ベセル氏の論考は、以下の一文で締めくくられている。以下引用させていただく(引用は聖教新聞2008年12月2日付より)。
ベセル氏は世界をよくするためには、「子どもたちへのかかわりと教育の在り方変えなければならない」と主張する。全く同感である。
そうしなければ、本当に子どもたちがかわいそうだ。いつまでも無意味ともいえる忍従に甘んじていなければならない。
最後に氏は、素晴らしい提案をされている。
そう、SGIメンバーへの牧口学説による教育の在り方の実践である。
その具体的な実践について、私は、ベセル氏が言及する「共同体」に着目したい。
「共同体」の重要性については、池田SGI会長が、第29回SGI日記念提言「内なる精神革命の万波を」で以下のように論及されている。少々長文となるが、重要な箇所と思われるので、以下引用させていただく。
以上の引用の中には、共同体という言葉は一箇所しか見当たらないが、まさにそこに生きた「共同体」の姿がある。
私たちは、果たしてこのようなみずみずしい「共同体」をなしえているのだろうか。この問いかけ自体が空しく響くほどの状況に身を置いていないだろうか。
なれば、この稿の目的である教育の実践などさらにおぼつかなくなる。
教育の前に、取り戻さなければならないものは、この真の意味での「共同体」の復興にこそあるのではないのだろうか。ベセル氏の問いかけは、教育者のみに向けられたものではない。私たち一人ひとりに突きつけられた深刻な課題なのだと受け止めたい。
最後に同じSGI提言から引用させていただきたい。
引用の幅を少し広げすぎてしまったようにも思えるが、その意味するものは、つまるところ、教育は教育の分野に決してとどまるものではなく、「共同体」の構成員であり、子どもにかかわるすべての人間の努力と真剣な取り組みがあってこそ、初めて「独自の、より自然で、人間的、かつ全人的な教授法・学習法」が可能なのだということを表しているのだと思う。
まず、対話から始めたい。子どもたちへのかかわり方についての対話から。
(おわり)
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【教育】
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誰もが待望する、よき世界の実現には、私たちは何よりもまず、子どもたちへのかかわりと教育の在り方を変えなければならない。そして従来の工場モデル型学校を、すべての子どもに備わる生来の潜在的才能がはぐくまれるような、全人的教育の共同体(コミュニティー)へと変革しなければならない。
そこで私は、世界の1000万人を超える創価学会インタナショナルのメンバーおよび本欄の読者が、創価教育学をあらためてもう一度吟味し、その人間教育の基本原則を自らの家庭、学校、地域で実践することを提案させていただきたい。
ベセル氏は世界をよくするためには、「子どもたちへのかかわりと教育の在り方変えなければならない」と主張する。全く同感である。
そうしなければ、本当に子どもたちがかわいそうだ。いつまでも無意味ともいえる忍従に甘んじていなければならない。
最後に氏は、素晴らしい提案をされている。
そう、SGIメンバーへの牧口学説による教育の在り方の実践である。
その具体的な実践について、私は、ベセル氏が言及する「共同体」に着目したい。
「共同体」の重要性については、池田SGI会長が、第29回SGI日記念提言「内なる精神革命の万波を」で以下のように論及されている。少々長文となるが、重要な箇所と思われるので、以下引用させていただく。
その点、牧口初代会長がその教育思想に強い共感を抱いていた、アメリカの思想家デューイの民主主義論の根底にある"公衆"のアイデンティティー(自分であることの根拠)は示唆的です。
デューイは「公衆とその諸問題」という論考の中で、作家のハドソンが描いたウィルトシアのある村の情景を通し、一つの具体的なモチーフを浮かび上がらせています。
「それぞれの家は人間の生活の中心であり、また鳥やけだものたちの生活の中心でもあって、しかもその中心はお互いに触れあっており、それらはちょうど手をつないだ子どもたちの列のように結びあっている」
「村のはずれの小屋に住む人が手に負えない木っ端や木株を切り刻んでいて、たまたま重く鋭いおのを足に落してしまい、大怪我をしたと考えてみよう。もしそんなことがあれば、事故の知らせは口から口へと、一マイルも離れた村のもう一方の端まで飛ぶように伝わることであろう。村人たちはみんなすぐにこの事故のことを知るだけでなく、同時にこの災難にあった瞬間の仲間の村人のこと、鋭く光るおのが足元に落ちてきて、傷からは赤い血がほとばしったことをなまなましく思い浮べるだろう。そしてまた、まるで自分の足が傷ついたように感じ、その身体に衝撃が伝わるのを感じることだろう」(『現代政治の基礎』阿部斎訳、みすず書房)
仲間の男を襲った災難を、単に事実として知るだけでなく、その痛みをわが事のように感じ、追体験する――そのみずみずしいまでの感受性、生命感覚こそ、"公衆"のアイデンティティーの核心をなすものです。
私が強い印象を受けたのは、その圧倒的な実在感、生々しいまでの生のリアリティーです。
そこでは、人間同士はもとより、鳥や獣などの動物たち、大地や草木にいたるまで、互いが互いに「他者」性の輪郭をくっきりと刻印しながら、かといって無関係では決してなく、運命共同体として緊密に結びついている。そこに参入することによって初めて、人々はアイデンティティーを獲得し、自らの生を生きかつ死んでいくことの意味づけ、共同体という全体のなかでの個の生死の位置づけを確認することが可能となる。連想をはたらかせれば、トルストイの作中、作者の自画像に近いとされる人物――『コサック』のオレーニン、『アンナ・カレーニナ』のレーヴィンなど、都会のインテリゲンチアに、たまさか啓示のようにやってくる万有生命と合一しゆく魂の高揚感にも通じるものです。
デューイは、「このように親密な状態があれば、国家などはくだらないものである」と言い切っています。
以上の引用の中には、共同体という言葉は一箇所しか見当たらないが、まさにそこに生きた「共同体」の姿がある。
私たちは、果たしてこのようなみずみずしい「共同体」をなしえているのだろうか。この問いかけ自体が空しく響くほどの状況に身を置いていないだろうか。
なれば、この稿の目的である教育の実践などさらにおぼつかなくなる。
教育の前に、取り戻さなければならないものは、この真の意味での「共同体」の復興にこそあるのではないのだろうか。ベセル氏の問いかけは、教育者のみに向けられたものではない。私たち一人ひとりに突きつけられた深刻な課題なのだと受け止めたい。
最後に同じSGI提言から引用させていただきたい。
デューイの「公衆」にしたところで、第1次世界大戦後の、本格的な大衆の政治参加が進む時代の「共同関心」「公的意識」のあり方を考察したものです。すなわち、村落などの「小共同体」が解体していく中で形成された「国家」という枠組みを、「大社会」から、いかにして「(公衆を構成員とする)大共同社会」へとメタモルフォーゼ(変容)させていくかというテーマヘの取り組みであります。
そして、デューイが明示的に、時に暗示的に述べているように、村落共同体の住人が共有していた「公徳心」「公的関心」の母体であるアイデンティティーの原基のようなものを、どこかに継承、保持していかない限り、「大共同社会」の形成はおぼつかないのであります。
引用の幅を少し広げすぎてしまったようにも思えるが、その意味するものは、つまるところ、教育は教育の分野に決してとどまるものではなく、「共同体」の構成員であり、子どもにかかわるすべての人間の努力と真剣な取り組みがあってこそ、初めて「独自の、より自然で、人間的、かつ全人的な教授法・学習法」が可能なのだということを表しているのだと思う。
まず、対話から始めたい。子どもたちへのかかわり方についての対話から。
(おわり)
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