つしかない。
諸君は、断じて勝っていただきたい。どんなに言いわけしても、負ければ惨めである。バカにされるだけである。
一人残らず勝ち切って、堂々たる人生を飾っていただきたい。

不幸な一青年

一、きょうは、懇談的にお話ししたい。
40年前の3月。「3月16日」の式典に先立つ、ある日、ひとつの事件が起こった。
本山への記念総登山が行われていた。ところが、本山に殺人犯が紛れ込んでいるという知らせがきたのである。
静岡の伊豆で、老夫婦を殺害するという強盗殺人事件が起きた。その犯人が来ているという。
八方、手を尽くして探したが、手がかりをつかんだ時には、もう逃げてしまっていた。
このころ、戸田先生は、お体の具合が悪く、横になっておられたが、私が事件を報告すると、こう言われた。
「まことにかわいそうな事件だ。一番かわいそうなのは殺された老夫婦だ。その家族もかわいそうだ。お題目をあげてあげなさい。そして、殺した青年もかわいそうだ。一生、苦しむだろう」
やがて犯人の青年はつかまったが、殺されたほうも、殺したほうも、その家族も友人も知り合いも、皆が苦しむ――これを「地獄」という。
絶対に、そんな地獄をつくってはいけない。その反対に、皆を楽しくさせ、喜ばせ、幸福にしていくのが「仏法」なのである。
自分も幸福になる。七代前、いな、その前までの先祖も救える。子孫末代までも救い、栄えさせていける。それが仏法の大功徳である。
先生は言われた。
「本当にかわいそうだ。どんなことがあっても、人を殺すということは絶対にいけない!」
この厳しい一言を忘れることができない。
昨今は、いとも簡単に人を傷つけたり、殺したりする。
しかし、諸君は絶対に、正しき人生の軌道を歩むべきである。
大事な人生である。価値ある、充実の人生を生きている諸君である。これほど尊く、幸福な青春はない。
堕落した無価値・無意義な人生は、どんなに楽しそうに見えても、偉く見えても、空虚な人生である。悪であり、不幸である。
諸君は、聡明に「よき人生」を、そして「充実の人生」を生き抜いていただきたい。

「青年の世紀」が始まった

一、今回、日本はもとより、世界の青年部が「3・16」記念の行事を行っている。
「新しき世紀を創ろう!」――そういう青年の"熱"と"光"が、世界中に漲ってきた。
いよいよ「青年の世紀」が始まった――こう、私はうれしく見守っている。
わが青年部は、目覚ましい成長と拡大を遂げた。「よくやった」とたたえたい。
本格的な「青年部の時代」の到来である。

一、青年部の結成の日を思い出す。
場所は、小さな西神田の旧学会本部。
当時、他の宗教は立派な建物をもっていた。一番正しい創価学会が、一番みすぼらしい建物であった。
結成式に集ったのは、わずか百数十人の青年である。
その時に戸田先生は言われた。
「きょう、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長が現れるであろう」
「そのかたに、心からお祝いを申しあげておきたいのであります」
先生は、すべてを見通しておられたのである。
そこで、きょう、私は申し上げたい。
「今回、集まった青年部の諸君は、全員が創価学会の会長の自覚をもってもらいたい」と。
これからは、一人がすべてを担うという時代ではない。
これだけの大きな団体であり、多次元に、また世界と連動しながら広がっている大民衆組織である。
しかも何の権力もなく、たえず圧迫を受けながらの前進である。
一人や二人の力で、どうなるものでもない。団結しかない。
もちろん組織の機構上、会長という立場の人は決まっていくであろうが、実質は「全員が会長の自覚に立っていく」以外にない。
その自覚と責任、行動で、永遠に「広宣流布」へ、「民衆の勝利」へ、進んでいっていただきたいのである。
皆が喜び、皆が楽しく前進できる創価学会、そして恒久的な創価学会を築いていただきたい。これが諸君への私のお願いである。

広宣流布の永遠の流れを

一、諸君の使命は、大切な創価学会を「恒久化」することである。
「永久不滅の創価学会」を築くことである。
それ以外に、広宣流布の流れを永遠化することはできないからだ。
絶対に、学会利用の悪人に、かき乱されてはならない。見破っていかねばならない。

一、では、創価学会を永遠化し、広宣流布の永遠の流れをつくっていくには、どうすればよいのか。
それは、優秀な諸君自身が思索し、実行する以外にない。
また、あらゆる次元から論じることができよう。
それを前提にして、きょうは、根本的次元から、一端を語っておきたい。思索の糧にしていただきたい。

殉教の精神こそ

一、キリスト教は全世界に流布した。大いなる勝利といえる。
では、なぜ勝利したのか。
ローマ帝国という、当時の世界一の権力に対抗して、迫害また迫害、殉教また殉教の連続であった。
それなのに、結局は、大ローマ帝国を動かす「宗教界の王者」となった。
そして、ローマ帝国が滅亡した後までも、世界へと広まっていった。
なぜなのか。
実は、この「殉教の精神」があったから、勝利したと言える。
権力と妥協しなかったのである。
権力に服従した宗教は、やがて必ず奴隷化され、魂を失って滅びていく。これが歴史の鉄則である。
権力と戦う宗教だけが、"光"を出す。"力"を出す。形のうえで、勝とうが負けようが、「魂」は勝利しているからである。
ここから、次の時代へと広がっていく。
「殉教の精神」――これこそが根本である。
「一念三千」であるゆえに、この精神、この一念によってしか広宣流布はできない。

なぜキリスト教は広まったか

一、キリスト教は、初めは小さな、貧しい集まりにすぎなかった。だれも重要視していない。むしろ、バカにしていた。
そのキリスト教が、どうして、ここまで広がったのか。
これについて私は、トインビー博士と論じ合った。
博士は、宗教としては特に「大乗仏教」を高く評価しておられたが、それはそれとして、キリスト教の歴史的位置は大きい。
博士は、キリスト教が伸びたのは殉教の精神を貫いたうえに、「大衆の心を、とらえたからだ」と言っておられた。
大衆の心を、がっちりと、つかんだからこそ、いかなる権力にも、いかなる時代の変化にも負けない「基盤」を築くことができた、というのである。
さすがの慧眼である。
大衆が大事なのである。有名人、権力者、財産家、学者、そのほか、いわゆる"偉い人"が大事なのではない。
全部、大衆の幸福こそが目的である。ほかは手段である。
この根本を間違って、大衆を見下し、大衆を手段にする人間は、"偉い人間"どころか、悪人である。民衆の幸福の邪魔となる。
日本も、ここが転倒している。また転倒した頭で、学会を利用しようという人間もいる。
この転倒を正さなければ、「民衆の勝利」はない。

一人一人と同苦

一、では、どうして、キリスト教が、大衆の心をつかめたのか。
トインビー博士は「それには、三つの理由があった」として、こう論じている。
「第一に、大衆を、単なる『労働者』としてあつかわず、ひとりひとりを『魂をもつ人間』として、あつかったからである」
一人一人が大事なんだ、尊厳なる生命なんだ、魂をもつ人間なのだ――と。
「労働者」とか「下層階級」とか――そういうふうに"束ねて"は考えない。
"一人"を考える。"一人一人"を思いやる。
創価学会も、民衆一人一人の現実の苦悩に「同苦」してきた。
諸君のお姉さん・お兄さん、お父さん・お母さん、おじいちゃん・おばあちゃん――皆、そうである。
一軒一軒、弘教に歩いた。一人一人、いろいろな話を聞いてあげた。「一人」のために、それはそれは、大変な苦労を積み重ねてきた。
「自分も苦しかったんだよ」。あるいは「今も、苦しみと戦っているんですよ」と。
だからこそ、相手の苦しみがわかる。一緒に、悩みを乗り越えていこうと話ができる。
尊大ぶらない「同苦」の姿。これほど尊いものはない。
学会は、大衆をマスでとらえて「労働者階級」と見下したり、「貧乏人の集まり」と軽蔑する勢力とは、根本的に違う。
「人間」に、上も下もない。「生命」に、金持ちも貧乏人もない。すべて、日蓮大聖人のもとに平等である――という世界である。
草創期のキリスト教も、信仰のもとに平等であるという信念で、民衆の心の中へ飛び込んでいった。

「一番苦しんでいる人」のもとへ!

一、第二に――トインビー博士は指摘する。
「第二に、大衆のなかでも特に、自治体も帝国の政府も面倒を見ていない、一番苦しんでいる『孤児』『未亡人』『病人』『老人』の世話を、キリスト教徒たちが、したからである」と。
自治体も政府も面倒を見ず、苦しんでいる人々――そういう"一番苦しんでいる人々"の面倒を見た。
創価学会も、そういう人たちと、いつも接し、守り、その人たちのために戦ってきた。
そのために、学会は長い間、「貧乏人と病人の集まり」と侮蔑されてきた。
こういう心ない言葉に対して、ある海外の識者は厳しく言った。
「何を言うか。それこそ、本当の宗教ではないか。金もうけの宗教は、金持ちばかりを大事にするものだ。創価学会が、一番、貧しい人々の中へ飛び込んでいっている姿こそ、学会が、まことの宗教である証拠ではないか」
人間よりも金――多くの宗教がそうなっている。日顕宗が典型である。それを邪教と言う。
必ずや、日蓮大聖人からお叱りを受ける。三世十方の仏菩薩に見放される。そして衰亡の一途をたどっていくことは間違いない。
人間個人においても同じである。

私心なく、ただ教えのままに

一、トインビー博士いわく。
「第三に、キリスト教徒たちは、自分たちの支持者を増やそうという野心ではなく、私心を捨てて、ただ、キリスト教の教えのままに大衆の面倒を見た」と。
創価学会も、同じである。何の野心もない。野心など、持ちようもない。
ただただ「民衆を幸せにしよう」「日本の国を立派な文化国家にしよう」「世界を平和にしよう」という崇高な精神である。
仏教の真髄の教えの通りに、ひたすら実践してきたのが、学会員の皆さまである。
御本仏の御精神と一体なのである。
第一、学会員が増えても、私には何の得もない。かえって嫉妬が増え、圧迫が増えるだけである。
面倒を見ないといけない「扶養家族」が増えたようなもので、頑張ったからといって、よけいに月給が出るわけでもない。
しかし、広宣流布はやらねばならない。民衆を断じて幸福にしていくためには、前進する以外にない。
難に耐え、苦労に耐え、一切に耐えながら、人を救っていく以外にない。
これが仏法者の精神である。

「唯一の希望」

一、トインビー博士は、こう結論する。
「キリスト教が大衆の心を勝ち得たのは、要するに、どんな競争相手の宗教よりも、また、どんな政府や役所よりも、『大衆のために尽くした』からである」
つまり、当時の大衆にとっての「唯一の希望」は、キリスト教であった。政府でも、政治家でも、経済家でもなかった。
こういう草創期の基盤の上に、キリスト教は次の時代に一気に広まり、「集団改宗の時代」を迎えていくのである。
"新しき世紀"への基盤を、こうやってつくったのである。
<以上の観点については、トインビー博士の自著『歴史家の宗教観』(社会思想社)などに論じられている>

一、創価学会は、大衆に尽くし抜いてきた。今も尽くしている。
だから、大衆の心をつかんだ。これ以上に強いものはない。
「大衆に尽くしたから、勝った」。これが鉄則である。
諸君は、この歴史の教訓を、一生涯、忘れないでいただきたい。
きょう、諸君に教えたいのは、この一点である。

不惜身命の庶民こそ偉大

一、だれが一番偉いのか。「大衆」である。「庶民」である。
お金もなく、学問もなく、けれども本当に立派な人間が庶民の中にいる。
広布の鑑である「熱原の三烈士」も、まさに庶民の中の庶民であった。
現実に、だれが本当に一生懸命、弘教しているか。だれが一心不乱に広宣流布へ働いているか。
それは、ほとんどが婦人部であり、名もなき庶民である。
立派そうな肩書をもつ人間は、見栄を張って、捨て身で戦えない。戦えない人間の、どこが偉いのか。「仏法」の眼から見れば、「人間」の眼から見れば、何も偉くない。
それどころか、そういう人間は、尊き学会を自分のために手段にし、利用しようとさえする。恐ろしいことである。
戸田先生は、学会は、そういう人間を要職につけるなと厳しく遺言されたのである。

「人」で決まる

一、キリスト教の歴史に触れたが、もちろん「教え」や「法」には高低浅深がある。
そのうえで、現実には、「一番、大衆に尽くした」宗教が、一番、大衆の心をつかみ、一番、歴史に勝利する。
この原理、法則に則って、学会は発展してきた。
そして今、まさに次の"大発展の時代"――二十一世紀への基盤をつくっているのである。

一、「法」――「仏法」そのものは永遠である。
また、七百年前から、大聖人の仏法はあった。
しかし、その大法をもって、大衆に尽くしたのは、創価学会だけである。
宗門は、いばっていただけで、大衆のために尽くしていない。だから広宣流布もできなかった。
今の「世界広宣流布」の姿は、私たちが、くる日も、くる日も、「会員に尽くしてきた」から、できあがったのである。
私も四十年、五十年、毎日、朝から晩まで、会員に尽くしてきた。
その事実は御本尊が知っておられる。
自分のことではあるが、後世のために、あえて言っておきたい。
だからこそ日本一、世界一の学会になったのである。
簡単に考えてはならない。

牧口先生「下から上を動かせ」

一、今後、指導者が、できあがった基盤の上に、苦労もせず、会員のために生命を磨り減らすこともなく、要領よく泳いでいく――そのようになったら、おしまいである。
いな、今も、そういう人間はいる。そういう堕落の先輩は、諸君が手厳しく追及すべきである。
牧口先生は「下から上を動かせ」と言われた。
一番大切なのは「法」であり「学会精神である。それを守り抜くためには、上の人間を厳しく戒(いまし)めることが必要な場合がある。
何も恐れる必要はない。
組織が偉大であるから、号令ひとつで、何千、何万という人が動く。
その重大な責任を、指導者が簡単に考えるようになったら、とんでもないことだ。
そうなっては、学会には、もはや魂も生命もなくなる。
それでは、邪道になってしまう。
諸君がいるかぎり、絶対にそうはならないと私は信じる。

「大衆とともに」の心と心が共鳴

一、「大衆に尽くし抜く」という私の精神を、遠くから、じっと見ておられた人がいる。
それが中国の周恩来総理であった。
総理は言われた。
「創価学会は、大衆の中に広々とした基盤を持っている。創価学会を重視すべきだ」
総理も、やはり着眼点は「大衆」であった。
「大衆に尽くす」という私の心と、総理の心が結ばれて、日中の「金の橋」となったのである。
ゆえに、私は初めての訪中(1974年)に出発する時、羽田空港で内外に、こう宣言した。「貧乏人と病人と言われた人たちとともに、私はここまでやってきました。権力にもよらず。財力にもよらず」と。
空港には、多くの見送りの方、中国大使館の方もきてくださっていた。
この「学会の心」を諸君は「誇り」にしていただきたい。
「病人」のためにこそ、「貧乏人」のためにこそ、一番苦しんでいる人のためにこそ、宗教はある。
諸君、そうではないだろうか。
断じて、大衆を見下(みさ)げる、いばりくさった人間が大切なのではない。
私のこの魂――「大衆に尽くし抜く精神」を、諸君が立派に受け継いでもらいたい。

輝く瞳の中に太陽が、満月が!

一、今夜(3月16日)は満月である。
40年前の3月16日は、晴天で寒かった。秀麗なる富士が、参加者を見守っていた。
きょうは、はるかな天座から、美しき満月が、諸君を見守っている。師弟を見守っている。
先ほどまで曇って、満月は見えなかった。"青年部の会合は、いつも雨か曇り"という伝統を、きょうも厳然と守ったかと思ったが、最後に晴れたようで、おめでとう。
それにしても、諸君のキラキラと輝く目。
仏法では、両目を太陽と月になぞらえる。
仏法では、人間を「小宇宙」と説き、頭が丸いのは天球、髪の毛は星、眉は北斗七星(ほくとしちせい)になぞらえる。
満月が出ようと出まいと、諸君の目に「光」があれば、それが最高の「月」であり「太陽」なのである。

清く強い信心に「仏界」の月宿る

一、日蓮大聖人は、門下の清く強い信心を愛でられて、こう仰せである。
「経文には、『鬼神が、その身に入った者は法華経を信じません。釈迦仏の御魂が入りかわった人が法華経を信じるのです』と説かれています。
ですから水に月の影が映れば、水が清らかに澄むように、あなたの心の水に教主釈尊という月の影が入られたのであろうかと、私は頼もしく思っております」
<「経文には鬼神の身に入る者は此の経を信ぜず・釈迦仏の御魂の入りかはれる人は・此の経を信ずと見へて候(そうら)へば・水に月の影の入りぬれば水の清むがことく・御心の水に教主釈尊の月の影の入り給ふかとたのもしく覚へ侯」(御書1379ページ)>大切な教えである。
「悪鬼入其身(あっきにゅうごしん=悪鬼、その身に入る)」というが、昨今の世相を見ても、人々の心に鬼神が入ってしまったかのようである。
社会は乱れ、濁り、闇のようである。どこにも、心からの明るさがない。
<「鬼神」とは、生命の正常なリズムを狂わせ、人の生命力、功徳を奪う働き。思想の乱れ、正法への違背によって、この働きが起きる。
立正安国論には「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」という仁王(にんのう)経の文を引いておられる>
悪人、野心家、うそつき、信心利用のずるがしこい人間は、「悪鬼入其身」になってしまっているので、信心ができない。
それに対して、信仰者の心には、「釈迦仏」が入っている。
「釈迦仏」とは、大聖人のことであられる。
真の信仰者の胸中には、日蓮大聖人の生命が宿っているのである。尊いことである。尊敬し合っていかねばならない。

日蓮仏法は「庶民の側に立つ」

一、先日、フランスの青年部から、「『3・16』の決意を込めて」とのことで、一冊の本が届けられた。文豪ゾラの文章である。
つつしんで、御宝前に供えさせていただいた。
ゾラについては、これまで何回も、お話ししてきた。しかし、そこに収められた青年への烈々たる呼びかけを、重ねて皆さんに贈りたく、紹介させていただきたい。

一、ゾラは、ユゴーとならび称される、フランスの大文豪。
自然主義文学を代表する作家で、『居酒屋』『ナナ』『大地』などの作品は日本でも有名である。
彼は、"下層階級の赤裸々な生活を描くとき、真骨頂を発揮する"と言われる。
彼の人生は、「庶民の側に立って」戦う人生であった。
これを覚えてもらいたい。
大事なのは庶民である。
日蓮大聖人も庶民であられた。「民(たみ)が子」(御書1332ページ)であると胸を張っておられた。
当時の高僧は、ほとんど、貴族出身など高い身分であった。
しかし、大聖人は、あえて、家柄もなく、地位もなく、財産もない、最低の階層にお生まれになった。ここに重大な意義がある。
地位などで自分を飾ることは、インチキの生き方である。偉ぶって、庶民を差別する人間のどこが偉いのか。
真の仏法者は、虚飾をはぎ取った「人間としての偉さ」を追求する。

一、ゾラの人生は、決して順風満帆ではなかった。
七歳で父を亡くし、大学入試にも失敗。
進学を断念して、出版社に勤めながら、文筆活動を志した。
与えられた仕事は、書籍の梱包作業などの雑用ばかり。
しかし、その仕事に懸命に取り組みながら、小新聞に投稿を重ねていた。
地道な文筆活動を続け、遂には"19世紀最大のベストセラー作家"と称されるまでになった。

黙っておられるか!人間ならば

一、ゾラが晩年に遭遇したのが、ドレフュス事件という、有名な「冤罪事件」である。
何の罪もない人間が、軍部権力によってスパイ容疑をかけられ、遠島に流刑にされていた。
事件の背景には、国民の「反ユダヤ感情」を悪用した策謀があった。
ゾラは、黙っていることができなかった。
齢六十近くになっていたが、彼は正義のために、敢然と立ち上がった。
高齢にもかかわらず、「正義のために叫ぼう」と。
叫べなくなってしまえば、人間、おしまいである。その人は、「心」が死んでいる。
一、ちょうど今から百年前の一八九八年、彼は「オーロール(夜明け)」という新聞に、大統領への公開状を発表する。
大きく印刷された見出しは「われ、弾劾す!」であった。
大言論戦を展開したのである。
この闘争宣言は、権力の弾圧を呼び起こした。ゾラ個人への中傷の嵐が巻き起こったのである。
しかし、彼は動じなかった。くじけなかった。
偉い人は動じない。
ヨーロッパのことわざに「深い川は静かに流れる」と。また「臆病な犬ほど、よく吠える」という。
ふだんは静かに、どっしりとしている人物ほど、いざ立ち上がったら、とことん戦い続ける。口先ばかり達者な人間は、いざというときに弱いものだ。
迫害にも動ぜず、ゾラは叫び続けた。
知識人に、庶民に、そして青年に訴え続けた。
やがてゾラに応え、二十代を中心とした青年が、学生が、そして人々が立ち上がったのである。
<ゾラが訴え続けた努力は、事件の再審請求の署名として結実し、世論を高めていった>
そして、ゾラの死の四年後、ドレフュスの無罪が確定した。
歴史的な勝利であった。
ゾラの勝利であった。この闘争は、「人権の王者」の闘争として、今も語り継がれている。

「偉大な使命」を思い出してくれ

一、信じられるのは青年である。
年寄りの多くは、ずるく、臆病になり、要領ばかり使うようになる。
戸田先生は、おっしゃっていた。
「第三代会長は、青年部に渡す。牧口門下には、渡しません。なぜかといえば、老人だからです」と。
私も、戸田先生と同じ気持ちである。二十一世紀は、青年に託す以外にない。

一、ゾラは、戦いを開始するにあたって、まっ先に、青年に呼びかけた。
フランスの青年部が贈ってくださった本は、それを出版したものである。
〈『青年への手紙――ユマニテ(人間性)・真実・正義ドレフュス事件に寄せて』一八九七年刊〉
ゾラは言う。
「おお青年よ、若き君たちを待っている偉大な使命を思い出してくれ!
終焉を迎えつつある今世紀がもたらした『真実』と『正義』の課題を、来(きた)るべき新世紀が解決してくれるであろうと、我々は深く確信している。
そして、この新世紀の土台を築くのは、若き君たちなのだ!」
「青年よ、若き者たちよ!常に正義とともに立て!
若き君たちの胸中から、正義が消えうせてしまえぱ、その行く末は、社会の破滅である。
『正義』とは、単なる社会規範としての法律を言うのではない。
むろん法律は守るべきだ。しかし、もっと崇高なる正義があることを、忘れないでくれたまえ!」
私たちの精神も同じである。
良き社会人として生きながら、妙法という最高の「正義」を広めきっていく。
それが広宣流布である。
「正義」の炎が胸中に燃えている人を「青年」と呼ぶ。

崇高なロマンを、なぜ抱かぬか

一、ゾラは叫ぶ。
「正義を証明するために立ち上がり、純粋な心と誠意をもって高らかに叫べるのは、若き君たち以外に、だれがいようか!」
だれもいない。
青年しかいない。
「青年よ、若き君たちよ、我々とともに行動せよ。
無実の人間が恐ろしい刑に処せられることを憤り、苦しみ、胸が裂かれる思いの我々とともに!」
「この世のどこかに、『憎悪に押しつぶされんとする殉教者』がいることを知りながら、その人を弁護し、救い出そうという、ロマンあふれる夢を、青年よ、どうして抱こうとしないのか!」
"正義の人"が攻撃されている。それだけで、立ち上がるのは当然ではないか!との叫びである。それが「人間」である。それが「人間主義」である。
人間を見下す「権力の魔性」とは対極の精神である。
「正義という理想を掲(かか)げ、この崇高なロマンに挑戦し、危険を冒し、偉大なる大義に身を投じゆくのは、若き君たち以外にないではないか!
勇敢な情熱をもってなすべき使命を、年配者たちの手にゆだねていることを、恥だと思わないのか!」
「青年よ、いずこへ行かんとするか。
若き学生よ、いずこへ向かおうというのか」
「ユマニテ(人間性)、真実、正義の道を、ともに征(ゆ)こうではないか!」
この言葉を、私は、そのまま諸君に贈る。

「学会の勝利」が「民衆の勝利」

一、青年ならば「攻撃精神」がなければならない。
「破折(はしゃく)精神」がなければならない。
「拡大精神」がなければならない。
形だけをつくろって、"ことなかれ"でいくのは、ずるい「老青年」である。

一、ともかく、一番大切なのは妙法である。その妙法を広めているのは「創価学会」である。
ゆえに「創価学会」を守り、強くしていくことが、本当の「民衆勝利」になっていく。あらゆる戦いは、そこに焦点があり、目的がある。
これを忘れずに、青年部諸君、全力で「大勝利」しましょう!

一、来年の「3・16」を心から楽しみにしつつ、皆さまの目覚ましい活躍に「ありがとう」と申し上げ、私の話を終わりたい。
諸君の健康と活躍と成長を、私は朝な夕なに祈っていますから、安心して戦ってください。
ありがとう!

(聖教新聞より転載)


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