2009年2月アーカイブ

■手段と目的の逆転

果たして、20数年前、大学祭において行われた対話が、こうした「「自己」と「他者」の全人格的な打ち合い、言葉の真の意味での対話を通してのみ発現され、生々躍動する精神性であり、共通感覚」という高い次元を獲得したものだったかは、今振り返るにはなはだ疑問です。

大学生です、若気のいたりです、と言ってしまえばその通りなのでしょう。

しかし本来、大学生という、最も知性を磨き、人格を深めなければならない時期にあって、ただ折伏の数を競い、他者をまるで折伏数のカウントという存在としか見なさないような、手段と目的の逆転は、人格を破壊することはあっても、深めることは決してできない――と私は思ったものです。

20数年前のことです。

既述のように、そのような不毛な大学祭のあり方に、名誉会長からの厳しい指摘もあり、現在はそのような形ではなくなっていると思います。

ただ、そうした傾向は、私たちの隙を常にうかがっているとは言えないでしょうか。

去年より勝りたい、他より勝りたい――という気持ちが、いつしか、「「自己」の内に「他者」を欠いた対話」へと変貌させる本末転倒となっていないかを、私たちは厳しく常に自己点検、自己批判していく必要があると思うのです。

論文「教育力の復権へ――内なる『精神性』の輝きを」の続きを引用します。

私は、ハーバード大学で2度ほど講演の機会をもちました。その1回目(「ソフト・パワーの時代と哲学」、1991年9月)では、時代精神として要請されるソフト・パワーの核を成す"内発的なるもの""内発的な精神性"は、苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断といった魂の格闘を経て顕現されるのではないか、と訴えました。

生きていることの確かな手応え、リアリティーは、「自己」と「他者」が、深層次元で織りなす入魂と触発のドラマ、「内なる対話」と「外なる対話」の不断の往還作業という溶鉱炉の中で鍛え上げられてこそ、万人を包み込む普遍的な精神性の輝きを帯びてくるのであります。そこにこそ、言葉は、本来の精彩を取り戻してくるのであります。

一見、難しい言葉で語られている内容ですが、極めて重要な視点で名誉会長は語られていると思います。

この言葉を繰り返し繰り返し読むほどに、学生部時代、まるでベルトコンベアーに友人を乗せ、自信満々に待ち構えた先輩の前に次々と送り込んだ私の所為が、生のリアリティーを欠いた、苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断といった魂の格闘なき、外発的なものであったと、思われてならないのです。

私は対話の深き意義を知ることになり、過去は過去の過ちとしての意味をかみしめつつ、さらに対話の可能性を追求していこうと思います。

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■柔軟な発想、新思考

そんな葛藤と煩悶を繰り返していった大学4年の時のことです。

池田名誉会長より、大学祭に対する重要な意見が述べられたのです。

その内容は極めて厳しいものでした。

「十年一日(いちじつ)の戦いを続けていても意味がない。柔軟な発想、新思考が大事なのだ」

この名誉会長の指摘は私たちに大きな波紋を呼び起こしました。

私の疑問に一つの解答をいただいたような気がしました。

折伏一辺倒だった大学祭は、この年を境に内容、目的ともに一気に変わっていったのです。

私にとっても、この話を契機に、私自身の対話に対する考え方はより深まっていくことになりました。



話を元に戻します。

私たちは折伏・弘教のための対話を求められているのですが、私の学生時代の経験から思うことは、対話の内実というものを十分に理解しないまま、形のみの対話に終始してしまってはいないだろうか――というのが私の懸念なのです。

対話の内実とは何か――。

改めて池田名誉会長の対話について語られた言葉を紹介します。

対話とは、人格と人格、精神と精神の交流です。互いに深い次元で認識し、相互理解から信頼へと進みゆけるのです。

一方的な考え方の押し付けではない、一対一の人格と精神の交流であり、相互理解と信頼をもたらすものが対話なのであるということを名誉会長は述べられているのです。

思い返すに、大学祭における折伏・弘教には、こうした対話の内実よりもむしろ、対話を単なる折伏・弘教の手段とみなしていたのではないかと思えてならないのです。

名誉会長による論文「教育力の復権へ――内なる『精神性』の輝きを」(2002年)から引用します。

「自己」の内に「他者」が欠落していれば、対話は成立しません。
平和学界の重鎮であるJ・ガルトゥング博士が私との対談集で使っておられた言葉を借りれば、「外なる対話」は「内なる対話」を前提としているからです。

「自己」の内に「他者」を欠いた対話は、形は対話のように見えても、一方的な言い合いに終始してしまう。コミュニケーションは不全です。最も懸念されるのは、そうした言語空間――ある識者が"失語症と多弁症の同居"と形容していた言語空間にあっては、言葉が生き生きとした響きを失い、ついには圧殺されてしまうであろうということです。言葉の死が「ホモ・ロクエンス」(言語人)としての人間の魂の死につながることは、いうまでもありません。

真のリアリティーとは、そのような自己閉塞的で表層的な次元を突き破り、「自己」と「他者」の全人格的な打ち合い、言葉の真の意味での対話を通してのみ発現され、生々躍動する精神性であり、共通感覚であります。

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■師の思想のみを求めよう

その一方で、クラスでの学会宣言をしてしまった私は、そうしたあり方が果たして本当に適切な方法だったのかについて、疑問を持つようになりました。

なぜなら、その指示をした先輩自身が「え、ほんとにやったのか?、大丈夫だったか?」と逆に驚いたからです。

私は、その時、先輩の指示だからといって、その言うがままに行動することの愚かさを初めて実感することになりました。

自分自身で、もっと賢明に考え、だれにも頼らない、ただ師の思想のみを求め、師の教えのままに行動していくべきなのだと思うことが生まれて初めてできたのです。

その意味では、先輩の無責任とも言える発言も全く無意味ではなかったわけです。

秋の大学祭が近づいてきました。

学部ごとの折伏目標が立てられ、それに応じた友人の連れ出し数が決められていきました。

大学祭に臨んで、同じ先輩は私にこう指導しました。

「だましてでもいいから連れてくればいいよ。僕たちが必ず決めてあげるからな」

私は先輩の言葉を聞きながら、学会宣言の時に味わった苦い経験を反芻し、「そんなやり方で本当にいいのだろうか」という思いが私の頭に渦巻いていました。

大学委員長は壇上で、「○○大学にだけは絶対に負けられない」と叫び、各学部委員長は「○○学部には断じて勝つ」と吼えるのです。

周囲の熱狂に反比例するように、私の心はどんどん沈んでいきました。

師はそのような学生の弘教の在り方を望んでおられるのだろうか――。

大学祭の結果は、目標を超える堂々たるもので、最終日の皆の歓喜は頂点に達しました。

歓喜の渦の中、私も同志とともに喜びあったのですが、「本当にこれでいいのか」と覚めた自分がそこにいました。

確かに人を幸福にする目的ならば、手段は問わずともよい、という考え方も一理あるでしょう。

しかし、私にはそういう考え方にはどうしても納得がいかなかったのです。
この法は究極の大法ならば、どんな手段を使っても、という仕方こそ、最も不必要であって、ただ必要なことは、信頼感あふれる対話なのではないかと。

それからもう一つの疑問は、なぜ大学祭という時期に戦いの決着という形をとらなければならないのかということでした。

確かに大学祭とは文字通りお祭りで、気分が高揚するイベントではあります。

でも、こうした百花繚乱ともいえる大学祭において、昔ながらの"折座"というスタイル自体が既に時代遅れで、時代に合った弘教の在り方ではないと思えてならなかったのです。

事実、私が連れ出した友人のほとんどが、再会した折に、口々に不満や反発の言葉を私にぶつけてきました。

「そういう(信仰の)話をするなら、もっと別の機会にほしかった。大学祭は純粋に楽しみたかったんだ」と。

友人たちは決して対話を拒否していたのではありません。

私たちは、友人たちが大学祭に何を期待して来ているかなどといった気持ちを全く考慮することなく、ただ自分たちの目的達成のために、友人たちを折伏の手段としてとらえてしまっていた――ということを、友人たちの言葉によって、改めて悟らされた気がしました。

大学に入って初めての弘教のための対話に挑戦した私ですが、むしろ真の対話不在の弘教の在り方に対する私の疑問はさらに募っていったのです。

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■学生時代の思い出

ここで一つひとつ考えを進めていきたいと思います。

では、私たちは、弘教のために何を対話していけばいいのでしょうか。

目的は弘教です。

話す相手に幸せになってもらうための法を知ってもらい、その法の素晴らしさを実感してもらうための対話にほかなりません。

私たちは極めて崇高な使命をもって対話に臨むのですから、何をも恐れず語っていけばいいのです。

そのことに私は間違いはないと思います。

ただ、私がここで申し上げたいのは、対話にもプロセスが必要であろうということです。

「この人にとにかく幸せになってもらいたい」という一心で、性急な態度で仏法の偉大さ、学会の素晴らしさを語ったところで、相手の理解度にもよるでしょうが、共感を呼ぶどころか、かえって反発すら招いてしまうことが多々あると思います。

対話の相手を幸福にするという目的より、折伏を決めたいという気持ちが先に立ってしまうという本末転倒です。

私はそうした過ちを大学時代におかしてしまい、今もトラウマのように、私の心に沈殿しているのです。

やや長くなりますが、大学時代の大学祭における体験をもとに、対話とは何かについて深く考えるに至ったきっかけについて、述べてみたいと思います。



今から20数年前、当時の大学祭は、学内活動にとって最も重要な決着点と位置づけられており、その成否は、ひとえに折伏の成果にありました。

大学に入学したばかりの私が、先輩にまず指導されたことは、(1)クラスの自己紹介で、堂々と学会宣言をすること(2)仲良くなった友人にくまなく声をかけ、折伏のための対話に持ち込むこと(3)授業より折伏を優先すること――でした。

右も左も分からない私は、「とにかく先輩の言う通りやってみよう」と、クラスでの自己紹介で、「私は○○○研究会に所属している創価学会員です。よろしく」と話しました。

クラスの空気が凍りついたのが、私にも伝わってきました。

ところが自己紹介の後、孤立している私に話しかけてきた人がいました。

「学会って、公明党を支援しているんだよね」「学会って何人くらいいるの?」等々......。

彼は私に矢継ぎ早の質問をぶつけてきました。

私は救われた気がしました。

うかつな学会宣言をしてしまった私に興味をもってくれる人間が一人でもいたからです。

その友人とのつきあいは続き、彼はマスコミに就職し、第一線の記者として活躍しています。

その意味では、先輩のアドバイスも全く無意味ではなかったのかもしれません。

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■私たちにとっての対話とは何か

私たちは、師から、対話の重要性について、事あるごとに教えていただいてきました。

私たちも、その意味や意義について、十二分に理解しているつもりであろうと思います。

しかし、先にも述べたように、対話とはただ話すこと、おしゃべりを指すのではないとするならば(もちろん、対話に入る導入のための会話、おしゃべりは必要なものですが)、私たちは、今一度、「対話とは何か」について、真剣に考え直してみる必要があると思うのです。

これまでも別の稿で、引用したものですが、改めて、3代会長による「対話」観のエッセンスとも言うべき言葉を紹介します。

牧口先生
<座談会ではなく大規模な講演会形式にすべきではという意見に対して>
「それは違う。人生に関する問題は『対話』でなくては相手に通じない」
「日蓮大聖人の『立正安国論』にしても問答形式ではないか」

戸田先生
「これからは対話の時代になる。人と語るということは戦うということであり、また、結び合うということだ」

池田先生
「対話とは、人格と人格、精神と精神の交流です。互いに深い次元で認識し、相互理解から信頼へと進みゆけるのです」

いずれも、「対話」に対する深い信頼がうかがえる言葉だと思います。

師が追求し、私たちにゆだねる対話は、そうした全幅の信頼に足りうる対話とは言えないでしょうか。

そうした対話をどうすれば成立させ、実現させていくのか――。

考えれば考えるほどに難しく思えてくるものです。

では、まず、私たちが普段、会合等で求められている対話とはどういうものかについて、考えてみたいと思います。

会合等では、よく「対話の波を起こそう」であるとか、「勢いある対話」など、折伏・弘教の推進の話において使われることが多いのではないでしょうか。

新聞紙上のおいても、そうした表現が多く見受けられるようです。

そうした意味のおいては、対話=折伏・弘教であり、この法を知らしめるための対話という定義が暗黙のうちになされているようです。

極めて重要な考え方であり、創価学会が世界に広がった最大の要因は、この弘教のための対話にあったと言っても過言ではないでしょう。

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■歴史をも動かす対話の力

では、私たちが目指すべき対話とは、どのようなものなのでしょうか。

池田名誉会長は、「対話」について、こう語っています。

対話とは、人格と人格、精神と精神の交流です。互いに深い次元で認識し、相互理解から信頼へと進みゆけるのです。

対話をこのように極めてハイレベルな交流ととらえるならば、おそらく、私たち日常における「十分な対話」の自負は、急速にしぼんでしまうような気がします。

対話とは、簡単にできるものと思われる半面、実は極めて奥が深く、生半可な姿勢では臨むことのできないものであることが理解できます。

ゆえに私たちは、もっと深く対話の価値を知っていく必要があると思うのです。

名誉会長によるエッセー「歴史の巨人との出会い 歴史家・アーノルド・ジョセフ・トインビー博士」(聖教新聞2004年8月26日付)より引用します。

歴史は運命論的に進むものではない。時流も動かし難いものではない。人類の命運を悪化させるか、それとも好転させるか。それは、まさしく現代を生きる私たちに、ゆだねられている。なかんずく、人格と人格との出会いによって生み出される新たな価値の創造こそが、時代変革の突破口となる。「文明の対話」も、一対一の人間同士の対話から始まるのだ。

「人類の命運を悪化させるか、それとも好転させるか。それは、まさしく現代を生きる私たちに、ゆだねられている」との言葉は極めて重いと思われます。

それほどに私たち一人ひとりにゆだねられた対話の使命と責任は、私たちの想像を遥かに超えた高みと深みにあるものであると私には思えてならないのです。

<関連>

対話は人を幸福にするツール


師弟不二の精神を継承するために(8)同志との、未来部との対話

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■会話、伝達は対話とは別物

第34回「SGIの日」記念提言から引用します。

そうした私の対話の挑戦に期待を寄せてくださっていたのが、歴史家のトインビー博士でした。

100年、1000年の単位で人類史の興亡を俯瞰し、「挑戦と応戦」という歴史観を導き出した博士が、新たな歴史を開く原動力として注目していたのも、「人間性」という共通の大地に根ざした対話の持つ可能性だったのです。

博士は半世紀前に日本で行った講演で、人間は歴史の中でどこまで自由でありうるかとのテーマに論及したことがありました。

そこで博士は、人間の歴史には何らかの法則性や反復性といったパターンを見いだすことができ、自らもその概念を800年もの周期をもつ文明興亡の循環にまで広げてきたが、その半面、「まったくパターンのない人間的事象がたしかにあるものと本当に信じている」と述べ、こう結論されたのです。

「人間的事象のうちでパターンが事実存在しないと思われるのは、人格と人格のあいだの邂逅接触の分野である。この邂逅接触のなかから、真に新らしい創造といったなにものかが発生するのだと思う」(松本重治編訳『歴史の教訓』岩波書店)と。

トインビー博士は、順逆両面にわたるパターンの存在しない縁にこそ、「真に新らしい創造といったなにものかが発生するのだ」と、人間にとっての邂逅接触の重要性について語っています。

ゆえに私たちは、出会いと対話について、もっと深くとらえ直していく必要があるのではないかと思うのです。

具体的に考えてみたいと思います。

私たちの一日を振り返ってみる時、どれだけの対話がなされているでしょうか。

社会生活をしている以上、多くの人が「十分な対話をしている」と思われるに違いありません。

ただ、対話をどう定義するかによって、その自信も少しは揺るがざるをえないのではないかと思います。

たとえば、「天気がいいね」「きょうは電車が混んでた」等々......。

私が思うにこれは対話というより、会話の部類になろうかと思います。

組織にあってはどうでしょう。

「聖教新聞の啓蒙は現在、これだけ進んでいます」「今月の座談会はいつにしましょうか」等々......。

これらは、伝達であり、協議という分類となろうかと思うのです。

このように考えていくと、対話の機会は私たちが思う以上に、実際はあまりないというのが実情ではないかと思います。

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■対話が持つ魔法の力

「縁」の世界は、以前にも述べたように、単純なものは一つとしてなく、それは複雑を極め、絡み合った糸のごとくほどくことは難しく、それぞれの生き方に悩みや葛藤ばかりか、人生に暗い影すら落としてしまう恐れさえあると思います。

そのようにこじれた関係を修復することは永遠に不可能にさえ見えてしまうものです。

私自身、何度もそうした状況にぶつかり、苦い思いを味わったり、途方に暮れた経験があります。

しかし、ある時、私はそんな不可能とも思える関係性の打開の鍵を知ることになりました。

それは「対話」です。

これまでこのブログでは、折に触れ、対話の持てる不思議で、偉大な力について述べてきました。

私はその鍵の存在を池田名誉会長の思想から学んで以来、さまざまな「縁」において、試みてきました。

不思議でした。

「順縁」の縁はさらに深みを増し、「逆縁」の縁は、対立ではなく、ある種の触発へと少しずつ変化していったのです。

そうした機会を重ねるごとに私の確信は、やがて信念へと昇華していきました。

歴史家・トインビー博士は、池田名誉会長との対談の折、こう語ったそうです。

「人類の道を開くのは対話しかありません」「あなたはまだ若い、これからも世界の知性との対話を進めてください」(聖教新聞2007年10月17日付)

この博士の言葉が、名誉会長が進めようとしていた「対話」の闘いの背中を力強く押したことは言うまでもありません。

博士の言葉通り、名誉会長は世界と識者のみならず、無名の庶民とも分け隔てなく、寸暇を惜しんで語らいを重ねてこられました。

事実、池田名誉会長が会長を勇退されて、まず初めに行ったことは、創価学会草創の功労者宅を訪問しての一人ひとりとの対話だったのです。

<関連>

宗門問題と創価ルネサンスについての一考察 (4)功労者宅の訪問

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SGI会長の海外における主な講演一覧
1997.10.21 「『ニュー・ヒューマニズム』の世紀へ」 ラジブ・ガンジー現代問
題研究所(インド)
1996.6.4 「牧口常三郎――人道と正義の生涯」 サイモン・ウィーゼンター
ル・センター(アメリカ)
1996.6.25 「新世紀へ大いなる精神の架橋を」 ハバナ大学(キューバ)
1996.6.13 「『地球市民』教育への一考察」 コロンビア大学(アメリカ)
1995.11.2 「人間主義の最高峰を仰ぎて――現代に生きる釈尊」 トリブバン大学(ネパール)
1995.6.26 「21世紀文明の夜明けを――ファウストの苦悩
を超えて」
アテネオ・デ・サンタンデ
ール(スペイン)
1995.1.26 「平和と人間のための安全保障」 ハワイ・東西センター(ア
メリカ)
1994.6.1 「レオナルドの眼と人類の議会――国連の未
来についての考察」
ボローニャ大学(イタリア)
1994.5.17 「人間――大いなるコスモス」 モスクワ大学(ロシア)
1994.1.31 「『人間主義』の限りなき地平」 深セン大学(中国)
1993.9.24 「21世紀文明と大乗仏教」 ハーバード大学(アメリ
カ)
1993.2.12 「人間文明の希望の朝(あした)を」 ブラジル文学アカデミ
ー(ブラジル)
1993.1.29 「新しき統合原理を求めて」 クレアモント・マッケナ
大学(アメリカ)
1992.6.24 「文明の揺籃から新しきシルクロードを」 アンカラ大学(トルコ)
1992.2.11 「不戦世界を目指して――ガンジー主義と現代」 ガンジー記念館(インド)
1992.10.14 「21世紀と東アジア文明」 中国社会科学院(中国)
1992.1.30 「中国的人間主義の伝統」 香港中文大学(中国)
1991.9.26 「ソフト・パワーの時代と哲学」 ハーバード大学(アメリ
カ)
1991.4.21 「平和とビジネス」 フィリピン大学(フィリピ
ン)
1991.1.30 「新しき人類意識を求めて」 マカオ東亜大学(中国)
1990.5.28 「教育の道文化の橋――私の一考察」 北京大学(中国)
1990.3.1 「『融合の地』に響く地球主義の鼓動」 ブエノスアイレス大学
(アルゼンチン)
1989.6.14 「東西における芸術と精神性」 フランス学士院(フラン
ス)
1984.6.9 「人間こそ歴史創出の主役」 復旦大学(中国)
1984.6.5 「平和への王道――私の一考察」 北京大学(中国)
1983.6.7 「文明の十字路に立って」 ブカレスト大学(ルーマ
ニア)
1981.5.21 「東西融合の緑野を求めて」 ソフィア大学(ブルガリ
ア)
1981.3.5 「メキシコの詩心に思うこと」 グアダラハラ大学(メキ
シコ)
1980.4.22 「新たな民衆像を求めて・中国に関する私の
一考察」
北京大学(中国)
1975.5.27 「東西文化交流の新しい道」 モスクワ大学(ロシア)
1974.4.1 「21世紀への提言」 カリフォルニア大学ロサ
ンゼルス校(アメリカ)
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■自己規律の力は自己客観化能力

名誉会長は、続けて、「順縁」「逆縁」の止揚に不可欠な、「自己規律の力」について、以下のように述べています。

私は、ここに「自己規律の力」の際立って自発的・内発的な発現へのうながしがあると思っている。なぜなら、対立する相手の中にも「悪」と同時に「善」を認め、自らをも「善」にも「悪」にもなりうる存在であることを自覚することのできる自己客観化能力――相手を一方的に「悪」とし、自分を独善的に「善」とする自己絶対化とは対極にあるこの能力は、言葉の真の意味での精神の緊張と充溢(じゅういつ)を必要とするからだ。そうした「自己規律の力」は、ガンジーが「非暴力を行うには、剣士よりはるかに大きな勇気がいる」と述べているように、真実の勇気の異名でもある。

一連の名誉会長の主張は、極めて重要な、そして深刻な問題提起を私たちに投げかけているとは言えないでしょうか。

なぜなら、私たちは「悪との戦い」を常に求められています。

「悪に勝利せよ」と呼びかけられています。

しかし、名誉会長は、「相対立する人間や集団を敵と決めつけ、抹殺し去るような思考方法は、仏法とは原理的に無縁である」と述べるとともに、「すべてを「善と悪」、「光と闇」、「敵と味方」に二分していくマニ教的二元論のタイプほど、仏法的発想と遠いものはない」とも述べられているからです。

この矛盾とも言える二つの言説を私たちはどうとらえていけばいいのでしょうか――。

ここにこそ、私たちが命の基底に置くべき「自己規律の力」の存在意義があるのではないかと思うのです。

「なぜ、私たちは戦わなければならないのか」

「なぜ、私たちは平和を求めるべきなのか」

「彼らは果たして悪なのか、そうではないのか」

「では私は、善なのか、悪なのか」

「どうすれば彼らとより大きな結びつきを得ることができるのか」

......等々、こうしたわずかな自身への問いかけの中にも、「自己規律の力」の発現が促されるとは言えないでしょうか。

このような「自己規律の力」による自己への不断の問いかけなく、ただ周囲の言われるがままに相手と敵対し、悪と断じ、その撲滅を願ってしまえば、その外発的に掻き立てられる憎悪によって、私たち一人ひとりの良心はみずみずしい判断力を失ってしまうに違いありません。

このことを名誉会長は、1991年の講演「ソフト・パワーの時代と哲学」(ハーバード大学)で以下のように指摘しています。

パスカルは異国におけるそのような信仰の在り方(信仰や布教に際して、良心の従うべき判例の体系を豊富に整えていたジェスイット派の「良心例学」)そのものを、必ずしも非難しているのではない。たしかに、やむをえぬ選択を余儀なくされる場合もあるかもしれないが、そこに至るまでに多くの良心の苦悩や葛藤、逡巡(しゅんじゅん)、熟慮(じゅくりょ)、決断があるはずである。それは、良心の内発的な働きそのものである。
にもかかわらず、そうした選択の基準を、あらかじめ判例として外面的に与えられてしまうと、安易にそれに依存する結果、良心は逼塞(ひっそく)させられ、マヒし堕落してしまう。
「易きをもとめる多数」へのおもねりでしかない「良心例学」とは、したがってパスカルにとって、良心の自殺行為にほかなりませんでした。

良心のマヒの先には何が訪れるのか――それは最も恐ろしく、最も警戒しなければならない「微笑みのファシズム」であることは、かつて名誉会長が新聞のインタビューに答え、語った通りであろうと思います。

他人の言説に惑わされず、流されず、真実の勇気の異名である内なる「自己規律の力」を一人ひとりが忍耐強く鍛え上げていく時、真の平和と共存という人類の悲願が現実のものとなりうるのではないか、私はそう考えます。

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■順縁、逆縁も一つの結びつきの在り方

名誉会長の論文「非暴力に関する私の一考察」から引用します。

また、「縁」といえば「順縁」と「逆縁」という立て分けがある。「順縁」とは素直に仏教と縁を結ぶこと、「逆縁」とは、仏教に反対し悪事を働くことが、かえって仏道への縁となることを意味している。これを敷衍して論ずれば、平和友好的な結びつき、対立し反目する敵対的な結びつき――、この二つの関係が、ともに「縁」という共通項でくくられうること、さらに、対立し敵対する他者をも無縁のものとせず、「逆縁」という結びつきの一つの在り方であり発現であると捉えることができる。したがって、対立・敵対といっても恒常的なものではなく、より大きな結びつきに至る途上での"紛争""荊棘(けいきょく)"と位置づけられているのである。

対立は一つの結びつきの状態ととらえる仏法的達観を述べた箇所です。

私たちは社会において、さまざまな人間関係において、仲の良い友人と会話を楽しむ一方で、気詰まりのするような相手に接触することで気分を害したり......とまさにその関係性において、ある意味において、「順縁」「逆縁」を味わいながら生きています。

その中で、私たちは、「順縁」の関係はそのままにしておきたいと思うのは当然として、「逆縁」の関係については、そのままでいい、という気持ちの半面、改善できるものならしてみたいという気持ちがあると思います。

もしそういう「逆縁」の相手に「順縁」の関係を望む気持ちが一分としてないとしたら、名誉会長の指摘する「対立・敵対といっても恒常的なものではなく、より大きな結びつきに至る途上」という言葉は意味をなさなくなってしまいます。

歴史を振り返れば明らかなように、対立・反目は永続的なものではありません。時間の長短はあれ、いつかは必ず平和な結びつきが訪れるのです。

ゆえに、たとえ「逆縁」の関係にある人であっても、その人を悪と決め付けたり、口を極めて罵ったり、ましてや抹殺や撲滅などを願うなどは仏法的在り方とはいえないということになると思います。

名誉会長はこう続けます。

それを象徴的に示しているのが、提婆達多への成仏の約束である。提婆達多は、釈尊のいとこであり、弟子でありながら、反逆し、釈尊の命を狙うなど迫害の限りを尽くした悪人だが、にもかかわらずその「逆縁」によって未来における成仏を約されているのである。したがって仏法では「順縁」=味方、「逆縁」=敵といった対立的思考は、決して生じてこない。ナチズム、やスターリニズムに顕著な、相対立する人間や集団を敵と決めつけ、抹殺し去るような思考方法は、仏法とは原理的に無縁である。対立的思考方法では、人間関係を綾なす「縁」そのものを破壊し、「沐浴の水といっしょくたに、子供まで流してしまう」というドイツの諺そのままの結果をまねいてしまうであろう。したがって、すべてを「善と悪」、「光と闇」、「敵と味方」に二分していくマニ教的二元論のタイプほど、仏法的発想と遠いものはないのである。

「逆」とはいえ、「縁」を持つ者ならば、敵としてではなく、今は仮に対立関係にある者と受け止め、「逆」を「順」へと転換しゆく努力を忍耐強く積み重ねていくということこそ、名誉会長の強調する「仏法的発想」とは言えないでしょうか。

そうした「覚者」としての自覚に立った眼差しを「縁起」に見い出していかない限り、対立と反目の溝は埋まるどころか憎しみと暴力の連鎖が繰り返されることは間違いないでしょう。

これもあまたの歴史の事実が多くを語っています。

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■内面的な自覚と覚醒による自己統御

それでは、私たちは、具体的にどのようにして、「自己規律の力」を身につけていけばいいのかについて考えてみたいと思います。

池田名誉会長は、論文「非暴力に関する私の一考察」で、自己規律の力について、次のように語っています。

けだし、この「自己規律の力」こそ、ともすれば暴力か非暴力かという二者択一、果てしなき、不毛の二律背反に陥りがちなこの問題を弁証法的に止揚し、非暴力を恒久平和への時代精神まで内実化させゆくキーワードとはいえまいか。

そして、仏法は理想的人格としての「仏」が「覚者」とされているように、人間の優れて内面的な自覚と覚醒による自己統御、すなわち「自己規律の力」の発現の方途を説き明かしているのである。

ここで述べられる「自己規律の力」の発現の方途とされる、「内面的な自覚と覚醒による自己統御」を獲得することは、実際には極めて難しいことと思われます。

特に信仰者にとって。

なぜなら、信仰とは、ある意味では人間に陶酔をもたらす行為だからです。

事実、その陶酔が度を越すことにより、狂信に陥ってしまう新興宗教等は枚挙にいとまがありません。

私たちが奉ずる大聖人の仏法の卓越性は、この狂信という宗教が陥りやすい傾向に人々を導かない点にあると思います。

酔わすのとは真逆で、覚醒こそが、この宗教の本義なのだと、ご本仏は私たちに示されました。

ある意味では、宗教らしくない宗教といえるかもしれません。

「宗教に酔ってはならない、自己に目覚めよ」と呼びかけるのですから。

自己を究極まで捉えきることによって、自分の振る舞いを自在にコントロールしうる力こそ、「内面的な自覚と覚醒による自己統御」なのではないかと、私は考えます。

つまり、これこそが理想的人格としての"ジェントルマン"の振る舞いであると。

そこでもう少し先に考えを進めてみます。

ジェントルマンの振る舞いは、何をもたらすのかについてです。

ジェントルマンシップといっても、それが自己充足的なものに陥っては、逆に笑いの種ともなりかねません。

あくまで何のためのジェントルマンシップなのかが、重要になるわけです。

先に引用した論文「非暴力に関する私の一考察」の続きの部分を紹介します。

ここでは、その一端として、仏法の根本教理である「縁起」という考え方に簡潔に触れておきたい。「縁」とは結びつき、繋がりを意味し、仏法では、すべての現象が「縁」によって「起」こると説く。人間界であれ自然界であれ、そこに生ずる出来事は、一つとして単独に生じるものはなく、一切は、相互の結びつきの中で起こってくる、としている。
池田名誉会長は、「自己規律の力」を発現させるべきは、仏法において「縁起」と呼ばれる人と人との関係性においてであることを述べています。

そして、この後も、「縁起」観についての深い洞察が続きます。

(つづく)

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妻が地元の小グループの会合に出席してきた模様を話してくれました。

少人数ながら、和気藹々とした雰囲気が素晴らしかったそうです。

中でも、普段、なかなか会合等に顔を出されないKさんが参加されたことに妻はとても喜んでいました。

Kさんとは、これまで親しみをもって話す機会がもてなかったらしいのですが、この会合で初めて自分の趣味などについて語ってくれたのだそうです。

私はその話を聞き、素晴らしいな、と思いました。

私はKさんが心を開かれた理由はなんだろう――と考えてみました。

一つは妻とともに婦人部の方が繰り返し家庭訪問をし、会合のお誘いをしてきた、ということがあるでしょう。

でも、それ以上に大きいのは、やはり語りやすい雰囲気であろうことが、Kさんにとっても予想がついていて、実際、そういう空気の集いであったということにあると私は思います。

わが地区において座談会の持ち方は、基本がブロック座で、地区でしなければならない場合だけ、地区1本でという形が伝統となっています。

座談会の命は対話にあるということが地区に浸透しているからです。

そのおかげか、わが地区のブロックを中核とした信頼感、結束力には定評があります。

これも小単位による対話を軸とした座談会を続けてきたためであろうと確信します。

同じく地区伝統の壮年懇談会とともに、本音が語れる対話重視の組織運営の伝統をこれからも守り続けていこうという思いで私たちはいつも一致しています。

2005年5月7日付聖教新聞に掲載された〔5・3記念〕最高協議会での池田名誉会長のスピーチから、小単位の会合の重要性について語られた箇所を以下に紹介します。

アメリカの名門タフツ大学の元宗教学部長で、仏教研究で著名なハワード・ハンター博士も、「5・3」を祝福し、こう語ってくださった。

「創価学会のこの75年間の発展には、まさに驚嘆するほかありません。宗教の運動の歴史から見ても、これほどの発展をだれが予測できたでしょうか」

そして、学会が発展した理由について、次のように述べておられた。

「創価学会の大発展の理由の一つは、この運動が、人間の魂に訴えかける運動だからです。自身の人生、さらには、周囲の人々の人生を意味あるものにするという価値創造の運動が、人々の心にアピールするのです。
そのうえで、創価学会には、洗練された組織力があります。学会の思想を、会員に伝えていく体制が整っています。
さらに、小単位のグループに焦点をあて、それを発展させていくところにも学会の強さがあります」

明快な洞察である。

大切なのは、会員一人ひとりである。小単位の集いである。

婦人部の少人数の会合をはじめ、座談会などの"草の根の語らい"こそ、時代の最先端を行く民衆運動なのである。

博士は、次のようにも語っておられた。

「学会には、"仏教の実践で得た喜びを他人に伝えずにはいられない"との情熱があります。
また学会の魅力は、一般の市民から学識者まで、幅広い階層の人々が参加しているところにあります。
そして学会には、自由な発想があります。自分自身の主張を活発に展開していける自由の気風が、人々を引きつけているのだと思います」

深いご理解に感謝したい。

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■出世の本懐は人の振る舞い

私たちは、社会、組織、家庭の中にあって、さまざまな個人的な感情の変化を繰り返しています。

時には、他人のさわやかな印象を受けて、心が温まったり、逆に無神経な態度に腹を立てたり......。

十界(生命状態)のエレベーターは一日中忙しい。

しかし、人がもし、自己の感情を常にすべて、表面に、また言葉に表していたら、一体どうなるのでしょうか。

恐らく、相当騒がしく、波風ばかりが立つ落ち着かない世の中になっているはずです。

ところが、一般の人間の社会には、ある一定のルールが存在し、そのルールに則って、人はそれぞれの感情表現のレベルを決定し、それを実行しています。

これは、ほぼ無意識のうちに実行されているものです。

このルールは常識という外発的な抑制力に負っており、各人の内発的な自己抑制力の影響は少ないのではないかと私は思います。

従って、そうした一般常識が支配する自己抑制は、ウィルソン教授のいうところの「洗練された自己抑制力」とはやや次元が異なるものと考えられます。

常識という外発的抑制力を超えて、いかに自己を律する内発力をもち得るか、つまり、「寛容」「忍耐」「内的資質」をもち得るか否かが、"ジェントルマン"であるか否かの分かれ目となってくるのではないかと思うのです。

「崇俊天皇御書」の最後はこう締めくくられています。

一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞いにて候けるぞ、穴賢、穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ

「出世の本懐は人の振舞い」と断じ、正義の人を命をかけて守り、人間を蹂躙してくる者を決して許さなかった生涯を貫かれた大聖人を、究極のジェントルマンと呼んだら、果たして謗法に当たるのでしょうか。

しかし、私は、あえて申し上げます。

「大聖人のお振る舞いこそ、ジェントルマンシップの極みである」ということを。

(つづく)

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■最高度に洗練された自己抑制の模範――ガンジー

それでは、この"ジェントルマンシップ"の中核をなし、精神の支柱とも言うべき、自己規律についてやや立ち入って考えてみたいと思います。

ブライアン・ウィルソン教授は、「最高度に洗練された自己抑制の模範」として、ガンジーを挙げています。

教授は、ガンジーのとった非暴力の戦いをこう評価しています。

ガンジーが行ったような消極的抵抗運動の優れている点は、たしかに、ある特定の信条を推進しようという者や、抗議を表現しようとする者の側に、非常に高度な自己鍛練、公平な精神、客観的視野などが要求されるということです。(中略)自己の感情の束縛を断ち切るためには、質の高い自己抑制と同時に、高度な自己批判や自己反省を必要とします。それはまた、人々に、人間関係においても不可欠であり、あらゆる社会的発展のためにも不可欠なものとして、秩序と礼儀と他人への尊敬が必要であることを、認識するよう求めます。
(「社会と宗教」)

イギリス帝国主義支配からの独立というインドの悲願を勝ち取ったガンジー。

その最大の要因は、彼が唱え、自ら実践した非暴力抵抗主義でした。

その一見、あまりにも消極的な抵抗方法である非暴力主義をガンジーはなぜとったのでしょうか。

ここに"ジェントルマンシップ"の粋をみることができると思います。

ウィルソン教授はこう解説します。

自分にとって最も関心事を、じっと冷静に見つめることができるということ、また、自分の力の限りの努力さえも評価されずに終わってしまうかもしれない立場に、我が身をさらせるような寛容、忍耐、内的資質を身につけること――これらは、きわめて高度に洗練されていることを示すものです。感情を交えずに安定感のある、粘り強い、しかも、一歩も譲らない態度で取り組んでいくということは、倫理的振る舞いの頂点を極めたものといえましょう。人間の最も奥深い感情がかき乱されるときにどう振る舞うかが、私たちがどこまで洗練されているかの尺度なのです。
(「社会と宗教」)

「自分の力の限りの努力さえも評価されずに終わってしまうかもしれない立場に、我が身をさらせるような寛容、忍耐、内的資質を身につけること」という極めて強靭な精神の力こそが、かのガンジーを"マハトマ(偉大なる魂)"と呼ばしめたということなのでしょう。

そしてウィルソン教授の言説からは、ガンジーの本質に迫ろうとする教授自身の精神の強靭な働きを感じざるをえません。

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■「人権ルネサンス」は精神性の復興から

伯は、ヨーロッパの騎士道にジェントルマンシップの"精神の美"を見いだしていますが、池田名誉会長は、日本における武士道にそれを見ています。

1991年のハーバードの講演で名誉会長は、武士道による日本人の精神形成は内発的であり、明治の末年まで、日本独自の精神文化の美しさと魅力をたたえていたことを指摘しています。

また、武士道が形成されていった江戸時代は、汚職や犯罪が現代とは比較にならないくらい少なかったことを挙げ、「精神のはたらきが内発的であったがゆえに、人々は自己を律するに過つこと少なく、人間の証ともいうべき克己のかたちに無理がなかった」としています。

騎士道、武士道に共通する精神は、自制と自律であると思います。

ここに私は西洋、東洋を普遍して流れる、精神美の精髄をみたいと思います。

しかし、この騎士道、武士道の精神を回復せしめようと呼びかけても、一般的には時代逆行もはなはだしいと退けられるに違いありません。

だからこそ注目すべきは"ジェントルマンシップ"なのではないかと思うのです。

名誉会長は、スピーチで、続けてこう呼びかけています。

私どもは人権の「闘士」であり、「騎士」である。文化のために戦う「ジェントルマン」であり、「レディー(貴婦人)」である。

世界は「人権の時代」を志向している。そのために、「精神性の復興」を必要としている。そして「仏教のルネサンス」に熱い視線を送っている。

私どもは、「一人の人間の尊厳」を最も根本に説かれた日蓮大聖人の真の門下として、21世紀へ、「人権ルネサンス」ともいうべき、大いなる人間解放の運動を、絢爛と進めてまいりたい。

ジェントルマンだからといって、男性とは限らない、女性にとっても「レディー(貴婦人)」としての精神美があるということを名誉会長は述べています。

先にも述べたように、"ジェントルマンシップ"とは、職業、地位、財産、国籍、性別等の一切の社会的レッテルに左右されるものではなく、ただひとえにその人の持てる精神が高貴であるのか否か、つまり、どんな苦境にあろうとも、希望を捨てず、人にやさしさをもって振る舞えるか、民衆を見下す傲慢な人間たちとは命をかけても戦っていく勇気を持ち合わせているか――など精神の輝きを胸に秘めているか否かで決まってくるのではないでしょうか。

私はそう思うのです。

(つづく)

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2009年2月12日付の朝日新聞投稿欄「私の視点」に載った2氏による意見を興味深く読みました。

いずれも素晴らしい意見だと感じたので、全文を掲載させていただきました。


◆介護 病院でもボランティア活用を
町田市地域密着型サービス運営委員
辻清司氏


◆町村議会 全員野球で住民と向き合おう
北海道町村議会議長会事務局長
勢旗了三氏



二つの投稿は偶然、同じ日に掲載されたものなのでしょうが、私は読みながら、共通のキーワードが頭に浮かんできました。

その言葉とは、「参画」です。

両者とも、この言葉を使ってはおられませんが、二氏が訴えているのは、社会貢献や政治への住民の積極的な「参画」であると私は推察します。

辻氏の投稿は、行政や医療機関などではカバーしきれずにいるが、重要と思われる箇所にボランティアとして「参画」していこうという住民へ呼びかけであり、そうした受け入れを可能とする行政や社会に対する機構づくりの提案です。

高齢化の進行に伴い、あらゆる場面において、働き手の能力を超えたサービスやマンパワー等が求められる時代となっています。

若い人手、働き手が足りないと言ってしまえばその通りですが、辻氏が指摘する通り、高齢化の一方で、元気に働けるお年寄りは決して少なくありません。

仕事をリタイヤしたが、なかなか"生きがい"を見い出せずにいるという声も多く耳にします。

辻氏が挙げるボランティアという言葉は、古くから使われてきたものですが、今こそ、時代が求める極めて重要な言葉であり、概念になりつつあると私は感じています。

もう一つ、勢旗了三氏が投稿で求めいることは、直接的には議会側の変化ですが、真意としては、住民側の意識と行動の変化をこそ求めているのではないかと私は感じます。

なぜなら、議会といえども、もともとは住民そのものだからです。

以前にも述べた(住民参加がもたらす誇りと責任感――智頭町・百人委員会の取り組み)ように、議会(議員)は、本来、住民の代表として選挙に選ばれるのですが、いつしか行政の代弁者となり、住民への単なる説得役になり下がってしまうケースは珍しくないと思われます。

もちろん、頑張っている議員もいるでしょう。一人ひとりの声に耳を真剣に傾け、行政に反映させている多くの議員を私は知っています。

ただ、私がここで申し上げたいのは、住民が直接に政治や行政に対して、「参画」できる仕組み、枠組みは決して多くなく、それが、住民の議会や行政に対する不信感につながっているのではないかという懸念です。

私は地方議会の傍聴に何度か足を運んだことがありますが、傍聴席は例外なくがらがらで、無人に近い状態が多いのです。

昼間から議会傍聴などできない――というのは当然かと思います。

ですが、これでは議会の活性化というものは望むべくもないでしょうし、住民としても政治にかかわれるのは、投票行動のみというのが実情ではないでしょうか。

私たちはもっともっと社会や政治に積極的に「参画」していくべきではないでしょうか。

方法は多様です。

両氏が指摘するボランティア、議員との対話集会等、すぐにでも始められることが、たくさんあるはずです。

それぞれの地域において、そうした「参画」のアクションが可能かどうか、まずは話し合ってみる時間を設けてみてはどうでしょうか。

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町村議会――全員野球で住民と向き合おう

北海道町村議会議長会事務局長
勢旗了三氏


2009年2月12日付朝日新聞投稿欄「私の視点」より転載

 人口の減少と財政窮迫が続く全国の町村で、議員定数を削減する流れが止まらない。

 地方自治法は、自治体の人口規模に応じ、地方議会の議員定数に上限を設けている。たとえば、2千人未満の町村は12で、2万人以上なら26が上限だ。下限はないから何人でもよい。

 北海道の町村議会の場合、95年の1町村当たりの平均定数は16.9だった。それが07年には12.4にまで減った。さらに07年の統一地方選を機に、定数を1けたにするところが増えた。いまや145町村のうち26町村にのぼる。最少定数は6だ。

 議員の「新陳代謝」機能も衰えている。道内の町村議員の平均年齢は95年の58.6歳から、07年には60.6歳になった。新人議員の平均年齢もこの間に4歳ほど上がり、07年は56.3歳だった。

 公職選挙法は、当選人の不足または欠員が定数の6分の1を超えたら、再選挙または補欠選挙をすると定めている。だから「1けた議会」は1、2人が欠けただけで選挙になる。

 だが昨夏、北海道上砂川町では欠員2の補欠選挙に、1人しか立たなかった。07年春には、奈良県上北山村が以前より2減の定数7で選挙したところ、5人しか立候補せず、1カ月後に残る2人の再選挙をしなければならなかった。

 住民の高齢化もあり、議員の確保すらおぼつかない。そんな現実が見える。
しかし、議会の「減量」があぶりだす本質的な問題は、共同体の構造変化そのものだろう。これまでは、農村社会が共同体の基盤であり、その「まとめ役」として、農家出身の首長や議員が選ばれてきた。だが近年、こうした農村社会そのものが変容した。

 同時に、一部の利害関係者に偏らずに、住民の多様な意見を直接、反映させるべきだという住民意識も強まっている。合併の是非をめぐる住民投票のように、地城の意思決定に住民参加を求める例が増えているのも、その証左といえる。

 住民意識の変化は当然、住民代表の議会のあり方も変えていく。人口が減り、議員も減る地域だからこそ、一人一人ができる範囲で役割を果たす「全員野球」の議会に変われないか。そんな模索を始めたところがある。先駆的な事例が、議事堂から飛び出して、住民とひざ詰めで対話する町村議会だ。

 道内の実例を拾うと――。

 白老町議会は移動委員会を開いている。昨年は町の手数料値上げをめぐって2カ所で催し、委員会の質疑のほかに、住民の質問にも答えた。

 沼田町議会では年4回の議会広報を議員がすべて手づくりで発行する。町職員も交えた勉強会を続けてきた結果、定例議会の一般質問には、毎回全員が登壇するようになった。

 06年に全国初の議会基本条例を制定した栗山町では、住民と議員が向き合う議会報告会の模様が報道され、住民との懇談は首長の「専売特許」と思われてきた固定観念がうち破られた。住民から寄せられる声も様変わりした。地域エゴ的な要望や苦情は減り、財政問題を真剣に問う内容が増えたという。

 議会は変わりつつある。いまも議会に対する住民の不信や批判は根強いが、それは議会が変われば地域も変われるという、議会への期待と裏表の関係にあると思いたい。全員野球で住民の期待にこたえて、地域の隅々にまで目も手も届く議会活動をすることが、新たな地域づくりにつながるはずだ。

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介護――病院でもボランティア活用を

町田市地域密着型サービス運営委員
辻清司氏


2009年2月12日付朝日新聞投稿欄「私の視点」より転載

 東京都町田市にある特別養護老人ホームで入居者の話を聴く傾聴ボランティアをしている。始めて6年にもなると、多くの人が待っていてくれ、69歳になる私を笑顔で迎えてくれる。

 今世の中で起こっていることについて聞かれたり、昔暮らしていた土地の話、若いころの思い出などの会話が弾む。歴史好きな私としても大正、昭和初期の暮らしぶりを生で聞くことができて勉強になる。認知症の入居者にも必ず声かけを心がけている。相手の目が輝くと、こちらもやりがいを感じる。

 施設の中で感じるのは、何といっても職員の過重な労働だ。入居者から片時も目が離せず、少ない人数できりきり舞いする姿に頭が下がる。何とか事態を改善できないかと本当に思う。

 介護保険制度の財政状況は厳しく、介護を受ける側も、そこで働く側もつらい思いをしている。介護報酬は4月から3%増やされるが、わずかな額ではとても人員確保に結びつくとは思えない。

 そこでボランティア制度に注目したい。現在、東京都の稲城市や世田谷区などをはじめ各地で、介護事業の手伝いをした高齢者に対して換金できるポイントを与える介護支援ボランティア制度が発足している。報酬は1時間100円程度が一般的のようだが、こうした制度を福祉施設だけでなく、病院などへも展開できないだろうか。

 数年前、私の実母と義母が相次いで足を骨折し、2人とも入院生活中にすっかり認知症が進行してしまい、介護施設にお世話になった経験がある。病室で動かずに、白い壁に向かって会話もなく毎日を過ごしていたことで、認知症が進んだらしい。もし、ボランティアが病院で介護を手助けする道があれば、と思った。現に、ボランティアの募集を独自に始めている病院もあるから需要はあるはずだ。

 ボランティアとはいえ、できる仕事の範囲は幅広いだろう。話し相手、趣味、スポーツ、職員の仕事の補助など何でもよいと考える。介護保険制度は、このままでは保険料の大幅アップにつながるし、要員問題も改善できるとは思えない。人手不足の中、ボランティア的な労務はこの先、必須になっていくかもしれない。だから、社会貢献にもつながるこの制度の積極導入を提案したい。
 国は認知症の人を理解し、支援するボランティアを育ててゆく「認知症サポーター制度」にも取り組んでいるが、医療と介護の共通のボランティアの確保が大切である。介護事業者の経営面にも役立つだろう。

 退職を迎える団塊の世代は、まだ若い。ボランティア精神が旺盛な意欲のある人も多いはずだ。

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■「高貴な精神の砦」を持つ人

名誉会長のスピーチを続けて引用します。

伯は「ゼントルマン」という文章の中で、こう書いている。

「ゼントルマン理想は、西洋における人間性の神髄を成すものである」「ゼントルマンとは言葉の上では"やさしい男性"という意味である。乱暴な人間、野蛮人、ギャング等とは反対の文化人のことである」(「クーデンホーフ・カレルギー伝」)

ヨーロッパにはかつて、「騎士道」など、こうした"精神の美"への理想があったと。

(中略)伯は主張された。

「国家の革新は、人間の革新から出発する必要がある」

(中略)このように、伯は、「ヨーロッパ合衆国」という大いなる理想の成否はひとえに、人間が、「高貴なる人間性」を蘇生させられるかどうかにかかっていると訴えたのである。

その一つが「仏教のルネサンス」への期待であり、もう一つが、「ジェントルマン」教育への期待であった。

私が思うところでは、ジェントルマンといっても決して特別な、そしてエリートを指すのではないと思います。

もちろん、職業でもない、権威でもない、つまり、形に左右されるものではありません。

どんな立場、どんな仕事、どんな苦境、どんな幸福のなかにあっても崩れざる「高貴な精神の砦」を持つ人がジェントルマンであると定義したいと思います。

言い換えれば、常に変わらず悠々と、自分に挑戦し続ける人、まただれに対してもやさしく接することができる人――であると思います。

これとは逆に、自分の挑戦課題を放棄した人、また挑戦をしようとしない人、人に対して傲慢な態度を平気でとる人――は、ジェントルマンとは到底言うことはできません。

伯の言う、"野蛮人"そのものだと言っていい。

(つづく)

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■ジェントルマンシップにみる理想的人間像

大聖人が私たち弟子に生涯をかけて求められた「理想的人間像」とはどのようなものを指すのかについて考えてみたいと思います。

私は、それを"ジェントルマンシップ"にみたいと思います。

この"ジェントルマンシップ""ジェントルマン理想"を提示したのは、EU(欧州連合)の前身であるEC(欧州共同体)統合運動の先駆者であるクーデンホーフ・カレルギー伯です。

この"ジェントルマンシップ"について、名誉会長のスピーチ(1991年9月19日 各部代表者会議)から引用します。 

ヨーロッパの精神的空白を埋めるものとして、伯が宗教革新運動とともに期待したものがある。

それは宗教の次元は別にして、普遍的な「理想的人間像」を形成することであった。

すなわち「ジェントルマン(紳士)」への教育である。

宗教は大切であるが、それは「立派な人間」をつくるからである。

「人間」をゆがめ、「人格」と「知性」を抑圧するようであれば、宗教は有害である――伯はそう考えておられた。

やはり、どこまでも「人間」である。現実の「人物」がどうかである。仏教の真髄も"人の振る舞い"にある。

ここで重要だと思われるのは、人は、無為のうちに「理想的人間像」を獲得するのではなく、形成され、つくられ、教育されて初めて出来上がるものである、ということでしょう。

といっても、統一規格的に人を"理想"とされる型にはめ込んでいくということではもちろんありません。

その人の人格の力、知性の力によって、間断なき努力の末、獲得されるものです。

教育とその自己の挑戦の姿勢との相互作用なくして、"ジェントルマン"への道はないということだと思います。

(つづく)

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■自己の内に眠る蒙昧との闘争

それでは、私たちは、一体、どこへ向かって、何に対して、人権の闘争を起こせばよいのでしょうか。

宗門? 政治? ......どちらも必要なことですが、その前に必ずしなければならないことがあります。

それは"自己の内に眠る蒙昧との闘争"であると私は思うのです。

名誉会長は、"「人間の権利」に鈍感な者"と表現されています。

自己における「人間の権利」を意識としての獲得なくして一体、他人のいかなる「権利」を獲得しようというのでしょうか。

文豪ユゴーは「人間の権利」をこう語っています。

人の精神から何物をも取り去らないようにしようではないか。除去することは悪いことである。ただ改革し進化させなければいけない。人間のある種の能力は、未知なるものの方へ向けられている、すなわち、思想と夢想と祈祷とが。未知なるものは一つの大洋である。人の本心とは何か? それは未知なるものに対する羅針盤である。思想、夢想、祈祷、そこにこそ大なる神秘的光輝がある。それらを尊敬しようではないか。人の魂のおごそかなるそれらの発光はどこへ向かって進むか。それは影へ向かってである。換言すれば光明へ向かってである。
民主主義の偉大さは、何物をも否認しないことである。人間の権利の側に、少なくともその横手に、魂の権利がある」(「レ・ミゼラブル」 岩波文庫)

人の精神から何物を取り去ってはならない――人権の闘士・ユゴーの面目躍如たる箴言であると思います。

人権の闘争を開始するに当たって、肝に銘ずるべきは、この言葉にあると思うのです。

何も取り去らない、除去しない、否認しない。

「魂の権利」を守る闘いは、ここから始まるのではないでしょうか。

つまり、自己の魂を何の制約もなく飛翔させることです。

さて、次に何が必要となるのでしょうか。

それは、自己の魂を善導することにあると思います。

何を基準に? 言うまでもなく、大聖人の仏法でしょう。

私は、当たり前のことを言っています。

しかし、各人の「魂の権利」から発するところの、要するに人間として本来あるべき姿、理想の人間像を志向するという前提に立って初めて、「人権」の価値は生まれ、大聖人の仏法が輝きを増すのです。

その目的観なしには、人間は信仰を持つ意味はないと言っても言いすぎではないと思うのです。

(つづく)

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■人間のための人権闘争

この御書が、「人間の権利」に収録されていることを、名誉会長は平成3年3月16日付聖教新聞掲載のメッセージ<永遠の3.16を記念「魂の炎のバトン」を君たちに――愛する青年部諸君に贈る>で紹介されています。

その中から、やや長文になりますが、人権闘争の在り方に言及されている部分を引用します。

――汝らは権力者である。私を処刑し流罪することも、また許して自由にすることもできよう。しかし、心を縛ることまでは絶対にできない。断じて私は、汝ら権力者の奴隷にはならぬ、と。

まさに大聖人の御生涯の確信を凝集したお言葉と拝される。

問答無用の権力者と戦い抜かれた御一生であられた。

ただ、精神の力、ただ道理の力で――。

"汝は権力者という政治上の王者かもしれない。しかし、私は精神界の王者である"との御本仏の御確信が鋭く伝わってくる。

この書のみならず、今、世界の多くの人々は、大聖人の御生涯に「人類のための人権闘争」をみている。そして、まさに「人権宣言」の偉大なる先駆者と賛嘆し、崇敬しているのである。

日本では、これまで本格的な、また、根本的な「人権闘争」がなかった。そのためか、人権に対する感覚も鈍い。私どもの運動の崇高な意義も、なかなか理解されない面がある。

「人間の権利」に鈍感な者は、他人の権利を踏みにじりがちである。やがては自分の人権も奪われてしまうことになろう。断じて、そうした不幸な時代をもたらしてはならない。「人権の夜明け」を開かねばならない。そのために青年がいる。諸君がいる

池田名誉会長の私たちに対する、高らかな「人間のための人権闘争」へ呼びかけです。

(つづく)

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■ご本仏と凡夫の人権感覚の違い

「撰時抄」の一節を拝します。

「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」(御書287ページ)

――王の権力が支配する地に生まれたのであるから、身は従えられているようであっても、心は従えられません。

大聖人が佐渡流罪から鎌倉に戻られた時、当時の権力者・平左衛門尉に対して、厳然と仰せになったお言葉です。

この一節は、ユネスコが編纂した「語録 人間の権利」(桑原武夫監訳 平凡社刊)に収録されています。

大聖人は、ここで、まさに私が呼ぶところの「積極的人権」の尊厳を宣言したお言葉だと拝察します。

なぜなら、大聖人は、"権力"のもとに「消極的人権」を蹂躙されていたことは事実なのですが、大境界からその事実を見下ろされているのです。

つまり、精神が蹂躙されなければ、身体を蹂躙されたとても、たいしたことではない、と断言されているわけです。

私たち凡夫は、決してそういうわけにはいきません。

身体的な蹂躙、拘束には、どんな形であろうが、反発を覚え、狼狽するものですが、逆に精神的な蹂躙を受けているにもかかわらず、それに気がつかない場合があるのです。

いや、その方がむしろ多いのではないでしょうか。

そこが、ご本仏と凡夫との差であるゆえんなのでしょうが、それを境涯が違うのだから、仕方ないと済ませるわけにもいかないと思うのです。

(つづく)

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■消極的人権と積極的人権

私はここで、いわゆる憲法などで謳われる人権を「消極的人権」と呼び、これから、私たちが考え、進めようとする人権ルネサンスのとらえ方としての人権を「積極的人権」と呼びたいと思います。

先も述べたように、憲法などが守るところの人権は、犯罪などを通して、侵された時に初めて概念として登場するものであって、普段は意識されることはほとんどありません。

ゆえに私たちの意識が薄いのも当然であろうと思うのです。

人権というものが、この「消極的人権」のとらえ方にとどまるならば、そこには本来の人間性の輝きを見い出すことは難しく、人権を蹂躙された人の苦汁に満ちた表情が想像されるだけなのではないでしょうか。

これに対して、人権を「積極的人権」としてとらえるならば、制度的に人間の尊厳を守る意味にとどまらず、人間性の解放、魂の自由、精神の飛翔までをも可能にするニュアンスが込められてくるはずです。

私たちが守るべき人権は、そうした人間の内面、精神の問題としてとらえていきたいと思うのです。

そうすることによって、生命の発動、深化、向上のベクトルが立ち現れ、本来の人権の意義の輝きも初めて獲得されるのではないでしょうか。

この「積極的人権」を守る使命こそ、宗教が人間に果たす最大にして、最高の目的であると私は思うのです。

そして、私たちは日々、人に対し、また人と人との関係によって生じるすべての事象に対し、「積極的人権」の意識をもって臨んでいくべきであると感じるのです。

(つづく)

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世界各地で池田SGI会長の思想を学ぶ機関が設立され、平和思想の源泉と本質に迫る動きが活発になっています。

素晴らしいことだと思います。

世界の一流の、一級の知性と呼ばれる人々がなぜ、池田思想を求めるのか――。

その答えは、言うまでもなく、池田SGIの会長の思想そのものが、世界の知性をして、頭をたれざるをえない、深さと高さ、そして普遍性などにおいて卓越しているからにほかならないと思われます。

私たち創価学会員、つまり弟子の立場においてはどうでしょうか。

私たちは、どこまで池田先生の思想というものに肉迫できているでしょうか。

たとえば、先日のSGI提言です。

これは池田先生の思想のエッセンスであり、私たちに具体的な行動を呼びかけ求めた提言なはずです。

しかし、この提言の内容、意義について、語り、語られる機会は、私の周囲には残念ながらありません(他の地域においては存分に語られているのかもしれませんが)。

過去にわたっても、SGI提言をもとに、私たちは何を思索し、語り合い、具体的な行動をなしていくべきか――といった師にこたえようとする機運が、私の周囲においては皆無に等しいのです。

「若き指導者は勝った」に、戸田先生が雑談の中で語られたことを池田先生が何一つ聞き漏らすことなく、たとえ周りが冗談だと思ったことでさえ、将来の構想ととらえ、実現されてきたという記述が幾度となくありました。

これが師弟不ニの精神であり、弟子としての姿勢であると強調されていました。

私たちは、毎年のように、提言という形で、平和実現への極めて具体的な理念と構想をいただきながら、何も考えることもなく、何も語られることもなく、何も実践することもなく、放置してきてはいないでしょうか。

私自身、思索こそすれ、対話する相手すら見つけられず、具体的な行動にまで結び付けられずにいるのが実情です。

池田先生は、今年のSGI提言で、「人道的競争」を求められました。

私たちが推進し、実現していくべき具体的「人道的競争」の実践とは何なのか――。

考えていく必要があると思います。

語り合っていく必要があると思います。

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■標語化する人権

それでは、この「人権」とは、一体いかなるものかを考察してみたいと思います。

人権というと、とかく私たちの感覚でいうと、憲法が謳うところの「基本的人権の尊重」の件(くだり)であったり、政治が何とかするものであって、私たちが云々できるものはないといった印象が根強いと思います。

つまり、「標語化」した言葉となってしまっていて、私たちの生活に直接かかわるイメージが弱くなっているのです。

これだけ、平和で豊かさを享受している日本なのですから、そのような意識が普通なのかもしれません。

しかし、かといって、人々は自分たちの生活や取り巻く環境、人間関係などに決して満足し切っているわけではありません。

何かかしらに「不満足」を抱えているものです。

つまり、「抑圧」を受けている、または感じているということです。

それでは、人権が侵害されているのかといえば、さにあらず。

もし、人々が感じている「抑圧」を人権侵害として取り上げたら、日本中が憲法違反だらけということになるでしょう(実際は憲法違反は大手を振って横行しているのですが)。

しかし、人権侵害が公の形で認め得るのは、犯罪にからむ場合に限られ、そのほかの人権抑圧に対する、法的な対応はまだまだ不十分であるのが実情です。
がゆえに、私たちの人権感覚も、先に述べたような希薄なものにならざるを得ないと思われるのです。

それでは学会は人権闘争であると言い放ったとしても、空しい大言壮語に終わってしまう恐れを否定できません。

まず、人権の守り手である私たち自身が人権と意味と意義について、学び理解いく必要があるのではないでしょうか。

(つづく)

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■制度に翻弄される人間

ところが、これもまた人間らしいといわれるべきなのでしょうか、人間は自分自身のためにつくりあげた「制度」に逆に翻弄されてしまう傾向性をもっています。

人間のためにつくられた「制度」であるその宗教も、その例外ではありませんでした。

池田名誉会長はチンギス・アイトマートフ氏との対談で以下のように述べています。

人間のための宗教」と対極に位置しているのが「宗教のための人間」という、一種のパラダイム(範型)です。
そこでは「宗教」が「人間」よりも上位に位置しており、宗教的権威――それは「偶像」であったり「聖職者」そのものであったり「教条(ドグマ)であったりします――のために、人間が手段となり犠牲に供せられてしまう。
いうまでもなく、人類史を彩ってきた宗教の多くは、このようなパラダイムに入ります。
大小の宗教戦争ひとつ取り上げてみても、太古より現代に至るまで、いっこうに後を絶たないということがその証左です。
それでは、宗教は「平和」でなく「戦争」に奉仕してしまう反人間的な存在に墮してしまうでしょう。
「善」の価値どころか「反目」や「不信」「不正」「憎悪」「臆病」「卑怯」など「悪」の価値をはびこらせ、増長させる"培養基"となり、「悪」への加担を、宗教的な装いで美化し、正当化してしまう始末です。
(中略)
だからこそ、私は、「宗教のための人間」から「人間のための宗教」への、ある種の宗教革命を、時代の転換へのキーポイントとして叫び続けているのです
(「大いなる魂の詩」より)

本来、人間のためにつくられた宗教が、人間を手段化し、やがて人権までをも蹂躙するように変貌していく傾向性に歯止めをかけるにはどうしたらよいのでしょうか。

真の宗教改革、人権ルネサンスを唱える私たちに課せられた大きな課題であり、命題であると思います。

その追求なくしては、私たち、もしくは子孫たちもいつか必ず、その悲劇を自ら招いてしまうに違いありません。

(つづく)

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■はじめに

「宗教は、人間の制度の中で最古のもの」(B・ウィルソン教授 「社会と宗教」)といわれるように、宗教の歴史はそのまま、人間の営みを反映してきたといえます。

「制度」とは、もともと存在するものではありません。

必要に応じて人間がつくりあげるものです。

人間にとって、なぜ宗教という「制度」が必要になったのでしょうか。

まず、そこから考えてみたいと思います。


■宗教的感情の源泉

ウィルソン教授は、人間のもつ宗教的感情の源泉を次のように分析しています。

「宗教的感情、ことに、比較的素朴な人々の間に見られる宗教的感情は、人間が不安や未知の事柄、厄介な事態などに直面して経験する、種々の基本的な情感から生起するもののようです。こうした現象から生起する感情は、畏敬、恐怖、崇敬などの心や、強大と思われる諸力を鎮めたいという欲求を、刺激します。依存心、無力感、深刻な不安などが生じると、そうした、自分では制御できない、さまざまな情動を鎮めるための行為が必要となります。これらの儀礼的行為は、一つには、それらが馴染みの――ときにはほぼ習慣化した――反応となるため、また、もう一つには、それらが引き起こすと思われる客観的な諸々の結果によって、主観的状況に変化をもたらすのです」(「社会と宗教」)

この分析によると、自己という存在に何か、非日常性の、または異常な状態が発生した場合に、私たちが感じる感情の揺れを鎮め、平静の状態にしたい、という欲求が宗教的な感情の源泉であるということなのです。

とあれば、私たち学会員が想起する、爆発的な精神の昂揚、また我即宇宙、永遠の生命感を悟るなどのいわば"超人的"なスケールの宗教観は、大聖人の仏法に縁したから、当然のように思えるわけで、仏法を知らないどころか、宗教という概念さえなかった原始の時代にあっては、「人間的な状態」を保つことにこそ、宗教の必要性、つまり宗教的儀礼という「制度」を必要としたといえましょう。

要するに、神が宗教の存在を教えたのでなければ(人間が「法」の存在を覚知したのである)、人間的な感情を離れたところで宗教という「制度」がつくられたのでもありません。

本来、宗教は、人間が人間らしくありたいという本然的な欲求の結果であり、言葉を換えれば、まさしく「人間のための宗教」ということになるのです。

 池田名誉会長もこう述べています。

「感覚機能でとらえることのできないもの存在を信じ、それを畏敬あるいは憧憬することによって、感覚的欲望の充足のみを求める心や、不安といったものに対し、抑制し、鎮め、昇華させることができるわけで、私は、そうした人間の置かれている状況は、人間が人間である以上は不変であり、宗教的感情の発生は人間性にとって自然なことでもあり、不可欠なことでもあると考えています」(「社会と宗教」)

人間性の可能性を広げ、自己を見つめることにより内なる悪性を善性の方向に仕向け、動揺を鎮め、安らぎをもたらします。

そして、「死」に対する恐怖を軽減するのです。

もし、宗教が、この役割を"忠実"に果たし、人間の僕(しもべ)としての働きのみをしてきたならば、どうだったのでしょうか。

私は、如説修行抄の有名な一節を思い起こします。

「天下万民・諸乗一仏乗と成って妙法独り繁盛せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壊(つちくれ)を砕かず、代は羲農(ぎのう)の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理(ことわり)顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」

人間的な、あまりに人間的な状態を獲得すること。

そこに宗教の、信仰の目的がある、と大聖人は私たちに示してくださっています。

(つづく)

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拝金主義にとらわれない資本主義の再構築について言及している箇所です。

生きていく上で、逃れることのできない利害関心の中で、理念による軌道修正をもって世界像を築く必要を、マックス・ヴェーバーの言をもって述べており、私たちはその転轍手としての生き方を求められています。

一人ひとりの正しき理念と常に軌道修正を怠らぬ実践があれば、資本主義と民主主義を内実とする近代社会のシステムも、コントロールが可能であることが示されています。

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<提言>第34回SGIの日「人道的競争へ新たな潮流」<上>

 ところで、サルコジ仏大統領のブレーンであるジャック・アタリ氏は、『21世紀の歴史』(林昌宏訳、作品社)で端的に分析しています。いわく、「現状はいたってシンプルである。つまり、市場の力が世界を覆っている。マネーの威力が強まったことは、個人主義が勝利した究極の証であり、これは近代史における激変の核心部分でもある」と。

 すなわち、グローバルな拝金主義とは、半面、あらゆるしがらみから自由になった個人主義の勝利であり、「貨幣」の抽象的普遍性は、労働力商品としての「個人」の抽象的普遍性とコインの表裏を成しているということでしょう。いうまでもなく、この個人主義をベースに、自由や人権等の普遍的理念も形成されてきたのであり、資本主義と近代民主主義は、かなりの部分で重なっている。

 今、資本主義や民主主義を内実とする近代社会のシステムが、抜き差しならぬ袋小路にあるとすれば、何としても、それに代わる普遍的な視座、往時のプロレタリア国際主義の轍を踏むことのない新たな理念の地平を切り拓かねばならない。危機回避のための差し迫った対応は当然のこととして、より巨視的な展望に立った、例えば、マックス・ヴェーバーが、「人間の行為を直接に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、『理念』によってつくりだされた『世界像』は、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、そしその軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきた」(大塚久雄・生松敬三訳『宗教社会学論選』みすず書房)と述べたような時代精神が、今こそ構想されねばならないでしょう。善かれ悪しかれ、地球社会のグローバル化は、そこまで進んでいるからです。

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2月3日、「東洋哲学研究所の日」記念の集いが同研究所で行われたことが4日付の聖教新聞で報道されています。

池田SGI会長が1961年2月4日、釈尊成道の地・インドのブッダガヤで研究所設立を構想して今年が48周年となることから、同研究所は、50周年へ向け、宗教間対話をさまざま行っていく計画があるのだそうです。

素晴らしいことと思います。

これまでも同研究所は積極的な宗教間対話を実現し、そうした積極的な対話の姿勢が、SGI会長に対する世界の賞賛につながってきたことは言うまでもありません。

海外に目を向ければ、スペインSGIは、バルセロナ市において、「バルセロナ宗教間対話センター」主催による「宗教間対話シンポジウム」に仏教団体を代表して参加。他の宗教団体の代表と活発な意見を交わしました(2008年2月11日)。

世界レベルでは、この宗教間対話は、既に"当たり前"のこととなっているようです。



一方の日本においてはどうでしょうか。

なかなか遅々として進んでいないのが実情ではないでしょうか。

なぜなのでしょう。

私にはその理由を見い出すだけの有力な情報を持ち合わせておりません。

ただ、何かの理由があって、そういった方向へ進んでいかないのは確かなようです。



ちなみに私はこれまで、個人レベルで積極的に他宗教の人々と対話の機会をもってきました。

キリスト教の信徒の方々が多いのですが、これまで私が接してきた皆さんは一様に素晴らしい人格の方ばかりでした。

一度、対話が始まると、時間を忘れて話し込んでしまうのが常でした。

それほどに宗教を持った者同士の対話は、意義のあるものだと実感することができたのです。



こちらから、同じ人間としての尊敬の念を持ち、共通点である信仰をベースに誠実に話しかけていけば、お互いを理解し、高めあうことが必ずできるはずです。

その方法はさまざまあると思うのですが、個人レベルの対話であれば、すぐにでも実現可能です。

宗教間対話がもたらすものは、対立ではなく、共和と調和であり、言い知れぬ感動を呼び起こすことをぜひ実感していただきたく思います。

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先日、NHKテレビで放映されていた「にっぽんの現場」という番組を興味深く見ました。

タイトルは「変えろ!わが町  ~鳥取・智頭町 住民たちの町政改革~」。

たまたま途中から見たこともあり、VTRにも残っていないので、記憶頼りですが、感想を述べてみたいと思います。

まず、概要について。これはNHKの番組のHPから引用させていただきましょう。一番分かりやすいと思いますので。

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鳥取県智頭町(ちづちょう)は、人口約8500の山あいの町。過疎化・高齢化という多くの市町村に共通の悩みを抱えている。そこで昨年秋、町長の呼びかけで約140人の町民からなる「百人委員会」が発足、町の活性化に向けて夜ごと公民館で熱い議論を繰り広げた。喫茶店主、林業関係者、主婦らの委員は6つの部会に分かれ、観光客誘致、子育て支援、医療福祉の改善な様々なアイデアを出し合った。中でも注目は、町議会議員や役場職員の人件費カットを提案した行財政改革部会。詳細なデータを武器に人件費カットを迫った。この案に反発する議員、複雑な思いの職員。減額の根拠を巡って激しい応酬が続いた。彼らの任期は今年3月末まで。年明けからはどの案が採用されるかに焦点が移り、より実効性のある答申をめざして議論が続けられている。自分たちの手で町の活路を見出そうという住民たちの議論に密着、地方の現実と将来像を浮かび上がらせる。

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高齢化という構造的な問題に加えての100年に一度の経済危機に伴う大幅な減収。

こうした問題をいかに乗り越えていくかは、どの自治体にとっても、存亡にかかわる大きな問題です。

行政に限らず、住民自身の不安は募るばかりでしょう。

そうした中、試みられたこの鳥取・智頭町の取り組みは、画期的かつ本質的なものではないかと私は感じます。

日本の政治および行政執行の仕組みは、間接民主主義といわれるもので、選挙によって選ばれた住民の代表(議員)によって決められていくことを基本としています。

しかし、この仕組みにも欠点はあります。

選ばれた議員は、行政とかかわることで、行政に取り込まれてしまう、言い方を替えれば、体質に染まってしまうことを免れないということです。

これは仕方ない面もあると思います。

行政側には行政側の言い分があることも確かだからです。

問題は、議員が完全に行政の言いなりになり、十分な住民の意思が繁栄されなくなった時のことです。

さらに、冒頭述べたように、高齢化など、これまでのやり方では存続さえ厳しい危機を迎えた時の問題への対処です。

議員が住民の意思を100%汲み取って活動ができれば文句はないのですが、そうはうまくいきません。

となれば、部分的にも直接民主制的な仕組みを導入していくしか方法がないのではないか、私はそう思います。

私は「百人委員会」を発足させた智頭町長も、このような考えに基づいているのではないかと推察します。

番組では、委員会のメンバーが頻繁に討議の場を設け、真剣にわが町のことについて意見を交換する場面が映し出されていました。

素晴らしい取り組みだと私は思いました。

自分が住む地域を自分たちの力で、自分たちのためによくしていこうと、力を注いでいく――この一見、当たり前と思えるが、実はほとんどの人ができていないことを智頭町の人たちは着実に進めていました。

4年に1回の投票行動だけをもって、「政治参加しました」と果たして言い切っていいのでしょうか。

代表を選ぶということは合理的なやり方ですが、選んで終わりでは、あまりに無責任すぎるとはいえないでしょうか。

私の政治および行政に関する問題意識はその辺にあります。

つまり、住民・市民参加型の政治・行政へと変えていくべきだということです。

しかし、今のところ、具体的に一般の住民が政治や行政に参加していく枠組みはほとんど存在しないのが実情です。

その意味で、鳥取・智頭町の「百人委員会」の取り組みは、先駆的とも言うべきものではないかと思うのです。

再放送は総合テレビで2009年2月 6日(金)午前3:40~(木曜深夜)からされます。関心のある方は、録画をとってチェックしてみてください。

いいヒントになると思います。

<関連>
NHK にっぽんの現場

三重県伊賀市議会が起こした革命的ゆらぎ―全国初の議会条例(その1)

三重県伊賀市議会が起こした革命的ゆらぎ―全国初の議会条例(その2)

<毎日記事>議会基本条例――動き鈍い、都内自治体

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1991年に刊行されたアイトマートフ氏とSGI会長の対談『大いなる魂の詩』は私にとって衝撃をもたらし、今なお深く心の底に静かに響き続ける重要な示唆を与えてくれました。

氏は対談において、民衆のため、民衆を幸せにするはずの社会主義革命が民衆を辛苦の淵に沈めた事実について、徹底的な完膚なきまでの糾弾を加えています。

祖国の壮大なる試みと失敗について語る氏の痛切な叫びは、まるで私自身に語りかけられているような錯覚すら覚えたものです。

氏の思いを敷衍し、SGI会長は共産・社会主義が呈した限界について述べるとともに、パラダイムの転換の必要性を訴えています。

私たちが目指すべきパラダイム・シフトとは、どのようなものなのでしょうか。

一つのヒントは、アイトマートフ氏の言葉の中にある「無血の進化の道を、社会を道理に照らして改革する道を」に示されていると私は思います。

進化の道、道理に照らした改革の道を進むためのパラダイムについて、智慧を総結集していく必要があると思います。

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<提言>第34回SGIの日「人道的競争へ新たな潮流」<上>より

 昨年亡くなった友人で世界的文豪であったチンギス・アイトマートフ氏の言葉を想起します。

 氏は「父親としての助言」として、「若者たちよ、社会革命に多くを期待してはいけません。革命は暴動であり、集団的な病気であり、集団的な暴力であり、国民、民族、社会の全般にわたる大惨事です。(中略)無血の進化の道を、社会を道理に照らして改革する道を探し求めて下さい」(『大いなる魂の詩』、『池田大作全集第15巻所収)と切々と語っていました。

 マルセルが「弱い精神」からの決別を訴えたのは、ファシズムよりも共産主義(=ソビエト型社会主義)への警戒を第一義としていました。

 執筆時期が1951年(ファシズムは壊滅し、共産主義は声望を維持していた)であることから当然ですが、彼が最も警戒したのは、「失うものは鉄鎖のみ」「収奪者が収奪される」といった抽象的なスローガンが、あたかも歴史的必然であるかのように装い、怨念をかきたてて、革命という大義のもとに暴力、流血の惨事を招き寄せてしまうからです。

 70年余にわたる社会主義の興亡の歴史は、彼の洞察の正しさを十二分に立証しております。

 また、貨幣に象徴される拝金主義的な価値観への嫌悪、呪詛にもかかわらず、かつての社会主義が、ついにそれを乗り越えることができなかったことは、歴史の重い教訓といえるのではないでしょうか。

 そろそろ、発想を転換し、文明論的なパラダイム・シフト(思考の枠組みの転換)を図っていかなければならない。

 暴走する資本主義にブレーキをかけるために何より有効なのは、法的・制度的な統御であることは前述しましたが、それらが、その場しのぎの弥縫策に終わるのではなく、長期的なビジョンに繋げていくためには、パラダイム・シフトを避けて通ることはできないと思うのであります。

 80年前の大恐慌の頃は、資本主義に取って代わるものとして、曲がりなりにも社会主義(共産主義であれ、国家社会主義であれ)というパラダイムがあった。

 しかし、今は、それに代わるような理念、ビジョンは、提起されておりません。

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きのう、わが地区で3年ぶりとなる壮年懇談会が開かれました。

参加者は7名。

ちなみにわが地区では、普段の会合での壮年7名の参加はありえないことです。

T地区部長、N地区幹事、M地区幹事、Mさん、Sさん、A議員と私という構成でした。

3年ぶりの復活開催とあって、皆さん、開始前からとてもうれしそうでした。

特に会場を提供してくださったM地区幹事は、「久々だね~、ほんとうに久々だね~」と3年ぶりの感触を懐かしむこと仕切り。開始前の参加者の心を和ませてくれました。

地区部長を皮切りに、それぞれの近況報告を。

久しぶりということもあり、感動的な体験が次々と語られました。

前半は、リストラに遭うも再就職を勝ち取ったとの体験が2題、後半は病気(がん)克服体験が2題続きました。

さらに祈りの姿勢についてなど、信心あふれる語らいが相次ぎ、最後に議員による活動報告で締めくくられました。

以下、私の感想です。

やはり、対話はいいです。対話は魔法です。

改めて、対話の持つ無限とも言うべき可能性について、思い知る形となりました。

Sさんは、普段の座談会にはほとんど顔を出さない方ですが、この壮年懇談にだけは、毎回参加してくださるのです。

なぜでしょう。

話したいからです。語り合いたいからです。

直接、Sさんにそのことを問うたことはありません。

しかし、Sさんが語る時のあの表情を見れば、だれの目にも明らかです。

私は皆さんの体験にももちろん大感動しましたが、それと同等に、語り合うこと、つまり対話の力のすごさ、素晴らしさにただひたすら感動し続けていました。

次回は3月1日(日)です。

乗ってきました。

<参考>
創立80周年へ『青年・勝利の年』をいかに勝ち取るかについて(3)壮年懇談会

壮年懇談会の復活を期す2009年「青年・勝利の年」

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第34回SGIの日提言「人道的競争へ新たな潮流」について、強く印象に残る箇所を抜粋しながら、私の考えを述べてまいります。



哲学者マルセルの示す「抽象化の精神」は、私たちが使う何気ない言葉にも表れているのではないかと感じます。

たとえば「活動家」「未活動家」という分類です。

確かに組織運営の上においては、ある意味、便利な分類であるかもしれません。

しかし、そこにおいては「活動家」=善、「未活動家」=悪というレッテルが意図も簡単に貼られてしまうわけで、その行為はまさに一人ひとりの信仰者としての具体像をそぎ落とす抽象化・単純化の作業と言えるような気がします。

師の引用するマルセルの言葉「抽象化の精神に対する休みなき執拗な闘い」こそ哲学者のみならず、私たち信仰者に求められる心の持ちようではないかと感じます。

したがって、そうした安易な分類やレッテル貼りなどの抽象化を安易に許さない私たち自身がお互いに注意喚起を促す対話こそ求められるのではないでしょうか。

----------------------------------------

<提言>第34回SGIの日「人道的競争へ新たな潮流」<上>より

 ところで、哲学者のガブリエル・マルセルが、第2次世界大戦を顧みながら、「抽象化の精神――戦争の要因たるもの」という興味深い論点を提起していたのを記憶しています(以下、小島威彦訳『マルセル著作集6』春秋社)。

 いうまでもなく抽象作業そのものは、人間の知的な営みに欠かせないものです。早い話、「人間」などというものは存在しない。実質は、日本人やアメリカ人であり、男や女であり、青年や壮年であり、何々県人でありと細分化していくと、つまるところ、十人十色一人として同じ人間はいません。それが具体性の世界の実像です。それをきちんと踏まえた上で「人間」を論じないと抽象概念が独り歩きしてしまう。

 マルセルいうところの「抽象化の精神」とは、その具体性から乖離した悪しき独り歩きの謂いであります。人間は、例えば戦争に参加するとなると、個々人の具体的な人格的特性をすべて捨象し、敵を抽象的な概念――ファシスト、コミュニスト、シオニスト、イスラム過激派、等々――で括ろうとする。マルセルが分析するように、「これらの存在者を絶滅する用意をせねばならなくなるその瞬間から、まったく必然的に私は、亡ぼさねばならないかもしれないその存在者の個人的実在についての意識を失ってしまう。かかる人格的存在を蜉蝣(かげろう)のごとき姿に変えるためには、是非ともその存在を抽象概念に変換してしまうことが必要」だからです。そうでなければ、戦争参加を意義づけ、正当化することはできないからです。

 一番の問題は、そうした「抽象化の精神」は、ニュートラル(中立的)で没価値的な境位に止まっていず、「価値貶下(へんか)的な帰納」(意訳すれば、価値を貶(おとし)めるための決めつけ)を引き起こす「情念的側面」、怨念(ルサンチマン)を随伴している点にあります。

 すなわち、抽象的概念で括ったとたん、それらは無価値なもの、低級なもの、有害なものとして、駆除されるべき対象の位置まで貶められてしまう。人格的存在としての「人間」は不在となる。「抽象化の精神は情念的な本質をもっているものであり、逆にいえば、情念が抽象物を捏造する」と述べるマルセルは、故に自分の哲学上の全仕事は「抽象化の精神に対する休みなき執拗な闘い」と位置づけている。この指摘は、今なお、光を失っていないと思います。

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「寛容」の精神に不可欠な「屹立した人格」と「開かれた対話」について述べられている箇所です。

一口に「屹立した人格」と「開かれた対話」と言っても、これら要素を獲得し、実現することの難しさはいかばかりでしょう。

難しい、極めて難しい、人間が一生をかけて追求していくべき要素ではないでしょうか。
それほどに「寛容」の精神を体得し、現実の世界に展開していくことは至難の業と言えると思います。

「屹立した人格」は「開かれた対話」を可能とし、「開かれた対話」は「屹立した人格」を陶冶するという相互関係にあるならば、まず、とりかかるべきは対話でしょう。

最初から「開かれた」とはいかなくても、お互いを理解していこうとする努力により、必ずそれは「開かれた」ものになり、「屹立した人格」をはぐくんでいくに違いないと思うのです。

対話から始めていきたいと思います。

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1995.01.26: 第20回「SGIの日」記念提言 不戦の世紀へ人間共和の潮流

 一般に、日本において寛容と呼び慣らされているものは、その実、"足して二で割る"式の妥協であったり、"同床異夢"の野合や慣れ合いであったりする場合がほとんどといっても過言ではない。

 そうではなく、「屹立した人格」と「開かれた対話」とが車の両輪の如く回転して、信念と信念との撃ち合いがなされていくところ、対立ではなく調和が、偏見ではなく共感が、争乱ではなく平和がもたらされることは間違いない。けだし、真の対話がなされるのならば、対立が生じたとしても「結びつき」の一つの表れに過ぎないからです。

 これまで、一般に「寛容」というのは、消極的な意味合いでしかとらえられていないきらいがあった。また、長い歴史の中で宗教対立がもたらした悲劇の印象が強いあまりに、ともすれば「寛容」という言葉に名を借りて、無原則に近い妥協を許してしまう風潮があることも否めません。

 この点を見据えることなく、日本的な寛容に焦点が当たるのは、的外れであるばかりか、大きな危険をはらんでいると私は考えます。「和をもって貴しとなす」といった精神風土がその経済的な成功と表裏の問題として、日本人の傲慢さを助長する恐れさえあるのです。

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きょう2月1日が牙城会の結成記念日であることを聖教新聞の社説を読んで思い出しました。

私が牙城会に所属していたのは、1990年から2001年までの11年間です。

短い間でしたが、任務の経験を通して学んだこと、語ったこと、すべては自分の成長の糧となったことに感謝の思いでいっぱいです。

11年間のうち、5年間が本部担当、6年間が地元会館担当でした。

日記を読み返せば、任務に臨んでの緊張感、任務中のパートナーとの対話、泊まりの任務を終えて、眠気と必死に闘いながら仕事したこと......などの思い出が生き生きと蘇ってきました。

振り返るに、素晴らしい人格の鍛錬の道場であったと思います。

牙城会任務をしていたころの日記


私が牙城会になる直前、池田先生は牙城会の5期生大会に出席され、重要なスピーチをされました。

改めて読み返したところ、これは牙城会に与えられた指導ではあるが、決して牙城会のみに必要な内容ではなく、全学会員が永遠に心していくべき師の指針であることを痛感しました。

全文テキストを下に転載させていただきました。

<スピーチ>牙城会大学校5期生大会 「偉大な人格」が新世界をつくる

スピーチを一貫するテーマは「民主」であり、「改革」です。

そして、この二つを成し遂げていくために必要な「人格」の練磨を挙げられています。

なぜ、「民主」であり、「改革」なのでしょうか。

このスピーチが行われたのは1990年8月2日、場所は大石寺・常来坊においてです。

この数カ月後の12月28日、池田先生は日蓮正宗の総講頭職を失したという通達が宗門よりなされるのです。

池田先生はこのスピーチを大石寺で行った意味についてこれ以上多くを語る必要はないでしょう。

師が示す「民主」と「改革」の意味について、それぞれ各人が考えていくべきことだと思うからです。

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