■組織は絶対的存在か
釈尊の「四門出遊」の譬えを引くまでもなく、釈尊の悟りへの第一歩は、人生に対する「疑問」であり「問い」でありました。
大聖人の「立正安国論」。
民衆を恐怖に陥れる地震などの自然の脅威がなぜ猛威をふるうのかという「問い」から大聖人は同抄執筆のきっかけとなったことが、御勘由来で述べられています。
そして、同抄の構成が10問9答という問答形式をとっています。
"ソフト・パワー"の概念の提唱者となったハーバード大学のジョセフ・ナイ教授は、池田SGI会長との会談(1991年5月10日)の折に、池田SGI会長の質問――子どもの可能性をどこまで引き出せるか、についての次のように答えています。
日本にもこのような「答え」のできる教育者がもっともっと多くいれば、日本の教育界も大きく変わっていたのではないでしょうか。
少々、前書きが長くなりましたが、この対談「社会と宗教」が、他の対談と性質を異にし、かつまた非常に注目すべき観点が多分に含まれていることは、以上述べてきたことをみただけでも明確です。
*
池田SGI会長は、対談「社会と宗教」において、以下のように述べています。
信仰を個人が自ら維持していくうえでも、またそれを他に広めていく場合にあっても、個人は、あまりにも弱い存在であり、組織がそれを支えてくれるということです。それは社会的な制圧を受けたときにもそうでしょうし、またそうした制圧がなくても、大部分の人間にとって当初の決意を保つことは、なかなか困難なことであるからです。
この言葉が示すように、もし、組織がなかったら、信仰を続けることは絶対にできなかったとの確信を抱くの人は少なからずいると思われます。
どんなに個人の信心のレベルが下がっていようとも、激しい波を描こうとも、組織は常に最高潮の水準を保つことができるのです。
それが組織が組織たるゆえんとも言っていいに違いありません。
その意味においては、組織は"絶対的"存在であるわけです。
しかし、ここには履き違えてはならない問題が潜んでいると思われます。
組織における"絶対"とは何を指すのでしょうか。
実際に会員の一人ひとりが、組織に対して"絶対"を感じる時とはいかなる時なのでしょうか。
私の実感からすると、それは信仰の充実感を味わうことができた時、また、師、同志とのかけがえのない絆を感じることができた時などではないでしょうか。
私はそう受け止めています。
その感じ方が間違っていないならば、会員は組織そのものに"絶対"を感じているのではないことを認識しなければならないでしょう。
つまり、会員が組織に感じる絶対性は、信仰に対する絶対性であり、人の信頼に対する絶対性なのです。
それを勘違いすると、とんだ悲劇を生むもとになりかねません。
釈尊の「四門出遊」の譬えを引くまでもなく、釈尊の悟りへの第一歩は、人生に対する「疑問」であり「問い」でありました。
大聖人の「立正安国論」。
民衆を恐怖に陥れる地震などの自然の脅威がなぜ猛威をふるうのかという「問い」から大聖人は同抄執筆のきっかけとなったことが、御勘由来で述べられています。
そして、同抄の構成が10問9答という問答形式をとっています。
"ソフト・パワー"の概念の提唱者となったハーバード大学のジョセフ・ナイ教授は、池田SGI会長との会談(1991年5月10日)の折に、池田SGI会長の質問――子どもの可能性をどこまで引き出せるか、についての次のように答えています。
わたしの教育哲学は、学生に「"自分自身で疑問を持つ"ことを学ばせる」ことです。私は自分の意見を押しつけません。生徒が賛同しようが反対しようが、そのことは重要ではない。大切なのは、教える内容よりも、その内容に対して、生徒自身が自ら探求し、考え、自問自答し、自分の意見を持つことです。そして、教師は安易に「答え」を与えるよりも、生徒が正しい観点から深みのある「質問」をできるよう、導くことが重要だと思います。
日本にもこのような「答え」のできる教育者がもっともっと多くいれば、日本の教育界も大きく変わっていたのではないでしょうか。
少々、前書きが長くなりましたが、この対談「社会と宗教」が、他の対談と性質を異にし、かつまた非常に注目すべき観点が多分に含まれていることは、以上述べてきたことをみただけでも明確です。
*
池田SGI会長は、対談「社会と宗教」において、以下のように述べています。
信仰を個人が自ら維持していくうえでも、またそれを他に広めていく場合にあっても、個人は、あまりにも弱い存在であり、組織がそれを支えてくれるということです。それは社会的な制圧を受けたときにもそうでしょうし、またそうした制圧がなくても、大部分の人間にとって当初の決意を保つことは、なかなか困難なことであるからです。
この言葉が示すように、もし、組織がなかったら、信仰を続けることは絶対にできなかったとの確信を抱くの人は少なからずいると思われます。
どんなに個人の信心のレベルが下がっていようとも、激しい波を描こうとも、組織は常に最高潮の水準を保つことができるのです。
それが組織が組織たるゆえんとも言っていいに違いありません。
その意味においては、組織は"絶対的"存在であるわけです。
しかし、ここには履き違えてはならない問題が潜んでいると思われます。
組織における"絶対"とは何を指すのでしょうか。
実際に会員の一人ひとりが、組織に対して"絶対"を感じる時とはいかなる時なのでしょうか。
私の実感からすると、それは信仰の充実感を味わうことができた時、また、師、同志とのかけがえのない絆を感じることができた時などではないでしょうか。
私はそう受け止めています。
その感じ方が間違っていないならば、会員は組織そのものに"絶対"を感じているのではないことを認識しなければならないでしょう。
つまり、会員が組織に感じる絶対性は、信仰に対する絶対性であり、人の信頼に対する絶対性なのです。
それを勘違いすると、とんだ悲劇を生むもとになりかねません。
