2004年10月アーカイブ

私どものボストン21世紀センターは、創立11周年を迎えました。

新たな10年の歩みの第一歩として、本年より"文明間の対話"のためのフォーラムを、ソロー協会の協力を得て開催することとなりました。

さらに日本からは、私の創立した東洋哲学研究所の代表も参加しております。

本年は、ソローの代表作である『ウォールデン』の発刊150周年に当たることから、「東西の結合の再覚醒――ウォールデンを超えて」を第1回のテーマとして掲げました。

ここボストンは、ソローがその半生のほとんどを過ごしたコンコードからもほど近く、アメリカ・ルネサンス発祥の天地であります。

21世紀の新たなルネサンスを人類にもたらすべく、東と西の"懸け橋"を結ばんとして、さまざまな文化と文明に詳しい識者の方々が、この地に集われた意義は、きわめて大きいといえましょう。

◇人間の「善性」を信じ呼びかける

今、世界は数多くの人類的課題に直面し、その未来は混迷の度を深めているといえます。

2001年の「9・11」から3年の月日がたちましたが、各地で頻発する暴力や無差別テロの連鎖はとどまるどころか、ますます激化する様相さえ示しています。


そこでは、憎しみと恐怖が増幅し、"分断と排除のエネルギー"が、人類を引き裂いています。

こうした悪循環を転換し、人間と人間を結合し、共生の人類文明を創出するカギは何か。

さまざまな次元からの考察が可能でしょうが、私は、今一度、民族や文化、宗教の違いを超えた"開かれた心による対話"の重要性を強調したいと思うのであります。

暴力の連鎖がもたらすものは、無理解と偏見、憎悪と対立であり、それらに共通するのは「対話の拒絶」だからであります。ゆえに事態が困難であればあるほど、対話への努力を手放してはならないでありましょう。

対話には、不信や憎悪で分断された心の壁を打ち破る力があると、私は確信しております。

ゆえに、たとえ時間がかかったとしても、人間に具わる「善性」を信じ、そこに呼びかけ、働きかけていく「文明間の対話」という地道な精神的営為を、あらゆるレベルで重層的に進めていくことが肝要ではないでしょうか。

国際的なテロ防止の制度づくりも、こうした人間精神の変革を促す「対話」の取り組み地球的な規模に広げてこそ、功を奏するに違いないと、私は思っております。

◇トインビー博士と「文明間対話」

さて、今日まで私は、各国の、さまざまな分野の方と語らいを重ねてきました。

私にとって、「文明間の対話」を進める出発点となったのは、今を去る30年余り前の、20世紀を代表する歴史家アーノルド・J・トインビー博士との対談でありました。

最初の出会いは、1972年の花咲く5月。博士から、「人類の直面する基本的な諸問題について、是非とも語り合いたい」との連絡をいただき、対談を行うこととなりました。

当時、博士は83歳。私は44歳でした。

私がかねてよりトインビー博士の思想に注目していた一つの理由は、その学説が、従来の西欧中心主義型の歴史観から脱却し、東洋文明にも深い考察を加えている点にありました。

周知のように博士の歴史研究は、人類史の総体を"文明の興亡"の視点からとらえ、新たなる世紀をも展望するスケールをもっていました。

中ソの対立が激しさを増し、一触即発の状況を呈していた当時、私もまた、一人の仏法者として、「人類が直面する基本的な諸問題」の解決の方途を真剣に模索していました。

仏法の哲理を基盤とした私の思想が、文化も宗教的な背景もまったく異なる博士から、どこまで賛同を得られるか。また、どこまでお互いに共感し合えるかが、私の大きなテーマでもありました。

歴史家として、また一人の人間として、人類の平和共存と幸福の道を模索しておられた博士と、あらゆる角度から人類の課題について議論を行いたい――。そうした思いで、私は「メイフラワー・タイム」(5月の花咲く季節)の緑したたるロンドンにうかがうことになったのです。

◇精神の変革こそ

対談に当たって私は、三つの大きなテーマを考えました。それは、「人間とは何か」「世界平和を実現する方途について」「生命の根源について」というテーマでした。

このようなテーマのもと、私たちの語らいは、哲学と宗教から、生命論、人間論、地球文明の未来、環境問題への挑戦、戦争と国際問題、健康と福祉等、多岐にわたりました。

私たちの共通の問題意識としてあったものは、"人類の生存を脅かす諸悪の根源は、人間の貪欲性と攻撃性に起因するものであり、いずれも自己中心性から発するものである。この自己中心性をいかにして克服できるかに人類の存亡はかかっている"という点でした。

そして私たちの対談は、自己中心性の克服は、それぞれの自我を拡大し、「永遠なるもの」「宗教的なるもの」との融合を目指すことにあり、このような個々の人間による精神的努力、精神の変革こそ、社会を向上させる唯一の効果的な手段であるという点で一致しました。

博士との対談から30年余、私は地球上のあらゆる文明・文化の間に"黄金の橋"を架けるため、一地球市民として世界を駆けめぐり、微力ながら「対話の道」を切り開いてまいりました。

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教やヒンズー教、道教、儒教をはじめとする世界のさまざまな文化的、宗教的、思想的背景を持つリーダーや識者の方々とも、対話を重ねてきました。

それらの対話を通して実感したことは、いかに異なる文明の中で生まれ、違った文化的背景の中で育ってきたとしても、すべての人間には、本来的に等しく豊か な「善性」が具わっている。その「善性」に呼びかけ、顕在化しゆく「対話」を機軸にすれば、相互理解は可能であり、問題解決の道も見つかるはずである、と いう確信でした。

◇「1本の矢」

私は、ソローが学んだハーバード大学で2度の講演(91・93年)を行いましたが、その中で、生涯を「開かれた心」による「開かれた対話」の実践に費やし た釈尊の「私は人の心に見がたき1本の矢が刺さっているのを見た」との言葉を引用しました。この「1本の矢」とは"差異へのこだわり"であります。

自分の内なる"他者への差別意識""差異へのこだわり"を克服して初めて、「人間」という共通の大地に立つことができる。そして、「人間」という普遍的な次元への深き眼差しは、そのまま「生命」のダイナミックな多様性への「共感」となって広がっていくものであります。

他者は、自分と異なっているからこそ、自分を豊かに触発してくれる存在である。そうした「開かれた心」で「開かれた対話」を展開していくとき、人々の多様性は尊重され、文明間の対話は一層豊かな実りを結んでいくのではないでしょうか。

エマソン、ソロー=アメリカ・ルネサンスの哲人に学ぶ

 「永遠なるもの」と「自己」の一体性

 人間には運命を変える無限の力が

トインビー博士=「自己中心性の克服」が人類の存続には不可欠

◇対話の先駆者

さて「文明間の対話」と言えば、新天地アメリカの地に、東洋の英知の光を最初に届け、東西の文明間対話の"黄金の橋"を架けた偉大な先駆者こそ、エマソンやソローなどアメリカ・ルネサンスの哲人たちでありました。

私は若き日、恩師である戸田先生から「エマソンは、しっかり読みなさい」と勧められ、『エマソン論文集』などを書架において、何度も繙きました。

私がソローを知るようになったのも、このような若き日の読書を通じてでありました。

エマソンやソローが生きた19世紀のアメリカは、若々しい自信に満ちていました。民主政治が進展し、産業革命が進行し、新社会建設の槌音は、広大な大陸に力強く鳴り響いていたに違いありません。

しかし、その一方で、産業革命がもたらした物質的繁栄とともに、精神的衰退への危機を、人類が初めて深刻な問題として認識し始めた時代でもありました。

このような時代にあって、エマソン、ソローら超絶主義者たちは、国家に対する個人の良心、大自然と文明の不調和、情報化の進展による混乱、経済至上主義が もたらす精神の荒廃など、今日、人類が直面している諸問題の"萌芽"を鋭く見つめ、それらを根本から解決しようと格闘したのであります。

その格闘とは、近代科学技術文明によってさまざまな次元で分断された「個」を、「調和」的に結びつけるための"機軸"を確立することであり、近代合理主義の閉塞を打破するためのものでもありました。
SGIの運動はアメリカルネサンスの精神を世界に実現

エマソン、ソローの思想と日蓮仏法 4つの主な共通点

◇東洋への関心

エマソン、ソローが問題解決のカギとして注目したのが、人間生命に内在する「偉大なる力」であります。

それは、エマソンがいう「大霊」「一なるもの」と一体となった個々の「精神」であり、ソローがいう「心の意識的努力」「心の秘密」でありました。

エマソン、ソローをはじめとするアメリカ・ルネサンスの哲人たちが、東洋思想に強い関心を抱き、学んでいたことは、刮目すべき史実であります。

1836年に発足した「トランセンデンタル・クラブ」のメンバーであったエマソンは、ソローとともに、ヒンズー教や仏教、「マヌ法典」などの東洋の古典を選定し、クラブの機関誌『ダイアル』に「諸国民の聖典」として紹介しています。

1844年の1月号には、法華経の薬草喩品が英訳され、『仏陀の説教』として掲載されています。

「西」から「東」への魂の探究の旅に出たエマソン、ソローらが、西洋近代合理主義のもたらす物質中心主義・経済至上主義に相対するものとして注目したの が、インドのウパニシャッド哲学やギーターの哲学、中国の儒教思想などに見られる「永遠なるもの」への深き洞察、生きとし生けるものとの「共生」の生き方 でありました。

分断された「個」を「調和」的に結びつける"機軸"となるのは、「永遠なるもの」「普遍なるもの」であり、それは「宗教的なるもの」でもあります「宗教的 (religious)」とは、その語源に立ち返れば「結びつける」の義であり、それは「個」と「超越」、「個」と「個」を結びつけるものであるからで す。

エマソンは、「どの民族にも、万物の根底に横たわる一なる者に想いをひそめたいと願う精神の持ち主がいるものだ」(『エマソン選集6 代表的人間像』酒本雅之訳、日本教文社)と、根源の英知を希求する思いを表明しています。

エマソンにとっての「宗教」とは、「永遠・普遍なるもの」を自己自身の生き方のなかに実践することでありました。

自身および世界の運命を外在的な超越者・絶対者から、一人の人間である自己自身の手に取り戻そうとしたものであるともいえましょう。

それ故にエマソンは、「梵我一如」として表現されるウパニシャッドの思想に、「大霊」と同じ次元の「無限なるもの」「一なるもの」への共鳴を感得したのではないでしょうか。

直観によって「大霊」と一体化しうると考えたエマソンは、個人の中に普遍性を見いだし、「自己信頼」の思想を打ち出しました。

エマソンにとって「自己信頼」とは、「大霊」と一体化しうるほどの無限の可能性を持った「自己」に対する信頼を意味しております。

そして、その「自己」とは、個人的な欲望を超越するとともに、絶対的な「神性」を内在した「自己」でありました。ここにエマソンの「人間尊厳」の根拠が示されています。

仏典(「ダンマパダ」)には、「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る」(岩波文庫『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳)という言葉があります。

ここでいう「自己」とは、エゴイズムに囚われた小さな自己(小我)ではなく、自我の奥にある大文字の自己、すなわち「大我」を指しています。

この「大我」とは、一切衆生の苦を自分の苦とする「開かれた人格」の異名であります。

利他の実践によって自己中心性を乗り越えつつ、現実社会の人々に向かって、慈悲の行動を繰り広げるのが、仏法で説く「大我」の生き方であります。

こうした「大我」の思想は、エマソンが「あらゆる部分や分子が平等に結びつく普遍的な美、永遠の<一なる者>」(岩波文庫『エマソン論文集<下>酒本雅之訳)と呼んだ「大霊」の概念や「自己信頼」の思想とも通底しているといえましょう。

このようなエマソンの「自己信頼」の思想をより深化させ、実践した人物がソローでありました。

ソローが森の中で送った簡素な生活は、古代の哲人が歩んだ賢者の道であり、「無限なるもの」「一なるもの」を深く味わいながら生きる「目覚め」の人生でありました。

ソローは、「英知を愛する思いのあまりに、その命じるままに生き、簡素と自立と寛容と信頼に基づく生を生きるということだ」(筑摩書房『ウォールデン』酒本雅之訳)といい、簡素なる生活によって、自由なる天地で、「大霊」と一体となった「自己」を顕在化して生きました。

『ウォールデン』には、孔子をはじめ多くの古代の哲人、賢人が登場しますが、ソローもまた、まさに、「賢者として生きた」のです。

「ウォールデン」の森を出るにあたって、ソローは述べています。

「もしもおのれの夢の方角へ自信に満ちて進み出て、想像どおりの生きかたを実行しようとつとめるなら、ふだんは予想もできぬ大成功に出会えるものだ。あれ これのものに別れを告げて、目には見えぬ境界を踏み越えれば、やがて普遍的で、もっと自由な新しい法則が、自分自身のまわりや内側にしっかりと定まって行 くことだろう」(前掲書)

ソローの「ウォールデン」での「自己信頼」の精神にもとづく「自己実現の道」は、「ウォールデン」を出てからも、さらに展開していきます。

ソローは、「目覚めた人」として「新しい道を開拓し、「夜明けの雄鶏」のごとく、近所の人の目をさましていったのであります。

やがてソローの思想は、インドのガンジーによる非暴力の独立闘争、ヨーロッパにおける反ナチスの抵抗運動、アメリカのキング博士の公民権運動、レイチェル・カーソン博士の環境保護運動などによって受け継がれ、世界的に結実していきます。

このようにエマソン、ソローが東洋の思想から得た「無限なるもの」「一なるもの」への共感と共鳴は、「ウォールデン」を超え、東と西、北と南の、あらゆる文化・文明をも超えて、グローバルな平和・人権・地球環境運動へと広がっていったのであります。

1.「生命の尊厳」に目覚めよ

現在、私はアメリカのソロ-協会の前会長であるボスコ博士、前事務総長であるマイアソン博士とてい談を行い、月刊誌『灯台』に連載しております。

私たちは、その中で、エマソン、ソローの思想と日蓮仏法に多くの共通点を見いだしております。

両博士は、SGIの理念と運動は、このアメリカ・ルネサンスの最良の精神性を体現し、世界に実現しようとするものであると高く評価してくださっています。

私は、それら共通点の中核となる4点を取り上げたい。

その第1は、「生命尊厳・人間尊敬」の思想であります。

これは、あらゆる生命に"尊厳性"が本来的に具わっており、すべての生命は平等に尊敬に値する、かけがえのないものであるとし、生命に無限の可能性と至高の価値を見いだす思想です。

私どもSGIは、東洋哲学の精髄である法華経の精神に基づいて、平和・文化・教育・人権の運動を展開しております。

法華経は、万人に「仏性」という至高の"尊厳性"が具わっており、それを開き顕すことこそ、人生の根本にして最大の目的である、と説き明かしています。

13世紀の日本に登場した日蓮は、法華経の精神の真髄を明かし、人間の"尊厳性"を輝かせゆく具体的な方途を示しました。

一方、エマソン、ソローの人間観では、「神性」という至高の"尊厳性"を認めています。エマソンのいう「自己信頼」の「自己」は「大霊」「一なるもの」と一体となった「精神」であり、深く「神性」に根ざしています。

また、「自己信頼」の精神を「ウォールデン」で試みたソローの賢者としての生き方は、「神性」が基盤となっております。それはソローの"宗教的自然体験"として提示されています。

2.万物が共生する「平和の文化」を

第2は、「万物共生」の思想であります。

ソローらが『ダイアル』に掲載した法華経の薬草喩品は、いみじくも、生きとし生けるものの多様性と、それを育む平等なる慈悲とが、「三草二木」のたとえとして高らかに謳い上げられている経文であります。

薬草喩品には、「一地の生ずる所、一雨の潤す所なりと雖も、諸の草木に各おの差別有り」(法華経242頁)と記されています。

この経文は、直接的には、大地と天雨は、釈尊の平等なる教えと法を指し、草木は、それぞれの衆生を指していますが、これを現代的に表現すれば、大宇宙の慈 悲と創造の力に育まれて、万物が相互に関連しあいながら、多様性を発揮しつつ、それぞれの生を享受しているというイメージが描かれています。

これは、生きとし生けるもの、すべてが支え合い、調和し、共生していると見たソローの直感と見事に符合しうるといえるでしょう。

また、薬草喩品に描かれたこのイメージでは、「草木」は多彩なる「文化」の象徴であり、「大地」と「天雨」は永遠なる大宇宙の支えであり、大自然の恵みを指していると、とらえられます。

すなわち、さまざまな「文化」が"独自性""多様性"を発揮しながら、地球上で「共存」していく「平和の文化」のイメージとなるでしょう。

3.内なる力を育む「人間教育」を

第3は、「人間教育」の思想であります。

私はかつて、ハーバード大学での講演で、エマソンの思想などに触れながら、「内発的精神に支えられた自己規律、自己制御の心ほど、現代に必要なものはない」と、人間生命に内在する「偉大なる力」から発するソフト・パワーの重要性を訴えました。

これは、庶民に英知がなければ、容易に権力の魔性の餌食になってしまう、よって民衆一人ひとりが賢明になり、自身を変革するための「人間教育」から、社会や国の変革は成し遂げられる、との信念に基づくものでした。


私とのてい談の中でマイアソン博士は、「超絶主義の人々は、悪化した制度や組織の改革は、暴力によってではなく、自己の『内発的な力』、そして正しく思考する人々によってのみ可能になることを信じていた」と指摘されています。

創価学会が、教育者であった牧口常三郎・初代会長、戸田城聖・第2代会長の時代から、一貫して「人間教育」に取り組んできたのも、民衆一人ひとりの「仏 性」から顕在化する「内発的な力」を薫発したいとの理由からでした。私自身、牧口会長の創価教育の理念を実現すべく、幼稚園から大学までの一貫教育を創立 し、万人に開かれた「人間教育」に取り組んでまいりました。

マイアソン博士はまた、「超絶主義者たちも、自己を教育する庶民こそ必要であると認識していました。それは外的な目的ではなく、内的な目的をもって自己教 育をする庶民、市民のことです」と述べられ、超絶主義者の多くが、幼稚園や小学校から大学教育まで、さまざまな教育事業に携わっていたことに言及されてい ます。

そして人々を教育する手段として、各地で講演を行うとともに、最大多数の読者に訴えるために、出版の重要性を認識していたことも指摘されています。

創価学会が機関紙をはじめ多数の出版物を発刊してきたのも、広範な人々を包み込んだ大民衆運動にとって、哲学と活力をすみずみまで伝えゆく新聞と出版物が不可欠のものであるからです。

このように超絶主義者の多くが、「永遠なるもの」に根ざす人間の「内発的な力」を重視し、人間教育に取り組んでいた事実と、今日までSGIが取り組んできた「人間教育」運動とは、その思想と実践において軌を一にしていると言えるでしょう。

4.社会の変革を! そのために人間の変革を!

国家悪との闘争の炎

 ソロー=いかなる政治権功も人間の尊厳を奪うことはできない!

 日蓮大聖人=身は随えられようとも心は随わない!

第4は、「自己変革と社会変革」の思想であります。

ボスコ博士は、日本の創価大学を訪問された折、「今日、我々にソローが発信する最も貴重な教訓とは、すべての文化的変革は、個人、つまり人間の内側から始まるという点です」と述べられました。

エマソン、ソローの社会変革論は、自己変革を基盤としています。

エマソンは、改革はまず人間そのものから、人間の心の内面から始めなければならない、制度や環境の改良を試みても、人間自体の内的変革がなければ無意味であることを主張しました。

また、ソローは、「市民の反抗」という講演の中で、このように述べています。

「国家が個人を、国家よりも高い、独立した力として認識し、国家の力と権威はすべて個人の力に由来すると考えて、個人をそれにふさわしく扱うようになるまでは、真に自由な文明国は決してあらわれないであろう」(岩波文庫、飯田実訳)。

「いかなる政府も人間の尊厳を脅かすことはできない」とのソローの叫びは、日蓮が、13世紀の日本にあって、狂気に満ちた国家権力からの迫害の真っ只中 で、「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」(御書287頁)と、高らかに宣言したことと相通じてお ります。

ちなみに、この日蓮の言葉は、「世界人権宣言」20周年を記念してユネスコが編纂した『語録 人間の権利』にも収録されています。

奴隷制に抗議して人頭税の支払いを拒否し、投獄されたことに対して、ソローは臆するどころか、かえって闘争の炎を燃やしています。

「人間を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間が住むのにふさわしい場所もまた牢獄である」(前掲書『市民の反抗』)と言い切りました。

日蓮もまた同様に、非暴力に徹し、ただ言論という"精神の力"によってのみ、時の政治権力者に戦いを挑みました。そして、「難来るを以て安楽」とし、不正かつ横暴な権力と戦い、迫書を受けても微動だにしなかったのであります。

そして、その精神を受け継ぐ牧口初代会長、戸田第2代会長は、信教の自由を圧殺する軍部権力と対決し、投獄されました。

このように、「自己変革」から出発して「社会変革」への実践を貫いていく――エマソン、ソローが目指した生き方と、日蓮が志向し、私たちSGIが今日まで展開してきた運動は、精神的な次元でも、また具体的な方向性でも一致しています。

以上見てきた通り、エマソン、ソローに代表される超絶主義の哲学と日蓮仏法は、字宙と生命を貫く「普遍なるもの」を見つめ、人権・環境等、さまざまな次元で"共鳴の輪"を広げております。

今、21世紀を生きる私たちが直面している人類的課題は、紛争や無差別テロ、環境破壊といった"分断と憎悪のエネルギー"を、いかにして"融合と調和のエネルギー"へと転換しゆくかという問題であります。

かつて、エマソン、ソローらが、東洋思想の最良のエッセンスを吸収し、血肉としつつ、近代のアメリカ社会にアメリカ・ルネサンスの華を咲かせたごとく、このたびの歴史的なフォーラムが「東西結含の再覚醒」を成し遂げていかれることを、私は確信しております。

そして21世紀こそ、「生命のルネサンス」を基盤にした「人類文明」が創出されゆくことを、願ってやみません。

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