■手段と目的の逆転
果たして、20数年前、大学祭において行われた対話が、こうした「「自己」と「他者」の全人格的な打ち合い、言葉の真の意味での対話を通してのみ発現され、生々躍動する精神性であり、共通感覚」という高い次元を獲得したものだったかは、今振り返るにはなはだ疑問です。
大学生です、若気のいたりです、と言ってしまえばその通りなのでしょう。
しかし本来、大学生という、最も知性を磨き、人格を深めなければならない時期にあって、ただ折伏の数を競い、他者をまるで折伏数のカウントという存在としか見なさないような、手段と目的の逆転は、人格を破壊することはあっても、深めることは決してできない――と私は思ったものです。
20数年前のことです。
既述のように、そのような不毛な大学祭のあり方に、名誉会長からの厳しい指摘もあり、現在はそのような形ではなくなっていると思います。
ただ、そうした傾向は、私たちの隙を常にうかがっているとは言えないでしょうか。
去年より勝りたい、他より勝りたい――という気持ちが、いつしか、「「自己」の内に「他者」を欠いた対話」へと変貌させる本末転倒となっていないかを、私たちは厳しく常に自己点検、自己批判していく必要があると思うのです。
論文「教育力の復権へ――内なる『精神性』の輝きを」の続きを引用します。
この言葉を繰り返し繰り返し読むほどに、学生部時代、まるでベルトコンベアーに友人を乗せ、自信満々に待ち構えた先輩の前に次々と送り込んだ私の所為が、生のリアリティーを欠いた、苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断といった魂の格闘なき、外発的なものであったと、思われてならないのです。
私は対話の深き意義を知ることになり、過去は過去の過ちとしての意味をかみしめつつ、さらに対話の可能性を追求していこうと思います。
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果たして、20数年前、大学祭において行われた対話が、こうした「「自己」と「他者」の全人格的な打ち合い、言葉の真の意味での対話を通してのみ発現され、生々躍動する精神性であり、共通感覚」という高い次元を獲得したものだったかは、今振り返るにはなはだ疑問です。
大学生です、若気のいたりです、と言ってしまえばその通りなのでしょう。
しかし本来、大学生という、最も知性を磨き、人格を深めなければならない時期にあって、ただ折伏の数を競い、他者をまるで折伏数のカウントという存在としか見なさないような、手段と目的の逆転は、人格を破壊することはあっても、深めることは決してできない――と私は思ったものです。
20数年前のことです。
既述のように、そのような不毛な大学祭のあり方に、名誉会長からの厳しい指摘もあり、現在はそのような形ではなくなっていると思います。
ただ、そうした傾向は、私たちの隙を常にうかがっているとは言えないでしょうか。
去年より勝りたい、他より勝りたい――という気持ちが、いつしか、「「自己」の内に「他者」を欠いた対話」へと変貌させる本末転倒となっていないかを、私たちは厳しく常に自己点検、自己批判していく必要があると思うのです。
論文「教育力の復権へ――内なる『精神性』の輝きを」の続きを引用します。
私は、ハーバード大学で2度ほど講演の機会をもちました。その1回目(「ソフト・パワーの時代と哲学」、1991年9月)では、時代精神として要請されるソフト・パワーの核を成す"内発的なるもの""内発的な精神性"は、苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断といった魂の格闘を経て顕現されるのではないか、と訴えました。一見、難しい言葉で語られている内容ですが、極めて重要な視点で名誉会長は語られていると思います。
生きていることの確かな手応え、リアリティーは、「自己」と「他者」が、深層次元で織りなす入魂と触発のドラマ、「内なる対話」と「外なる対話」の不断の往還作業という溶鉱炉の中で鍛え上げられてこそ、万人を包み込む普遍的な精神性の輝きを帯びてくるのであります。そこにこそ、言葉は、本来の精彩を取り戻してくるのであります。
この言葉を繰り返し繰り返し読むほどに、学生部時代、まるでベルトコンベアーに友人を乗せ、自信満々に待ち構えた先輩の前に次々と送り込んだ私の所為が、生のリアリティーを欠いた、苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断といった魂の格闘なき、外発的なものであったと、思われてならないのです。
私は対話の深き意義を知ることになり、過去は過去の過ちとしての意味をかみしめつつ、さらに対話の可能性を追求していこうと思います。
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