歴史の巨人との出会い
歴史家・アーノルド・ジョセフ・トインビー博士
人間同士の関係こそ未来を築く
創価学会名誉会長・池田大作
「二十世紀最大の歴史家」と呼ばれるアーノルド・ジョセフ・トインビー博士は、従来の西欧中心史観を乗り越え、世界史全体を偏らない目でとらえ直す独自の史学を打ち立てた。トインビーの学者としての原点は、彼が二十歳代半ばに勃発した第一次世界大戦であった。この戦争で、トインビーはオックスフォード大学時代の仲間の約半数を失っている。トインビーの書斎には、晩年に至るまで、その亡き学友たちの写真が飾られていたという。この悲痛な体験から、トインビーは「悲劇を繰り返さぬため」の歴史学を築き上げることを決意。それが後に、一国に偏らないトインビー史学として結実したのである。
「国家に対してではなく、人類に対してこそ最大の忠誠心を払う」――それが、トインビーの学者としての信念であった。トインビー史学の先駆性は、経済などあらゆる分野で国境が意味を失いつつある二十一世紀のグローバリズムの時代にこそ、いっそう光彩を放っている。
「今、人類に必要なものは、時間と平和です」
一九五六年の秋十月、横浜港に入られた大歴史学者トインビー博士の言葉である。
来日早々、神奈川県での記者会見に、博士はベロニカ夫人と共に臨まれた。そして、二十世紀文明の性急さを憂慮しつつ、人類がじっくりと冷静に思索し対話して、家族のように平和共存しゆく未来を展望されたのである。
第一次世界大戦で、博士は多くの友人を失った。戦争や民族対立の愚行は、なぜ繰り返されてしまうのか。その解決の道を求め、あくなき知的格闘を貫かれたのが、博士の生涯である。
もう三十年以上も前、私は、博士からロンドンのご自宅にお招きいただき、二年越し延べ四十時間にわたって対話を重ねた。新緑まばゆい、イギリスの五月の花の季節であった。
時に博士は八十三歳、私は四十四歳。連日の対話の疲れもみせず、終始、柔らかな笑みをたたえながら話を続けられた。
そんな博士の表情が一変したのは、歴史家としての責務と信念について語られた時のことであった。眼鏡の奥に光る、厳しく鋭い眼差しを、今も忘れることができない。
「かつて私は、学問の自由という倫理上の原則を守るため、大学での地位を辞さざるをえなくなったことがあります」
一九一九年に「ギリシャ・トルコ戦争」が勃発すると、博士は公平性を期すべく、ギリシャとトルコの双方に足を運び、実態調査を進めた。しかし、そこで自分が調べた事実を新聞で発表するやいなや、その内容が"トルコ寄り"として轟々たる非難を浴びる。ロンドン大学の教授職まで追われることとなった。
「実情をこの眼で確かめてきた以上、ありのままに事実を発表することはもとより、この問題の正邪についての私見を表明する道義上の義務があると感じました」。凛とした碩学の声に、私は、真の知性の勇気とは何かを垣間見る思いがした。
調査を終え、イスタンブールからの帰路、列車に揺られながら一枚の紙片に書きつけたメモ。これこそ、後にライフワークとなった『歴史の研究』の構想を記したものであった。
博士は、このメモを骨格に、忍耐強く研究を続け、旧来の西欧中心史観を打ち破る、新たな人類文明の史観を打ち立てられたのである。
対談の最中、「ちょっと失礼」と席を立たれ、書斎に向かわれたことがあった。
戻られた博士の手には、一冊の書籍が抱えられていた。その前年に発刊されたばかりの『図説・歴史の研究』である。本の扉を開くと、「私にとってきわめて大切な二人の友情と、二人が人類同胞に向ける共通の関心とのささやかなしるしとして」と、私との交友を認めてくださっていた。
四十年もの歳月を費やした畢生(ひっせい)の大著『歴史の研究』は、高い評価とともに、異論や批判も浴びた。博士は、それらを踏まえて再考察を加え、ご自身の歴史研究を集大成していかれた。こうして完成したのが、この『図説・歴史の研究』であった。
人生も、社会も、文明も、試練の「挑戦」に、勇敢に「応戦」していくところに、新たな創造があり、発展があり、飛躍がある。
この「挑戦と応戦」の自説そのままに、博士は、理不尽な誹謗中傷の嵐にも、波瀾万丈の苦難の運命にも、敢然と立ち向かわれた。そして、堂々と勝ち越えられたのである。
一九五六年の来日も、『歴史の研究』の改訂を目的とした、世界一周の旅の途上であった。香港から横浜に入られ、以後、二カ月間にわたって、日本全国を精力的に回られた。
もし自身の研究に不備があるとするならば、実際に現地に足を運んで補う――これが、大誠実な学者の根本姿勢であった。
北海道から九州に至る各地を訪れるに際しても「飛行機ではなく列車での移動を希望され、往きと帰りは違う路線にすることを所望された。道中、少しでも多くの場所を、自分の目で直接見ておきたいという研究心の発露からである。
「一時間」という日本語の一単語だけを頼りに、山道を歩まれたこともあるという。指を一本、二本と立てながら、次の村まで何時間かを尋ねていかれたのである。
そうした実地経験に基づく文化理解は、博士の深く温かな人間理解に通じていた。
「どんな宗教、国籍、あるいは人種の人とでも、その人と個人的に付き合えば、かならずその人が自分と同じ人間であるとわかるものである」
ゆえに博士は、人間の心を結ぶ「対話」の重要性を誰よりも強く認識されていた。対談の結びに当たって、私に遺言の如く「あなたはまだ若い。これからも世界の知性との対話を進めてください!」と期待を寄せてくださった。
二人の対談集『二十一世紀への対話』を上梓した一九七五年、博士は八十六歳で逝去された。
以来、私は、博士の心を心として、世界各国の人々、さまざまな文化的背景を持つ方々と、あらゆる機会に、数多くの語らいを重ねてきた。「どんな人であろうと、みな同じ人間である」との博士の信念は、私の偽らざる実感でもある。
「文明の衝突」ではなく、「文明の対話」が求められている現在、人類共存の道を探究された博士の思想は、益々輝きを増している。
かつて日本での講演で、博士は訴えられた。
――人間的な事象のうちで、特定のパターンが存在しないと思われるのは、人格と人格の間の邂逅であり、接触の分野である。この邂逅と接触のなかから、真に新しい創造と言える何かが発生するのだと思う、と。
歴史は運命論的に進むものではない。時流も動かし難いものではない。人類の命運を悪化させるか、それとも好転させるか。それは、まさしく現代を生きる私たちに、ゆだねられている。なかんずく、人格と人格との出会いによって生み出される新たな価値の創造こそが、時代変革の突破口となる。「文明の対話」も、一対一の人間同士の対話から始まるのだ。
「さあ、対話しましょう! はるかな未来のために」――今日も、あのトインビー博士の声が、私の胸に響いてくる。
歴史家 アーノルド・ジョセフ・トインビー
19世紀まで、歴史学の単位は一国家・一民族であり、「わが国の歴史」を考察したものでしかなかった。それに対し、トインビーは「文明」を歴史の単位に据え、文明の比較研究から世界史を考察する新しい史学を築き上げた。独創的であったからこそ、トインビー史学は、ときに他の歴史家から批判も浴ぴたが、いまでは「20世紀最大の歴史家」との評価が確立している
聖教新聞2004年8月26日付
歴史家・アーノルド・ジョセフ・トインビー博士
人間同士の関係こそ未来を築く
創価学会名誉会長・池田大作
「二十世紀最大の歴史家」と呼ばれるアーノルド・ジョセフ・トインビー博士は、従来の西欧中心史観を乗り越え、世界史全体を偏らない目でとらえ直す独自の史学を打ち立てた。トインビーの学者としての原点は、彼が二十歳代半ばに勃発した第一次世界大戦であった。この戦争で、トインビーはオックスフォード大学時代の仲間の約半数を失っている。トインビーの書斎には、晩年に至るまで、その亡き学友たちの写真が飾られていたという。この悲痛な体験から、トインビーは「悲劇を繰り返さぬため」の歴史学を築き上げることを決意。それが後に、一国に偏らないトインビー史学として結実したのである。
「国家に対してではなく、人類に対してこそ最大の忠誠心を払う」――それが、トインビーの学者としての信念であった。トインビー史学の先駆性は、経済などあらゆる分野で国境が意味を失いつつある二十一世紀のグローバリズムの時代にこそ、いっそう光彩を放っている。
「今、人類に必要なものは、時間と平和です」
一九五六年の秋十月、横浜港に入られた大歴史学者トインビー博士の言葉である。
来日早々、神奈川県での記者会見に、博士はベロニカ夫人と共に臨まれた。そして、二十世紀文明の性急さを憂慮しつつ、人類がじっくりと冷静に思索し対話して、家族のように平和共存しゆく未来を展望されたのである。
第一次世界大戦で、博士は多くの友人を失った。戦争や民族対立の愚行は、なぜ繰り返されてしまうのか。その解決の道を求め、あくなき知的格闘を貫かれたのが、博士の生涯である。
もう三十年以上も前、私は、博士からロンドンのご自宅にお招きいただき、二年越し延べ四十時間にわたって対話を重ねた。新緑まばゆい、イギリスの五月の花の季節であった。
時に博士は八十三歳、私は四十四歳。連日の対話の疲れもみせず、終始、柔らかな笑みをたたえながら話を続けられた。
そんな博士の表情が一変したのは、歴史家としての責務と信念について語られた時のことであった。眼鏡の奥に光る、厳しく鋭い眼差しを、今も忘れることができない。
「かつて私は、学問の自由という倫理上の原則を守るため、大学での地位を辞さざるをえなくなったことがあります」
一九一九年に「ギリシャ・トルコ戦争」が勃発すると、博士は公平性を期すべく、ギリシャとトルコの双方に足を運び、実態調査を進めた。しかし、そこで自分が調べた事実を新聞で発表するやいなや、その内容が"トルコ寄り"として轟々たる非難を浴びる。ロンドン大学の教授職まで追われることとなった。
「実情をこの眼で確かめてきた以上、ありのままに事実を発表することはもとより、この問題の正邪についての私見を表明する道義上の義務があると感じました」。凛とした碩学の声に、私は、真の知性の勇気とは何かを垣間見る思いがした。
調査を終え、イスタンブールからの帰路、列車に揺られながら一枚の紙片に書きつけたメモ。これこそ、後にライフワークとなった『歴史の研究』の構想を記したものであった。
博士は、このメモを骨格に、忍耐強く研究を続け、旧来の西欧中心史観を打ち破る、新たな人類文明の史観を打ち立てられたのである。
対談の最中、「ちょっと失礼」と席を立たれ、書斎に向かわれたことがあった。
戻られた博士の手には、一冊の書籍が抱えられていた。その前年に発刊されたばかりの『図説・歴史の研究』である。本の扉を開くと、「私にとってきわめて大切な二人の友情と、二人が人類同胞に向ける共通の関心とのささやかなしるしとして」と、私との交友を認めてくださっていた。
四十年もの歳月を費やした畢生(ひっせい)の大著『歴史の研究』は、高い評価とともに、異論や批判も浴びた。博士は、それらを踏まえて再考察を加え、ご自身の歴史研究を集大成していかれた。こうして完成したのが、この『図説・歴史の研究』であった。
人生も、社会も、文明も、試練の「挑戦」に、勇敢に「応戦」していくところに、新たな創造があり、発展があり、飛躍がある。
この「挑戦と応戦」の自説そのままに、博士は、理不尽な誹謗中傷の嵐にも、波瀾万丈の苦難の運命にも、敢然と立ち向かわれた。そして、堂々と勝ち越えられたのである。
一九五六年の来日も、『歴史の研究』の改訂を目的とした、世界一周の旅の途上であった。香港から横浜に入られ、以後、二カ月間にわたって、日本全国を精力的に回られた。
もし自身の研究に不備があるとするならば、実際に現地に足を運んで補う――これが、大誠実な学者の根本姿勢であった。
北海道から九州に至る各地を訪れるに際しても「飛行機ではなく列車での移動を希望され、往きと帰りは違う路線にすることを所望された。道中、少しでも多くの場所を、自分の目で直接見ておきたいという研究心の発露からである。
「一時間」という日本語の一単語だけを頼りに、山道を歩まれたこともあるという。指を一本、二本と立てながら、次の村まで何時間かを尋ねていかれたのである。
そうした実地経験に基づく文化理解は、博士の深く温かな人間理解に通じていた。
「どんな宗教、国籍、あるいは人種の人とでも、その人と個人的に付き合えば、かならずその人が自分と同じ人間であるとわかるものである」
ゆえに博士は、人間の心を結ぶ「対話」の重要性を誰よりも強く認識されていた。対談の結びに当たって、私に遺言の如く「あなたはまだ若い。これからも世界の知性との対話を進めてください!」と期待を寄せてくださった。
二人の対談集『二十一世紀への対話』を上梓した一九七五年、博士は八十六歳で逝去された。
以来、私は、博士の心を心として、世界各国の人々、さまざまな文化的背景を持つ方々と、あらゆる機会に、数多くの語らいを重ねてきた。「どんな人であろうと、みな同じ人間である」との博士の信念は、私の偽らざる実感でもある。
「文明の衝突」ではなく、「文明の対話」が求められている現在、人類共存の道を探究された博士の思想は、益々輝きを増している。
かつて日本での講演で、博士は訴えられた。
――人間的な事象のうちで、特定のパターンが存在しないと思われるのは、人格と人格の間の邂逅であり、接触の分野である。この邂逅と接触のなかから、真に新しい創造と言える何かが発生するのだと思う、と。
歴史は運命論的に進むものではない。時流も動かし難いものではない。人類の命運を悪化させるか、それとも好転させるか。それは、まさしく現代を生きる私たちに、ゆだねられている。なかんずく、人格と人格との出会いによって生み出される新たな価値の創造こそが、時代変革の突破口となる。「文明の対話」も、一対一の人間同士の対話から始まるのだ。
「さあ、対話しましょう! はるかな未来のために」――今日も、あのトインビー博士の声が、私の胸に響いてくる。
歴史家 アーノルド・ジョセフ・トインビー
19世紀まで、歴史学の単位は一国家・一民族であり、「わが国の歴史」を考察したものでしかなかった。それに対し、トインビーは「文明」を歴史の単位に据え、文明の比較研究から世界史を考察する新しい史学を築き上げた。独創的であったからこそ、トインビー史学は、ときに他の歴史家から批判も浴ぴたが、いまでは「20世紀最大の歴史家」との評価が確立している
聖教新聞2004年8月26日付
