2008年11月アーカイブ

「思いやり格差」の時代を考える
神戸大学大学院 稲場圭信
准教授

思いやりをはぐくむ上で、宗教の役割は重要である。さまざまな宗教が、思いやりの心、利他的精神・実践に関する教えをもっている。そして、宗教団体の社会活動は、社会奉仕の実質的な担い手としての機能に加え、思いやりを育てる公共的な場を提供する機能もあわせもっている。思いやりの心や利他的精神を育てる上で、宗教は大きく貢献しているのだ。

宗教は社会の中で生きることが求められる。思いやりを説き、お説教したり、道徳教育で教えたりするのは、一定の効果はあろうが、それほど大きな力にはなっていかない。人は人とのつながりの仲で社会化されていく。実際の行動の実践者、ロールモデル(お手本となる人)とのコンタクトが、思いやりの発達には絶対的に必要である。

さらに言えば、価値観の衝突を乗り越えるような、他者との共同作業の場が必要である。そこには、人との触れ合い、コミュニケーションによる「社会化」がある。これは日本人が苦手とするものであろう。「出る杭は打たれる」「長い物には巻かれろ」といったことわざにも象徴されるように、日本社会は、価値観の衝突を避け、表面的にうまくやっていこうとするからだ。仲よしグループの中だけにずっといると、そこでは何となくうまくやっていけたとしても、他者に対して冷たい人間性をつくる。逸脱行動をとる人に対して、村八分にすることもある。

社会的背景の異なる人、あるいは肌の色も違う人種を超えたさまざまな人たちが、共同で何かを行う。そのような場では価値観の衝突が当然、生まれてくる。それをいかに克服するか、その過程が思いやりの発達に重要なのだ。この世の中には、多様な考え方、自分とは異質なものがあるのも当然と思えるような環境が視野を広げ、心の器も一回り大きくさせるのだ。

強制させるのではなく、ポジティブに湧き上がってくる思いやりの心と行動こそが、教育の荒廃、青少年犯罪、高齢福祉、偽装問題など、さまざまな問題を抱える現代社会を、支え合う市民社会へと導く原動力となるに違いない。子どもたちや次の世代が「思いやり格差社会」ではなく、「思いやり社会」で生きられるように、今できることから始めたい。

2008年11月30日付聖教新聞掲載より抜粋

稲場圭信氏の「思いやり格差」についての論考に共感を覚えた。

氏が論の結びとした「今できること」から考えてみた。

「思いやり」を醸成するために、今できることは何か。

一つの方法として、私は「対話」を挙げたい。
対話は人と人を結び、信頼をもたらし、理解を深め、思考の触発をもたらす、ある種、魔法のような対人空間だと私は思う。

もちろん、理想的な対話ばかりであればまさに理想的だが、そんなことはありえない。対話が意外にも期待外れに終わってしまう場合もある。また、さらに全くかみ合わない、対立的な対話に至ることも往々にしてあるものだ。

しかし、対話の醍醐味は、そうした自分にとって気持ちがいいものだけではなく、さまざまな負の感情や思考すらもたらしてくれることにもあると思う。
稲場氏も「価値観の衝突」と述べているように、対話の相手によって、もたらされる新しい価値観によって、その時は違和感や認識の違い等を感じたとしても、それを一度持ち帰り、自分との対話をすることによって、抽出される新しい何かが必ず生じてくるものと思う。

逆に言えば、対話というものを自分の一方的な考えを示す場ととらえているならば、それは真の対話とはなっていないと思うべきであろう。その場においては、「思いやり」どころか、「反感」さえ生じてしまう場となってしまう。
対話をするに臨んで大事なことは、話すよりもむしろ徹して聞くことにあり、相手を知ることにあることから始まると私は思う。

氏は「思いやり」を養うのに宗教の役割を重視すると述べている。ただ氏も述べているように、宗教指導者のお説教や形式ばった指導めいたものではなく、宗教が本来持つ至高の目的である、その人の幸福を志向する、生きた言葉による対話こそ重要であると考える。

なぜなら、人は社会的動物と言われるように、十分な思いやりをかけてこられなかった人は、思いやりの素晴らしさはおろか、意味さえ知る由もないだろう。
人は思いやりをかけられた分しか、人に思いやりをかけることができない。
つまり、宗教が役割を持つという意味において、「思いやり」の端緒は、宗教指導者による思いやりの対話にあると言っても過言ではないだろう。
思いやりのこもった宗教指導者の対話に感動した信者は、その思いやりを次の人へ受け渡していく。それは単にリレーするだけのものではなく、その思いは濃く深く醸成されていくはずだ。

その意味で、宗教指導者は、単なるお説教や安易な道徳的教育に終始していないか、自らを常に戒め、心からの思いやりをもった対話ができているか厳しく見つめていく必要があると思われる。

対話について、池田SGI会長が語った講演の一節を以下に引用して、この稿の結びとしたい。

ともあれ、そんな時代にあってモンテーニュが何よりも重視したのが「対話」という行為でありました。
「精神を鍛練するもっとも有効で自然な方法は、私の考えでは、話し合うこと」であるとし、それは「人生の他のどの行為よりも楽しいもの」であるという彼は、その絶対条件となる「開かれた心」についてこう述べております。
「いかなる信念も、たとえそれが私の信念とどんなに違っていようと、私を傷つけない。どんなにつまらない、突飛な思想でも、私にとって人間の精神の所産としてふさわしく思われないものはない」「したがって反対の判断は私を憤慨も興奮もさせずに、私を目覚めさせ、鍛えるだけである。われわれは人から矯正されることをいやがるが、本当は自分からすすんでそれに立ち向かわねばなるまい」(『エセー』5)―と。

出典:
1995.01.26: <提言>第20回「SGIの日」記念提言 不戦の世紀へ人間共和の潮流

※なお稲場氏は『思いやり格差が日本をダメにする~支え合う社会をつくる8つのアプローチ』(NHK出版)を上梓されている。

※記事を引用させていただいた稲場圭信氏の名前の表記が間違っておりました(2008年11月30日~12月06日午前10時ごろ)。訂正いたしました。慎んでお詫び申し上げます。


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SGIの友と人間主義の哲学(51)
デンマークSGI理事長・モラー氏

少人数での対話を重視

私たちデンマークSGIでは、グループ単位の会合に力を入れており、体験などを語り合う中で信仰を深めています。

我が国には、共通する関心事や趣味を持つ仲間が少人数で集まり、技術や知識について語り合うという伝統があります。この伝統は19世紀半ばのデンマークの"近代教育の父"グルントヴィやその弟子であるコルが、教育において"生きた言葉"による対話を重視したことと軌を一にします。

創価学会の初代会長である牧口先生も、『創価教育学体系』の緒言(序文)で、グルントヴィやコルの師弟について触れられるなど、二人の思想に共鳴していました。
「一対一の対話」のなかで切磋琢磨していく私たちの日々の活動は、まさに「創価の師弟」に直結した実践の姿なのです。
(聖教新聞2008年11月30日付より抜粋)

素晴らしい伝統が生かされた素晴らしい活動のあり方と関心する。

少人数による対話は、(1)本音が語り合える(2)だれもが意見を言える(3)やりとりが自然に行える――等の利点を持つ。
学会の活動の出発点が対話を重視した座談会にあったことは、モラー氏が述べているように、牧口先生が"生きた言葉"による対話を重視していたからにほかならない。

さらに学ぶべきと感じたのは、「共通する関心事や趣味を持つ仲間が少人数で集まり、技術や知識について語り合うという伝統」ということだ。
関心事や趣味とは、その人にとってのソフト・パワーの表れではないかと思う。だから話は弾み、深め、展開していくことも可能だろう。
そうした一人ひとりのソフト・パワーを引き出し、生かす対話は重要だと思う。
最初は何気ない関心に過ぎないかもしれない。ただ、好きだという個人的な趣味かもしれない。しかし、そうしたことが対話によって次第に練り上げられ、醸成されていくことで、価値創造のコミュニティが生まれたり、社会貢献につながる活動に発展していく等、個人の範疇にとどまらない意味を生み出す可能性を秘めている。

"世界一幸福"な国と呼ばれるその訳は、福祉の手厚さゆえのものではなく、一人ひとりを大切にし、そして気負うことのない、さりげない対話を伝統的に大切にしてきた文化にこそ、存在するのではないかと記事を読み感じることができた。

最後に池田SGI会長の講演から、対話の重要性について言及された一節を引用し、この稿の結びとしたい。

ところで、ヒューマニズムを言う限り、最大の武器、コミュニケーションの手段が対話──人類史とともに古くて新しい課題であり続ける対話に帰着することはいうまでもない。古来、"対話的存在"であることは、人間の本質に根ざし続けており、対話が途絶するということは、人間が人間であることをやめるに等しい。いうなれば、対話なき人間は人間失格であり、対話なき社会は墓場といっても過言ではありません。

<提言>第33回「SGIの日」記念提言 「平和の天地 人間の凱歌」より抜粋
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自由と解放は 人間の悲願


平和と共存は 人間の熱願

「ペンの獅子 自由の戦士 ノーベル賞作家、ウォレ・ショインカ博士に贈る」池田大作著より

*

人間が人間らしくあること――を守るための人権闘争こそ、「humanite-ユマニテ」の原点であり、永遠普遍の目標です。

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スカウター : humanite-ユマニテ
SGI会長の環境問題への提言

戸田記念国際平和研究所の創立者である池田SGI会長は、毎年の平和提言などを通し、環境問題に関する提案を続けてきた。2001年以降の主な提案は、以下の通り。



【2001年の提言】
○「地球憲章」をすべての人類の行動規範として根付かせていくために、草の根レベルでの意識啓発を推進

【2002年の提言】
○国連に「環境高等弁務官」と「環境高等弁務官事務所」を設け、地球環境問題への強いイニシアチブを発揮する体制を整備
○環境諸条約の事務局の段階的な統合化を図り、生態系保護や植樹を進めるための
「地球緑化基金」を創設
○化石燃料に依存する社会の転換のために「再生可能エネルギー促進条約」の検討を

【2002年の環境開発サミットヘの提言】
○SGIなどが提唱した
「持続可能な開発のための教育の10年」の制定を通し、環境教育を総合的に推進

【2006年の提言】
○森林保全のグローバルな協力体制を築きながら、途上甲にも温室効果ガス削減の枠組みへの参加をうながす環境づくりを
○日本は「環境教育のモデル国」を目指し、環境悪化が進むアフリカやアジアの国々に積極的支援を

【2007年の提言】
○東アジア共同体構築への礎となる、環境・エネルギー分野に特化した「東アジア環境開発機構」を創設

【2008年の提言】
○現在の国連環境計画を専門機関へと強化し、「世界環境機構」への発展的改組を
○多くの経験と実績を持つ日本の主導で、東アジアを
「省エネルギー推進のモデル地域」に

戸田記念国際平和研究所主催の国際会議「気候変動と新しい環境倫理」に寄せられた池田SGI会長のメッセージ

人類共通の脅威を時代転換の糧に
持続可能な地球社会を建設

今回の国際会議の開催に当たり、戸田記念国際平研究所の創立者とし、一言、メッセージ贈らせていただきます。

急激に進む地球温暖化に対するために、ブラジルでの「地球サミットで気候変動枠組条約の署名が行われてから、はや16年が経ちました。その間、「京都議定書」を通じての温室効果ガスの削減が図られてきたものの、温暖化はそれを上回るスビードで進みつつあります。

IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第4次評価報告書によると、ここ10年余の世界の地上気温は、観測記録が存在する1850年以降で最も温暖な時期にあたり、このまま十分な対策を講じなければ21世紀末には最大で6.4度も世界の平均気温が上昇する可能性があると予測しております。

12月にはポーランドで第14回「気候変動枠組条約締約国会議」が行われ、「京都議定書」の期限が切れる2013年以降の対策が議論されます。どれだけ多くの国が新しい枠組みに参加し、より実効性のある対策を打ち出すことができるかが、大きな焦点となるといえましょう。

「二つの破局」を防ぐために

就任以来、この問題を国連の重要課題に据えてきた潘基文事務総長は、「気候変動は『ふたつの破局』を引き起こす危険性がある]と指摘し、「まず世界の貧困層の人間開発のプロセスを後退させ、やがては人類全体を危険にさらしかねない」(一宮正人・秋月弘子監修『人間開発報告書2007/2008』阪急コミュニケーションズ)との警告を発しています。

ゆえに私たちに問われているのは、今、現実に、社会的に脆弱な環境の下で暮らさざるを得ない人々の生活と尊厳を脅かす「現在の危機」とともに、「未来に及ぼす脅威」に思いをはせることです。そして同じ地球に生きる人間として、ともに立ち上がり、行動していくことであります。

もはや事態の悪化を看過するのではなく、「二つの破局」を防ぐグローバルな連帯をつくりあげなければなりません。その基盤となるものこそ、人間の生き方と文明のあり方を問い直す環境倫理に他ならないのであります。先のIPCCの報告書は、地球温暖化は人為的な影響によるものと初めて断定して大きな反響を呼びました。気候変動問題の特質とは、誰もがその被害を受ける立場になり得ると同時に、誰もが何らかの形で影響を及ぼす存在となり得るところにあるといってよいでしょう。つまり、誰もが傍観者的な立場でなく、一人一人が「問題解決の主体者」となることが求められる課題といえるのであります。
その意味で、今回、「ビジネスと環境倫理」「市民社会と環境倫理」「法律と政治から見た環境倫理」の異なる三つの角度から、問題の所在を掘り下げつつ、持続可能な地球社会に向けた「新しい環境倫理」を確立する方途を探る会議の意味は、誠に大きいものがあります。

自他ともの幸福を目指す視点を

もちろん、「新しい環境倫理」といっても、すべてを新しいものから作り上げる必要はないでありましょう。「足下に泉あり」との言葉があるように、各地域で育まれてきた文化や伝統、さまざまな宗教が説く自己規律の精神など、その源泉となるものは決して少なくないからです。

また、近年、急速に研究が進む生態系に関する知見も、環境に対する意識変革を促すという面で、非常に重要な意味合いを持っています。
大切なのは、そうした営々と積み上げられてきた人類の英知を、互いに照らし合わせながら、気候変動という"共通の脅威"を克服するために何か必要なのかを、謙虚に見つめ直す作業ではないでしょうか。

その上で、国連を中心軸に、市民社会や企業、地方自治体や各国政府といったアクター(主体)が、それぞれの垣根を越えて、切磋琢磨し合う関係を築くことが強く求められます。地球環境問題を展望する上で忘れてはならないのは、自身の利益のためには他者の犠牲もやむなしとする「ゼロサム」ではなく、自他ともの幸福を目指す「プラスサム」のアプローチであります。

ゆえに私は、持続可能な地球社会を築くために、良い意味での貢献を競い合う「人道的競争」のビジョンこそ、「新しい環境倫理」の一つの柱となり得るのではないかと考えるものです。

以前、お会いしたノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイ博士が、自ら立ち上げたケニアでの植樹運動のご苦労を振り返りながら、述べておられたことが忘れられません。

「未来は未来にあるのではない。今、この時からしか、未来は生まれないのです。将来、何かを成し遂げたいなら、今、やらなければならないので」

地球環境問題の解決を目指して各界で活躍しておられるリーダーや諸先生方が一堂に会し行われる今回の会議は、まさに、その新しい未来への道を切り開くための重要な機会となるものです。

会議の大成功を心よりお祈り申し上げるとともに、人類の未来のために尊い研究や行動を続けておられる皆さま方の益々のご健勝を念願申し上げ、私のメッセージとさせていただきます。

聖教新聞2008年12月1日付より転載


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