「思いやり格差」の時代を考える
神戸大学大学院 稲場圭信准教授
思いやりをはぐくむ上で、宗教の役割は重要である。さまざまな宗教が、思いやりの心、利他的精神・実践に関する教えをもっている。そして、宗教団体の社会活動は、社会奉仕の実質的な担い手としての機能に加え、思いやりを育てる公共的な場を提供する機能もあわせもっている。思いやりの心や利他的精神を育てる上で、宗教は大きく貢献しているのだ。
宗教は社会の中で生きることが求められる。思いやりを説き、お説教したり、道徳教育で教えたりするのは、一定の効果はあろうが、それほど大きな力にはなっていかない。人は人とのつながりの仲で社会化されていく。実際の行動の実践者、ロールモデル(お手本となる人)とのコンタクトが、思いやりの発達には絶対的に必要である。
さらに言えば、価値観の衝突を乗り越えるような、他者との共同作業の場が必要である。そこには、人との触れ合い、コミュニケーションによる「社会化」がある。これは日本人が苦手とするものであろう。「出る杭は打たれる」「長い物には巻かれろ」といったことわざにも象徴されるように、日本社会は、価値観の衝突を避け、表面的にうまくやっていこうとするからだ。仲よしグループの中だけにずっといると、そこでは何となくうまくやっていけたとしても、他者に対して冷たい人間性をつくる。逸脱行動をとる人に対して、村八分にすることもある。
社会的背景の異なる人、あるいは肌の色も違う人種を超えたさまざまな人たちが、共同で何かを行う。そのような場では価値観の衝突が当然、生まれてくる。それをいかに克服するか、その過程が思いやりの発達に重要なのだ。この世の中には、多様な考え方、自分とは異質なものがあるのも当然と思えるような環境が視野を広げ、心の器も一回り大きくさせるのだ。
強制させるのではなく、ポジティブに湧き上がってくる思いやりの心と行動こそが、教育の荒廃、青少年犯罪、高齢福祉、偽装問題など、さまざまな問題を抱える現代社会を、支え合う市民社会へと導く原動力となるに違いない。子どもたちや次の世代が「思いやり格差社会」ではなく、「思いやり社会」で生きられるように、今できることから始めたい。
2008年11月30日付聖教新聞掲載より抜粋
稲場圭信氏の「思いやり格差」についての論考に共感を覚えた。
氏が論の結びとした「今できること」から考えてみた。
「思いやり」を醸成するために、今できることは何か。
一つの方法として、私は「対話」を挙げたい。
対話は人と人を結び、信頼をもたらし、理解を深め、思考の触発をもたらす、ある種、魔法のような対人空間だと私は思う。
もちろん、理想的な対話ばかりであればまさに理想的だが、そんなことはありえない。対話が意外にも期待外れに終わってしまう場合もある。また、さらに全くかみ合わない、対立的な対話に至ることも往々にしてあるものだ。
しかし、対話の醍醐味は、そうした自分にとって気持ちがいいものだけではなく、さまざまな負の感情や思考すらもたらしてくれることにもあると思う。
稲場氏も「価値観の衝突」と述べているように、対話の相手によって、もたらされる新しい価値観によって、その時は違和感や認識の違い等を感じたとしても、それを一度持ち帰り、自分との対話をすることによって、抽出される新しい何かが必ず生じてくるものと思う。
逆に言えば、対話というものを自分の一方的な考えを示す場ととらえているならば、それは真の対話とはなっていないと思うべきであろう。その場においては、「思いやり」どころか、「反感」さえ生じてしまう場となってしまう。
対話をするに臨んで大事なことは、話すよりもむしろ徹して聞くことにあり、相手を知ることにあることから始まると私は思う。
氏は「思いやり」を養うのに宗教の役割を重視すると述べている。ただ氏も述べているように、宗教指導者のお説教や形式ばった指導めいたものではなく、宗教が本来持つ至高の目的である、その人の幸福を志向する、生きた言葉による対話こそ重要であると考える。
なぜなら、人は社会的動物と言われるように、十分な思いやりをかけてこられなかった人は、思いやりの素晴らしさはおろか、意味さえ知る由もないだろう。
人は思いやりをかけられた分しか、人に思いやりをかけることができない。
つまり、宗教が役割を持つという意味において、「思いやり」の端緒は、宗教指導者による思いやりの対話にあると言っても過言ではないだろう。
思いやりのこもった宗教指導者の対話に感動した信者は、その思いやりを次の人へ受け渡していく。それは単にリレーするだけのものではなく、その思いは濃く深く醸成されていくはずだ。
その意味で、宗教指導者は、単なるお説教や安易な道徳的教育に終始していないか、自らを常に戒め、心からの思いやりをもった対話ができているか厳しく見つめていく必要があると思われる。
対話について、池田SGI会長が語った講演の一節を以下に引用して、この稿の結びとしたい。
ともあれ、そんな時代にあってモンテーニュが何よりも重視したのが「対話」という行為でありました。
「精神を鍛練するもっとも有効で自然な方法は、私の考えでは、話し合うこと」であるとし、それは「人生の他のどの行為よりも楽しいもの」であるという彼は、その絶対条件となる「開かれた心」についてこう述べております。
「いかなる信念も、たとえそれが私の信念とどんなに違っていようと、私を傷つけない。どんなにつまらない、突飛な思想でも、私にとって人間の精神の所産としてふさわしく思われないものはない」「したがって反対の判断は私を憤慨も興奮もさせずに、私を目覚めさせ、鍛えるだけである。われわれは人から矯正されることをいやがるが、本当は自分からすすんでそれに立ち向かわねばなるまい」(『エセー』5)―と。
出典:
1995.01.26: <提言>第20回「SGIの日」記念提言 不戦の世紀へ人間共和の潮流
※なお稲場氏は『思いやり格差が日本をダメにする~支え合う社会をつくる8つのアプローチ』(NHK出版)を上梓されている。
※記事を引用させていただいた稲場圭信氏の名前の表記が間違っておりました(2008年11月30日~12月06日午前10時ごろ)。訂正いたしました。慎んでお詫び申し上げます。
タグ:
【人間主義(ユマニテ)】
【利他の精神】
【対話】
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