2003年3月アーカイブ

「人生は素晴らしい」第二部 第6回 中国科学技術大学 朱清時学長
(聖教新聞2003年3月2日付掲載) 


「学問は人格なり、人間愛なり」
「魂なき知識人」は有害
出世主義も! 権威主義も! 冷笑主義も! 知性の鍛えがない証拠
教育で勝つ! 中国の大改革
世界のトップを目指せ! 教師も!学生も!命がけで勉強が学風

郭沫若先生には怒りがあった。いったい、どうしたのだ、日本の学者は!
多くの学者が、どうして、ここまで権威主義なのか。傲慢なのか。ずるいのか。
郭沫若先生--言うまでもなく、近代中国文学の巨人である。詩人であり、歴史学
者であり、文化界の指導者であり、周恩来総理の盟友であり、「中国科学技術大
学」の初代学長でもあられた。
先生は日本の裏も表も知り尽くしておられた。なにしろ戦前、二十年間も日本に
住まわれたのである。はじめの十年間は留学生として、東京、岡山、福岡で。後
の十年問は、千葉の市川に一家で静居する亡命者として。
市川で先生は、警察や憲兵の監視に苦しみながら、中国古代社会の研究を続けた。
突然に引っ張られて留置所に入れられたこともあった。
憲兵は、しょっちゅう傍若無人に家に入ってくる。先生は、ある日、思いあまっ
て抗議した。すると憲兵は答えた。「おれは支那の領土だって何だってすきなこ
とをしたいと思えばできるんだぜ、さあ! このおれをどうにかできるかい?」
何たることか、憲兵は「日本帝国主義の横暴さを、小規模ではあったろうが、十
分に形象化して」いた。(郭沫若『日本亡命記』法政大学出版局)
しかも、これが憲兵だけではなかったのだ。先生は、日本の"中国学者"の一部
の実態に触れて、驚いておられる。彼らは「充分に帝国主義的臭気を発散してい
た。中国の古典に対して、さほど確実な根底をもたずして、よくでたらめな怪論
をはくのだった」と。
たとえば「中国人に固有の文化はないと堅く主張していた」学者までいたのであ
る! 中国侵略を正当化する「学説」も、いくらでもあった。
時代の風潮に便乗し、明らかな事実まで曲げて恥じない御用学者。「このような
論調は、それが学術研究というよりは、むしろ帝国主義の軍国論調とでもいうべ
きものにふさわしい」(前掲書)
そんななか、郭先生の研究を、元老・西園寺公望氏が読んで称賛するという「事
件」が起こった。すると、学者たちの目の色が変わった。
「彼らは最初は私を水に落ちた鶏、私の著作を水の中の鶏糞としか見ていなかっ
た。ところが彼らの元老が称賛し、西欧の学界にも反響が生まれると、彼らは刮
目して見るようになった。まさに強きにつくこと、この上なしである。
強きにつく民族としては、日本人は世界一といわねばならない、と私は思う。中
国の学問を研究する一部のいわゆる『支那学者』は、中国文の句読を切ることさ
えできぬくせに、彼らの眼では徹底的に中国人を蔑視している。
ところが西洋の『支那学者』の横文字の著作にぶつかると、後生大事にありがた
がり、地にひれ伏して『マスペロ(Maspero)曰く』か、さもなければ『カールグ
レン(Karlgren)云う』である」(郭沫若自伝第五巻『続海涛集・帰去来』東洋文
庫)
傲慢と裏腹の卑屈さ。なぜ、ここまで権威に弱いのか? なぜ自分で確かめ、自
分の頭で判断しないのか? それが知性というものではないのか? 学問をしても
人格が高まらないのは、なぜなのか?

◇奴隷の学問を超えて

思い出すのは、インド哲学研究の泰斗であった日本の中村元博士の直書である。
博士は、日本の学界の長年の傾向について、強い言葉で警告された。外国の著名
な権威にひれ伏す「奴隷の学問」と言われてもしかたないのではないかと。
そして、その対極にある学者として、博士は、創価学会の牧口常三郎初代会長を
挙げられたのである。
牧口会長の価値論には「自分で考える態度が見られるわけですね。だから、そこ
は自主的で、己が主人だったわけですね。ところが、残念なことには大学の諸先
生は、西洋哲学に対してどこまでも隷属的な態度を取っていたのではないか。そ
こまで言ったら言い過ぎでしょうか」「つまり、日本の学者には自信がないとい
うことですね」(「比較思想研究」第15号所収「奴隷の学問をのり超えて」)
とことん自分で考え抜かない、ひ弱さ・不徹底・独立心のなさ。それでは創造と
いう苦行に耐えられるはずがない。権威と流行に従うだけの卑屈さから、大きな
人間愛が育つわけもない。
「身体を張ってでも守るべき思想がなく、外からとり入れた"有難い"権威や思
想の方にばかり目を向けていると、ついには自分の存在すらも、そちらに預けて、
いわゆる無節操な人間となってしまう」(S.K.ネトル、桜井邦朋著『独創が生ま
れない日本の知的風土と科学』地人書館)
郭先生には、こういう日本の学者の態度が、"列強に対しては卑屈で、中国に対
しては高圧的な"政治の態度と共通するように見えた。これは「同一の国民性の
表現」ではないか!
十年の亡命を終えて、ひそかに日本を脱出し、中国に帰られてからも、こんな体
験をしておられる。
一九三七年(昭和十二年)九月、日本軍が南京を爆撃した。事前に、"危険なので
外国人は退去するよう"日本は通達した。郭先生は激怒した。通達には、日本人
が「弱いと見ればかさにかかり、強いと見れば尻尾を振るものであることがあま
すところなく示されている。中国人は与し易い、数十万、数百万を殺してもかま
いはしない、しかし外国人には手が出せないというのだ! 日本人は外国人の前
では侏儒であり、中国人の前では仁王様だ」(自伝第五巻)
郭先生は戦後、中日友好協会の名誉会長として、民間交流に尽くされた。日本の
指導的地位にある人については「みなえらがっているのですね、えらそうにひじ
を張って」と厳しかった(南原繁氏との対談で)。
しかし庶民には実に優しく、来日中も、車を使うたびに、いちいち運転手さんに
丁重にお礼を言い、運転手さんの個人的な悩みごとまで聞いてあげる方であった。
また、平和を愛する日本の青年や文化人とは、笑いのたえない、まことに和やか
な交流を重ねられたのである。
「学問は人格なり」「学問は人間愛なり」。郭先生の振る舞いから、その信念が
にじみ出ていた。」

◇あの慈愛を忘れません

「郭沫若先生が学長の時代に、私は学生でした」。中国科学技術大学の朱清時学
長は、なつかしそうに思い出を語ってくださった。
「思いやりの深い先生でした。忘れもしません、あれは一九六四年の春節(中国
の旧正月)でした。郭先生は、ご自分の原稿料から学生全員に『一元のお年玉』
をくださったのです! 学生の一カ月の生活費が十元だった時代です。ありがた
かった。忘れられません」
こんなこともあった。朱学長の同級生に、成績がふるわない学生がいた。郭学長
は心配し、渾身の励ましを書いて送った。学生は胸を熱くした。国家の要職をい
くつも兼任する多忙な郭先生が、一介の学生の自分に、ここまで--。彼は発奮し
た。勇んで学問に集中し、後に東北地方のある市の市長になった。
朱学長は「わが大学では郭先生の書の作品を大切に保管し、先生の執務室も、そ
のまま保存しています」。
郭先生に対して、深い事情も知らず、知ったかぶりの批判をする者もいたが、教
師も学生も、そんな妄言は許さなかった。
「先生は、わが大学の根っこの存在ですから! 今も、卒業式など何かにつけて、
学生たちは真っ先に先生の銅像のもとへ行って記念撮影するのです。それほど郭
先生は大学で慕われているのです。その精神を偲んでいるのです」
〈学生こそ宝>との精神は今も。以前、科学技術大学には暖房がなかった。冬の
寒さはつらかった。やっと中国科学院の特別予算が出た。その時、大学側は暖房
をまず学生宿舎と教室につけた。「われわれのことは後でいいんだ」。教員宿舎
に暖房がついたのは三年後であった。

◇民の叫びが聞こえぬか

ある時、朱学長に学生が質問した。「人生の成功とは何でしょうか? 富を得る
ことでしょうか? 社会的地位でしょうか? 成功をはかる基準はあるのでしょう
か?」
学長は答えた。「成功の基準とは、その人が、社会に対して良い影響を与えたか
どうかです。したがって富イコール成功ではない。地位イコール成功でもはい。
その人が、民衆に対して大きな貢献を果たしたという事実こそ真の成功なのです」
何げない答えのようで、ここには出世主義を打ち破る明快な思想が述べられてい
る。どんなに地位があろうと、現実に価値創造していなければ、何の意味もない。
かえって、真面目な人の邪魔になる。
知識も同じである。「何のため」の知識か。朱学長は、私がアインシュタイン博
士の言葉に触れると、激しく反応された。「宗教なき科学は、まっすぐ歩けない。
科学なき宗教は目が見えない」という言葉である。
「この言葉が、私に本当の学問を教えてくれたのです! どんなに科学が進歩し
ても、人間の『美しい心』をつくることはできません。知識があっても、魂がな
い。その結果が、環境問題その他の危機なのです!」
そのアインシュタイン博士の講演を実は郭先生も聴いておられる。一九二二年
(大正十一年)、来日した博士は福岡でも講演したが、この時、郭先生は「九州帝
国大学の医学部」の学生だったのである。その献月、牧口先生、戸田先生は、東
京で博士の講演を聴いておられる。
宗教と科学。魂と知識。両方があって真の文明人となる。
「開明とは、精神の物質に打ち勝つ現象なり」(岡倉天心)。名利や物質欲に負け
る人間は「開明」されていない野蛮人だというのである。
中国の大知識人には、地位にとらわれるような野蛮はなかった。民衆を見下す冷
笑もなかった。理想に殉じゆく静臓があった。郭先生は革命の同志が次々と殺さ
れ、過労死していく中、教育者の友の葬儀で詩を朗読した。(「陶行知を悼む」
郭沫若選集』第五巻「郭沫若詩集」雄渾社)
「泣くなといわれても泣けてくる。黙っていろといわれても黙ってはいられない」
「君は着る物も食べる物も住む家も質素だった。一切をなげうって貧苦の若者た
ちと一体となった」
「君は人民の苦難を知るのみ、
 一身の栄達は図らなかった、
 だが一身の栄達を図る者どもは
 君を仇敵視した」
「泣くなといわれても泣けてくる。黙っていろといわれても黙ってはいられない。
われらは君のことだけではなく、人民のことを泣くのだ。中国の人民はどうして
こんなに酷い目にあわねばならぬのか」
「いっそわれらの涙で全国の人民をよびさまそう、中国を救いあげ平和を救いあ
げ教育を救いあげねばならぬ、そのためとあらば幾たび死のうとわれらは悔いな
い」
郭先生のこの熱き思いが、中国科学技術大学に注がれたのである。一九五八年、
創立。新中国の期待を一身に担っての出発であった。
--どれほど多くの同志が、どれほど多くの無名の英雄が「中国を救いあげ平和を
救いあげ教育を救いあげ」るために死んでいったことか。
今、平和な大学にあって、存分に活躍できる君らよ、その人たちの思いを忘れる
な!
名もいらぬ、富もいらぬ、民衆のためならば、若者たちのためならば、安穏もい
らぬ、命もいらぬと犠牲になっていった幾多の大学者たちの血涙を忘れるな!
その人たちに代わって、その人たちの分まで、建学の理想のために尽くして尽く
して尽くし抜いて死んでいくのが、人間の道ではないか! それがわかるのが本
当の「知性」ではないか! そんな当たり前の道理もわからぬ人間が、否わかろ
うともせぬ人間が、教壇に立つ資格があろうか。道理もわからず、先人の苦闘も
わからず、民衆の必死の思いもわからずに、一身の栄達と安楽のみを考えるよう
な人間は、わが大学にはいらぬ!
この郭先生の叫びが怒涛のごとく、わが胸に押し寄せてくる気がする。
朱学長は語る。
「中国では、こう言います。『科学技術大学に行くには命を賭けねばならない』。
それほど厳しいのです。なぜ、そうなったか。それは中国科学院の郭沫若院長が
初代学長であり、教授陣にも『院士(アカデミー会員。日本の学士院会員か日本
学術会議会員に相当)』級の人が集まって、それはそれは真剣そのものだったの
です。教授たちは自分自身に厳格な研究を課していました。そういう人たちが学
生にも非常に厳しい要求を課した。学生もそれに応えようと必死で勉強し抜いた
のです」
一週間以上も寮に帰らず、ずっと教室で勉強に没頭する学生たちがいた。「われ
われは真剣なのです! 死にもの狂いなのです!」。学生の強い要望で、図書館
も常時使用できるようになった。激しい競争。徹底した実力本位。郭先生は厳し
かった。「教師が怠け始める時、教育は腐り始める」と見抜いておられた。
「人の上に出ることは愉快だ。しかし努力することは苦しい。そこでうまいこと
をしようと思って、人より立ちまさっていないくせに、立ちまさっているかのご
とく虚勢を張るものがでてくる。それどころか、さらに進んで、おのれより立ち
まさっているものを陥れる。こうなったら、それは虚偽だ、罪悪だ、堕落だ。こ
の人間の怠け根性こそが、人問の身につけている堕落のたねなのだ」(『郭沫若』
第六巻巻・史劇「屈原」)
怠けずに、本物の実力を磨け! 建学の理想だけは断じて実現せねばならないの
だ! そのために「世界のトップを目指せ!」。
今、同大学は「超微細技術(ナノテクノロジー)」の分野で過去五年の論文数が世
界第二位。「ロボット工学」でも名高い。学生の求人も引く手あまた。アメリカ
留学の割合は中国一。もちろん英語の実力も、ずば抜けている。

◇急ぐのだ、急ぐのだ!

あの文化大革命の十年を乗り越えた時、トウ小平氏は教育の立て直しを急いだ。
しかし反対意見が出た。「十年間ものブランクを、急には取り戻せません」
トウ氏は声を高くした。「待つ時間はない! 十年のブランクがあったからこそ
急ぐのだ。一刻も早く教育を振興させなければ中国の近代化は絶対に進まない」
「急ぐのだ、急ぐのだ!」(遠藤誉著『中国教育革命が描く世界戦略』厚有出版)
郭先生は欣喜雀躍した。さあ、いよいよ教育革命だ! 春が来た。春が来たのだ。
「これは革命の春、これは人民の春、そしてこれは科学の春なのです。両手をひ
ろげて、この春の日を熱烈に抱こうではありませんか!」(一九七八年、全国科
学大会での講演から。前掲書)。
郭先生は、この春光を抱きしめながら、二カ月後に逝去された。八十五歳だった。
そして中国は「教育を制覇する者が、二十一世紀を制覇する」と宣言(九三年の
「中国教育改革と発展綱要」)。学生の能力を極限まで引き出すために知恵をし
ぼった。産業と大学を結びつける一方、そのために基礎科学が衰退しないよう国
が保護するなど、大胆にして柔軟である。
日本が根拠なき優越感にひたっている間に、中国は待ったなしの教育革命に乗り
出し、世界の先端へと加速して疾走しつつある。「形式優先の日本のほうが社会
主義みたいです。これでは活気が出ないのでは?」とは同大学の方の声である。
ともかく努力また努力。希望は、そこからしか生まれない。朱学長は大学卒業後、
文革のために、チベットの近くの青海省に「下放」された。五年以上の労働生活。
最悪の環境で、歯を食いしばって勉強を続けた。その苦闘が、後で生きた。
今、学長は学生に語る。「努力を止めてはなりません。たとえ『希望が見えない』
時でも! 努力の人だけが、チャンスが来た時に、それをつかめるのだから!」
知性の人は、他人を妬まない。力ある人は、力ある人を大事にする。
学長には三十歳の助手がおられるそうである。「実は、助手のほうが私より給料
が高いんです。どうしても彼にいてほしいからです。大学のためならば、自分以
上の給料を出してでも、人材を確保したいのです」
ああ、私心なき人材愛! この美心の中に、中国の春が舞っている。


朱清時(しゅ・せいじ)学長は1946年生まれ。「分子化学」が専門で、最年少で中
国科学院院士に。英国ロイヤル化学学会会員、東アジア地域研究型大学学長連合
会副主席。98年から母校・中国科学技術大学の学長に。環境に負担をかけない
「グリーン・ケミストリー」の主導者。海外11大学・研究機関で客員教授も。

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