2009年3月アーカイブ

■組織は絶対的存在か

釈尊の「四門出遊」の譬えを引くまでもなく、釈尊の悟りへの第一歩は、人生に対する「疑問」であり「問い」でありました。

大聖人の「立正安国論」。

民衆を恐怖に陥れる地震などの自然の脅威がなぜ猛威をふるうのかという「問い」から大聖人は同抄執筆のきっかけとなったことが、御勘由来で述べられています。

そして、同抄の構成が10問9答という問答形式をとっています。

"ソフト・パワー"の概念の提唱者となったハーバード大学のジョセフ・ナイ教授は、池田SGI会長との会談(1991年5月10日)の折に、池田SGI会長の質問――子どもの可能性をどこまで引き出せるか、についての次のように答えています。

わたしの教育哲学は、学生に「"自分自身で疑問を持つ"ことを学ばせる」ことです。私は自分の意見を押しつけません。生徒が賛同しようが反対しようが、そのことは重要ではない。大切なのは、教える内容よりも、その内容に対して、生徒自身が自ら探求し、考え、自問自答し、自分の意見を持つことです。そして、教師は安易に「答え」を与えるよりも、生徒が正しい観点から深みのある「質問」をできるよう、導くことが重要だと思います。

日本にもこのような「答え」のできる教育者がもっともっと多くいれば、日本の教育界も大きく変わっていたのではないでしょうか。

少々、前書きが長くなりましたが、この対談「社会と宗教」が、他の対談と性質を異にし、かつまた非常に注目すべき観点が多分に含まれていることは、以上述べてきたことをみただけでも明確です。



池田SGI会長は、対談「社会と宗教」において、以下のように述べています。

信仰を個人が自ら維持していくうえでも、またそれを他に広めていく場合にあっても、個人は、あまりにも弱い存在であり、組織がそれを支えてくれるということです。それは社会的な制圧を受けたときにもそうでしょうし、またそうした制圧がなくても、大部分の人間にとって当初の決意を保つことは、なかなか困難なことであるからです。

この言葉が示すように、もし、組織がなかったら、信仰を続けることは絶対にできなかったとの確信を抱くの人は少なからずいると思われます。

どんなに個人の信心のレベルが下がっていようとも、激しい波を描こうとも、組織は常に最高潮の水準を保つことができるのです。

それが組織が組織たるゆえんとも言っていいに違いありません。

その意味においては、組織は"絶対的"存在であるわけです。

しかし、ここには履き違えてはならない問題が潜んでいると思われます。

組織における"絶対"とは何を指すのでしょうか。

実際に会員の一人ひとりが、組織に対して"絶対"を感じる時とはいかなる時なのでしょうか。

私の実感からすると、それは信仰の充実感を味わうことができた時、また、師、同志とのかけがえのない絆を感じることができた時などではないでしょうか。

私はそう受け止めています。

その感じ方が間違っていないならば、会員は組織そのものに"絶対"を感じているのではないことを認識しなければならないでしょう。

つまり、会員が組織に感じる絶対性は、信仰に対する絶対性であり、人の信頼に対する絶対性なのです。

それを勘違いすると、とんだ悲劇を生むもとになりかねません。

東北創価学会がフォーラム開催
6県紙トップが現在と未来を語る


聖教新聞7面に上記の記事が掲載されました。

素晴らしい試みであると思います。

これからの創価学会は、いかに真の価値創造に向けて努力していくかに、かかっており、その成否が、この団体を普遍的存在へと成長させていけるかを分けるのではないでしょうか。

徹して社会に開き、共感を得る活動を展開していくことがその唯一の方策であると私は思います。

そういえば、東北では以下のような取り組みも聖教で紹介されていました。

東北青年部が第9回平和文化フォーラム

東北の今後の取り組みに注目していきたいと思います。

なお、同フォーラムの出席者は以下の通りです。

青森・東奥日報社 塩越隆雄社長

秋田・秋田魁新報社 小笠原直樹社長

岩手・岩手日報社 三浦宏社長

宮城・河北新報社 一力雅彦社長

山形・山形新聞社 黒澤洋介社長

福島・福島民報社 渡部世一社長



最後に聖教新聞への要望です。

このような記事こそ、7面などではなく、1面に掲載してほしいと思います。

社会からの共感を呼ぶことは間違いないでしょう。
■問いは内面開発の母

なぜなら、名誉会長は、教授に対して全くの質問者に徹していて、宗教が抱える宿命的な傾向性や弱点、限界など、教団のリーダーとしてこのような質問をして大丈夫なのだろうかと、思わざるを得ないほど、大胆な質問を教授にぶつけているのです。

もし、この対談を読む人が、名誉会長のことを知らない人であったなら、よもや一宗教団体のトップであるとは思いもよらないでしょう。

それほどの客観的な視点が最後まで貫かれています。

特に第3部「組織論」においては、名誉会長は、飄々とした口ぶりで(実際は、書簡の往復であるそうですが)ありながらも、これでもか、これでもかと思えるくらいに、宗教が抱える悩み、アキレス腱ともいうべき課題、難題を惜しげもなく提示されています。

しかも、その質問に対し、教授もまた、何のてらいも、相手の立場をはばかるなく本質をついた分析力でその問題点をえぐり出し、俎上に乗せていきます。

そのやりとりたるや、読むうちに唖然とさせられてしまいます。

SGI会長は「はしがき」で次のようにも述べられています。

「この書を出版する目的は、会員に読んでもらうためであり、また広く一般にも問いかけをすることにあった」と。

この言葉に明確なように、SGI会長は、この書をして、私たち後を継ぐものたちに乗り越えるべき諸課題を明らかにし、私たちの力でその克服と解決を託されたのではないかと私は思ったのでした。

しかし、SGI会長は課題、難題を私たちに投げかけるだけ投げかけて、後は勝手に君たちで考えなさい、ということはされてはいません。

この対談の出版にまるで呼応するかのように、スピーチという形をとっての長編の指導が始まりました。

SGI会長はそのスピーチを通して、例えば「社会と宗教」の中で示された課題の、ヒントや解答の示唆、また、答えそのものをズバリ示されているのではないでしょうか。

以来、私はSGI会長の指導について、問いに対するどんな角度から、どんな解答を示して下さるだろうかとの期待感が大きくなっていきました。

そして、期待どおりその解答が得られたときの喜びは、私の精神を鼓舞し、歓喜をもたらしました。

そして、またスピーチを受けて「社会と宗教」に返り、自分の考えを巡らす――その作業の繰り返しの中で、自分の目指すべき方向性、運動論、組織論、実践論などが少しずつ、少しずつ頭の中に蓄積されていくようになっていったのでした。

SGI会長が、衛星放送を通じて、また聖教新聞を通じて私たちに示して下さっているのは私が思うに「解答」であると思うのです。

このことに異論がある人はいないはずでしょう。

しかし、SGI会長の指導に対して、一体何をもって臨むのかに注意を払っている人はあまり多くはないかもしれません。

とにかく、SGI会長に触れていこう。ここにとどまっている人は少なくないかもしれません。

私はもちろん、そのこと自体を悪いと言いたいのではありません。

ただ、私が言いたいのは、特に青年部に限っていえば、とにかく指導を聞けばよい、分からなくてもよい、といった姿勢にとどまってよいものなのだろうかということなのです。

大事なことはまず自分に対して常に何を「問う」ているかということではないでしょうか。
この「問う」という作業なしに、どうして人間としての進歩、向上、成長がありえるでしょうか。

「問う」という作業は一切の内面開発の母とはいえないでしょうか。

惰性や現状維持には「問い」を必要としません。

かえって邪魔となることが多いものです。

■「社会と宗教」が示す重大な問題提起

私が1991年のハーバード講演に特別な感銘を受けた理由は、講演自体の素晴らしさに加えて、個人的な理由があります。

それは、対談「社会と宗教」の中で、SGI会長がウィルソン教授に対する質問という形で展開された宗教組織の在り方についての深刻かつ重大な問題提起について、私は深く悩んでいたからでした。

それら問いに対する答えをハーバード講演で見い出すことができ、私は歓喜に打ち震えたのです。

やや本筋から逸れてしまいますが、その経緯について、以下、少々述べてみたいと思います。



私が対談「社会と宗教」に出会ったのは、1985年の夏。

学生部の夏季講習会での研修材料として「社会と宗教」が挙がり、当時、私は部長だったこともあり、必要に迫られて購入した書籍でした。

私は、どちらかというと、研修会や講義などは、一方的な受け身に終わりやすいことから、好きになれずにいました。

それゆえ、「とにかく『社会と宗教』を買ってこい」と言われた時も、実のところ、あまり気乗りがしなかったのでです。

ところが、初めに目にした「はしがき」を読み進めていくうちに私の心は、変化していきました。

そこには私が予想していたことをはるかに超えた重大な内容が示されていたからでした。
池田SGI会長は、その中で、この対談はそれぞれ、一宗教社会学者と一宗教組織の長の立場から一歩離れたところから、宗教と社会の在り方について、どこまで語り尽くせるか可能性を探ったものであるということを、対談相手のブライアン・ウィルソン教授と連名の形をとって述べられているのです。

さらに、この対談の目的として、現在の宗教が直面している課題を明示することにとどまり、決してそれら諸問題、諸課題について、結論めいたことを導きだすつもりは毛頭なかったことが明らかにされています。

また、解決方法を明示することによって、大いに世の中のために役立ったという自己満足に陥る誘惑には負けなかったつもりであるということまで述べられているのです。

私は世界の知性の最高峰といってもいいこの二人の対談でありながら、あくまでも、自分たちの客観的な立場を揺るがせにしない真摯な姿勢に驚くとともに、二人に共通する徹した謙虚さに、この対談を読み進めたいという欲求が翻然とわきおこったのでした。

そんな経過を経て、上巻を一気に読み切りました。

内容的には、耳慣れない用語――特にキリスト教関係――が、多用されていたりするため、スムーズに読めたとはいえません。

しかし、私は、読み進めながら、驚きました。

これまでの様々なSGI会長と識者との対談とは明らかに一線を画す、性質を異にする希有な対談だと思わざるを得なかったからです。

■"組織の暴走"を食い止めるには

教義については絶対性を保たれるため、教義そのものが大きく変貌を遂げてしまう宗教は少ないと思われるのですが、一方、組織は人が運営していくものであるため、その時々の人の考え方や理念の影響を受けることが大きく、よって急激な変化を余儀なくされるものです。

もちろん、時代に即して、信者がより信仰を続けやすいように、より高い信仰心を獲得できるように、という意図に基づく組織の変化は必要なことです。

しかし、本来、人間を守るための宗教組織が、知らず知らずのうちに人間を苦しめる装置に変換してしまったという例は、歴史上、枚挙にいとまがありません。

こうした宿命的とも言える"組織の暴走"を食い止め、信者に限らず、全人類の幸福のための役割を担う装置としていけるか否かは、組織を司る人々にとって、最重要課題であろうと思うのです。

創価学会、SGIにおいても、もちろんその例外ではありません。

いや、むしろ今や192カ国までに広がる一大宗教組織にとって、根幹、機軸を確かならしめるのはもちろんのこと、将来にわたる発展を目指した時に、システム、装置としての創価学会のあり方について深い思慮を巡らすとともに、確固たるビジョンを示していく必要があると思われるのです。

そこで私は、システムとしての創価学会の恒久化について、主に池田SGI会長がこれまでに行ってきた講演、提言、識者との対談を中心に、考えていきたいと思います。

はじめに、私が宗教における組織の在り方について、考えるきっかけとなった経緯から触れてみたいと思います。

組織論が宗教にとっての生命線ともなりうる重要課題であると認識するようになったのは、1990年に起こった宗門問題を契機とします。

それまで、創価学会にとって、根幹であり、機軸的存在であった宗門との決別は、私に少なからずの混乱をもたらしました。

大御本尊を中心とした宗教の機軸としての宗門と、それを守る信徒団体としての創価学会との相互関係は、宗教の在り方を示す理想形として信じてやまなかったからです。

ところが、です。

常に清浄であり、穢れる恐れすらないと信じられたきた宗門といえど、組織であり、システムに負っているという側面が、この問題によって明確になったわけです。

組織は、システムは、時代を映す鏡といっていいでしょう。

したがって、宗門という組織も、700年という時を経るに従って、さまざまな形での必然的な変化を強いられてきたわけです。

しかし、宗門には時代の変化に適正な形で対応し、自らをコントロールしていく能力に欠けていたと推察されるのです。

また、そうした能力を身につけようという努力がなかった(あったとしても効果を挙げることができなかった)。

これが宗門と創価学会が決別せざるをえなくなった最大の要因と思われるのです。

宗門問題が起こった翌年となる1991年の9月、池田SGI会長は、米・ハーバード大学の演壇に立っていました。

そして、あの歴史的な講演『ソフトパワーの時代と哲学』が行われたのです。

私はこの講演を聴いて(実際は活字を追ったのですが)、宗門問題の教訓から、創価学会を永遠普遍の存在とするための明快な組織論を、世界最高峰の英知の壇上から示されたのであろうと感じたのです。

タイトルに示されているように、この講演のテーマは二つ。

「ソフトパワー」と「哲学」です。

二つのテーマの要旨は以下のようになります。

(1)ハード・パワーが"外発的""外圧的"に人間を動かすのに対し、ソフト・パワーは人間同士の合意と納得による"内発的"な促し、エネルギーを軸とする。

(2)信仰における外面的規範や戒律は良心が本来持つ内発的な働きは逼塞させられ、堕落しマヒしてしまう。

(3)ほとんどの宗教が陥ってきたのは、制度的な側面が硬直化することによって制度が人間を拘束し、宗教本来の純粋な信仰心が失われてくるという本末転倒。

(4)ジレンマを伴う苦悩と忍耐と熟慮の中にこそ良心の内発的な働きは、善きものへと鍛え上げられ、人間を分断し、破壊する悪を、最小限度に食い止めることができる。

(5)内発的精神に支えられた自己規律、自己制御の心(哲学)が現代に必要。

私はこの講演を読み、宗教組織のリーダーである池田SGI会長が、宗教組織が最も陥りやすい弱点を指摘したうえで、その課題を克服する方法に言及していることに深い感銘を覚えました。

つまりは、創価学会も例外なく、この弱点を抱えており、講演で示した克服への努力を模索し、努力していかなければならないことを示されたのだと認識したのです。

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■組織の"絶対的"有用性

さて、この稿についてはこれまで個人レベルの信仰者の在り方について、主に語ってきました。

しかし、個人とは極めて弱い存在で、「負けじ魂」を胸に秘めながらも、信仰者として「負けない」生き方を貫くことは至難の技と言っていいでしょう。

自分の中に潜む悪の心、弱い心が、常に命のスキを狙っているからです。

私自身の信仰歴を振り返るに、もしたった一人でこの信仰を保つ状況にあったと仮定するならば、信仰を保ち続けることは正直できなかったと思います。

なぜなら、多くの同志の支えがあったからこそ、私はここまでこの信仰を続けることができたと、言い切れるからです。

信仰を保ち続ける上で不可欠な存在である宗教組織について、考えてみたいと思います。

創価学会は組織を抜きには存在しないことは言うまでもありません。

また、その必要性を否定できる人は少数にとどまると思われます。

なぜなら、創価学会という組織がもし存在しなければ、ほとんどの学会員が、仏法に巡り会うことがさえできなかったのですから。

その事実を思うにつけ、組織を否定することはそのまま、自身のよりどころである信仰を教えてくれた"恩"を忘れることに通じると思います。

ゆえに通常の学会員の心情とすれば、組織の有用性は半ば"絶対的"なものだろうと推察されるのです。

宗教にとっての組織は、何のために存在するのかについて考えてみたいと思います。



人間にとって宗教とは本来、なくてはならない、不可欠な存在でしょう。

心の拠り所であり、支えであり、癒しであり、安らぎです。

さまざまな表現があるのですが、それだけの多元的な役割を有史以前から担ってきたわけです。

宗教の歩みは、人間の、人類の歩みそのものと言っていいでしょう。

このように、宗教は人間にプラスの効能をもたらしてきた一方で、宗教は人間に対して、おぞましいほどの仕打ちや蹂躙、弾圧をも繰り返してきました。

本来、人間を幸福にするために人間が編み出した宗教が、一人歩きし、やがて暴走するようなはめになったのです。

ほとんどの宗教は二つの機軸から構成されています。

一つは、教義です。

そしてもう一つは組織です。

宗教は、この二つの機軸を車の両輪にしながら、興亡を繰り返し、文明や人間の社会に大きな影響を与えてきたわけです。

言うまでもなく、一つの宗教にとって教義は最も重要なものであり、ある意味、絶対性を持つものです。

一方の組織、つまり信者や信徒の団体としての組織は、信者たちが、信仰を持続していくための役割を担っているわけです。

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■非暴力という「魂の利剣」

同対談の続きを引用します。

池田 全世界の指導者が、生命に刻むべき言葉です。
暴力は新たな暴力を生む。憎悪を拡大させるだけです。
あくなき「暴力の連鎖」を断ち切るには、非暴力という「魂の利剣」を用いるしかありません。
もちろん、口で言うほど簡単なことではないでしょう。
マハトマ・ガンジーが、キング博士の母校モアハウス大学のベンジャミン・メイズ学長に語ったように、「非暴力を用いるには、暴力を用いるよりもはるかに大きな勇気がいる」からです。

対談でコックス氏はキング博士が、イエスとともに、ガンジーから大きな影響を受けていたことを述べるとともに、博士が絶叫する暴徒の中で踏み込んでいくが、全く逆上することもなく穏やかに博士に続くものをリードしていった様について語り、以下のように続けます。

コックス そんなときキング博士は、後になってよくたずねたものです。
「ぼくが怯えているように見えたかい?」
私たちはいつも答えていました。
「いいえ、少しも。キング博士」
人は皆、自分自身の恐怖心と対決しなければなりません。そして自分自身の憎悪の心に、立ち向かわなければなりません。
「たとえ人々が、あなたを侮辱し、物を投げつけ、ときには傷つけようとしても、彼らに対しては、憎しみを行動に表しても、心に抱いてもなりません。彼らには、憎しみでなく、愛をもって対応すべきです。あなたの敵を愛さねばなりません」
――これが、キング博士が信じたイエスの教えでした。この教えを実践するのは、じつに難しいことを、博士はよくわかっていました。しかし、実践できなければ、この運動に参加すべきではない、と博士は主張したのです。

私たちはイエスの教えを信じるものではないとしても、その理念については奉じていくべき重要な指針であると言えないでしょうか。

なぜならば、ガンジーが提唱した非暴力の精神はキング博士へと受け継がれ、そして池田SGI会長により、私たち創価学会員にとっての重要な理念となっていることは言うまでもないからです。

ゆえに、私たちは非暴力の精神をもって他者に相対し、仮に他者が暴力や暴力的な言論によって攻撃してこようとも、彼らに対して憎しみを行動に表しても、心に抱いてもならず、ただひたすら彼らを信頼し、その善性の薫発の可能性をあきらめるべきではないということが、私たちのとるべき実践なのです。

私たちが果たしてガンジー、キング、池田という非暴力の闘士たちの精神を受け継ぐものとして、その実践が行えているかどうかについて、深く考え、検証していく必要があります。

改めて、池田SGI会長の勝利観を紹介します。

インドの世界的に有名な首相ネルーは、高らかに叫んだ。
「宗教を理由に人を抑圧するものとは、それが、たとえ誰であろうとも、私は命の続く限り戦い続ける」
そしてまた彼は、「真の勝利とは、道義と信仰に則り、己が心に打ち克つことである」と宣言した。 (随筆 新・人間革命 第349回「正義の庶民の理想郷」2003年10月18日より)

大教育者ペスタロッチは叫んだ。
 「人間がなし得る最大の勝利とは、自己に対する勝利である」(随筆 新・人間革命 第359回「君よ使命の大空へ」2003年10月20日より)

このようにSGI会長は、私たちに「勝利」の意味と意義について、「己が心に打ち克つ、自己に対する勝利」であることを一貫して語ってこられました。

私たちが得るべき勝利とは他者に対するものでも、敵を打ち負かすことでもなく、ただ唯一、私たちの内面との闘争であり、不断なる革新にほかならないのです。

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■"他者の悪魔化"は戦争の第一歩

不寛容の象徴である全体主義を招かないために必要なことは他律的な外からの変革ではなく、一人ひとりの内なる変革であるというSGI会長の主張は極めて重要です。

先にも述べたように、私たちが求められている「勝利」とは、他人や敵といった外部に存在するものではなく、自己の内面を司っている魂にほかならないからです。

徹して、自己の魂と闘争することでしか、絶対的な勝利は得られないことを、師は示しておられるのだと私は理解します。

逆に、「勝利」が内面ではなく、外部、つまり他者や敵に対するものであったと仮定してみましょう。

するとどうなるでしょうか。

他者や敵は打ち負かされるべきもの、殲滅されるべきものとなり、内面は、敵意や憎悪で満たされることになります。

他者や敵に対する攻撃は、相手を改心させるどころか報復を招き、果てしない対立の連鎖から抜け出せなくなるという袋小路に陥ります。

対談「人間主義の旗を」から引用します。

池田 悪魔の烙印を押すこと、すなわち"他者の悪魔化"こそ、戦争への第一歩です。相手を自分と同じように苦しみ、悲しみ、痛む人間でなく、忌まわしい悪魔と決め付けてしまえば、相手を攻撃し、殺害するのに、何の躊躇もなくなってしまうからです。
多彩な一人ひとりの表情を消して、あるカテゴリーに抽象化してしまう。こうした思考の枠組みが固定化されれば、対立の構図を描き広めるのは、いとも簡単なことです。

私たちは、だれかに"悪魔の烙印"を押してないか、常に顧み、確認する必要があるでしょう。

また、自分では気づく自信がなければ、他者に、第三者である他者に、その意見を求めてみるべきでしょう。

そうした注意を常に特別に払っていかなければならないほどに、私たちの命は、常に"他者の悪魔化"したがる傾向をもっているのです。

非寛容の心に厳しい態度で向き合い、自立的な内面の変革を図るべく努力をしない限り、SGI会長の指摘する全体主義を招いてしまうことは間違いありません。

重要なことは悪魔と思しき他者にも必ず善性が備わっている、豊かな人間性(仏性)が存在することに絶対的な信を置くことではないのでしょうか。

ハーバード大学教授のハービー・コックス氏とSGI会長との対談「二十一世紀の平和と宗教を語る」から引用します。

コックス 私がキング博士を尊敬する理由は、二つあります。
一つは、彼が厳然たる非暴力主義の擁護者であったことです。彼はよく言っていました。
「たとえアメリカ中のすべての人が、すべての黒人が、すべての白人が、暴力を支持しても、僕はあくまで非暴力を主張し続けるよ。なぜなら、ただ非暴力だけが、他の人間に屈辱を与えることなく、人類の諸問題を解決できる唯一の道なのだから。他の人もみな同じ神の子なのだから、その人を傷つけてはいけない。
私たちは、敵を打ち負かすのではなく、できることなら説得し味方にするのだ。そして非暴力こそが、それを可能にする道なのだ」
彼はこう信じ切っていました。

敵を打ち負かすのではなく、説得し味方にする――非暴力は単なる無抵抗という行動の放棄ではなく、むしろ積極的に平和への道を探るべく、手を差し伸べるものであるというキング博士の信条が伝わってくる言葉であると思います。

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■内なる自律的変革

この歌詞が示す「勝利」とは、他人を負かしたり、他人より勝ったりすることではなく、あくまで自分との戦いに勝つこと、自分に負けないこと、つまり、魂が負けないことなのだ――私は改めてその意味を実感することになりました。

負けない人生は、永久に勝ちです。勝つことよりも負けないことのほうが、実は偉大な勝利なのです。

かつて創立者が関西学園の「鳳友祭」で語ったこの言葉にすべてが凝縮されています。

この「負けじ魂」は寛容の精神と全く矛盾を生じません。

私たちが目指すべき勝利は、外や他者に対するものではないのです。

私たち一人一人の内面の永遠の格闘とその勝利にほかならないのです。

さらに言えば、自己との闘争以外の勝利というものはないと言っていいと私は思います。

対談「人間主義の旗を」から引用します。

池田 私が創立した戸田記念国際平和研究所の所長であるテヘラニアン博士は、イラン出身ですが、イスラムの聖戦について、こう語っておられました。
「イスラムでは、『ジハード』という言葉が、時に『聖戦』と解釈されてきましたが、厳密にいえば、武力に訴えるのは『外的な小ジハード』なのです。『内的なジハード』は、自分の貪欲、憎しみなど悪い心を克服し、精神を浄化することです。これこそが、より偉大な『大ジハード』であるとされているのです。しかも武力にしても、イスラムの教えでは自衛のためにしか許されていないのです」
大文明を生んだ世界宗教は、平和と共生への豊かなポテンシャル(可能性)をもっていると信じます。

イスラムによる「ジハード」とは本来、「聖戦」という意味ではなく、自己の精神の闘いの意味であったというテヘラニアン氏の指摘は極めて重要です。

「負けじ魂」に通じる、勝利観であると思われます。

私自身との永遠の闘争を続ける「負けじ魂」をもって寛容の徳を高めるために、私たちは何を目指すべきなのでしょう。

対談「人間主義の旗を」から引用します。

池田 たしかに、言葉の定義も大事ですが、一人ひとりが実際に寛容をどう「実行」するかのほうが、ずっと重要です。そして私は、寛容への取り組みが効果をあげるには、それを下支えする人間精神の変革が不可欠であると考えます。
自由、平等、寛容といった問題に関する議論は、とかく形式的な制度論に終始しがちです。かりに、形式的な手続きによって何らかの解答が得られたとしても、社会的に精神性の醸成が行われないまま、それが他律的に「強制」されるならば、新たな社会的対立を生み出しかけない。寛容の他律的な規範は、かえって不寛容をもたらしてしまう危険すらあるのです。
かえりみれば、20世紀の不寛容の象徴である全体主義も、他律的な変革が招いた大いなる悲劇でした。ユングは述べています。
「あらゆる対立や分裂にあって、分け隔てるものは、人の心にあるという、一般の自覚が成立するならば、実際にどこから手を着けたらいいかが、わかるだろう」
私たちが手を着けねばならないのは、内なる変革です。

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■「勝利」とは「負けじ魂」

そこで私はSGI会長が普段、私たちに呼びかける「勝利」の意味について、寛容の観点から考えてみたいと思います。

なぜなら「勝利」は文字通り、勝つことであり、裏を返せば敗者を作ることにつながらざるを得ないからです。

ある意味、寛容とは最も遠い概念であると、一見とられがちな「勝利」を、なぜSGI会長は、私たちに求めるのでしょうか。

戦いはこれからだ。
必ず、勝つのだ。
我らに開けぬ道はない。
我らに破れぬ壁はない。
勝利できぬ戦いはない。
戦おうではないか!
そして勝ちまくるのだ。
勝って勝って、深く大きい歴史を子孫に残すのだ。後世に残すのだ。
(「広布の賢者の壮年部」より)

大事なことは、ただ一つ、「勝つこと」である。
人生も、広宣流布も、「勝つか、負けるか」、この二つしかない。
諸君は、断じて勝っていただきたい。どんなに言いわけしても、負ければ惨めである。バカにされるだけである。
一人残らず勝ち切って、堂々たる人生を飾っていただきたい。
(1998年3月16日 青年部「3・16」記念大会での名誉会長のスピーチより)

師が求める「勝利」とは何を指すのか――。

このことについて、改めて考えてみる必要はないでしょうか。

私は考え続けてきました。

師が私たちに求める「勝利」とは一体、いかなるものなのか、存在なのかについて。

それがあいまいであったり、不確かであったら、私たちの戦いは一体どこに向ければいいのでしょうか。

何に対して戦えばいいのか、何に勝利をしていけばいいのかについて極めるということは、「寛容の精神」を我がものとしていくための重要なプロセスであろうと私は確信するのです。

考え、悩んだ挙句、私は2009年3月14日付聖教新聞に載った「負けじ魂」という言葉を見い出すことができました。

聖教新聞から引用します。

創価学園創立者である池田名誉会長は、今月卒業を迎える学園生へのはなむけの意義を込めて、学園愛唱歌である「負けじ魂ここにあり」に、新たに「5番」の歌詞を作詞し、東西の全学園生に贈った。
贈られた5番の歌詞を以下に記します。

正義の誇りに 胸を張れ
君に託さん この大城を
学べ勝ち抜け 世界まで
負けじ魂 朗らかに

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■寛容が示す重大な試練

さらにSGI会長は、続けます。

池田 宗教の信奉者が、自分たちが洞察し、また啓示された「真理」に絶対的な確信をもつのは当然のことでしょう。しかし、そのことによって、独善的、排他的な"偏狭の信"に陥るのは、「真理」の解明を目指す宗教者の正しい態度ではありません。
むしろ、究極的な「真理」の解明のために、互いに英知をしぼり、人間の真の幸福の実現に向けて競い合うことこそ、宗教者のあるべき姿だと考えます。
たとえば、自らが信奉する宗教によって洞察された「真理」が、他の宗教にも見いだせることは、しばしば自らの正しさを補完的に証明するものとなるでしょう。逆に、他の宗教の全面的否定は、そのなかに含まれている「真理」をも否定することになり、それは自らの真実性をも否定することになりかねません。

これらSGI会長の発言をどうとらえ、どう現実に展開していくべきなのか――。

難題です。

他宗教の誤りを「折り伏す」のが折伏であり、否定しない限り、改宗させることはできません。

私たちはこのように教わり、実践してきました。

しかし、SGI会長の見解は、他宗教にも「真理」を見い出していくべきで、他宗教を否定することは自らの正しさをも否定することになる、と断言されているのです。

私たちはSGI会長のこの重大な発言をどう解釈していけばいいのでしょうか。

キリスト教徒であるウンガー氏の宗教をおもんぱかっての、リップサービスに過ぎないのでしょうか?

そんなことはあろうはずがありません。

ならばどうとらえるべきなのか――。

まずは一人一人が徹して考えてみる必要があると思います。

そして次に同志と語り合っていくべきでしょう。

徹して、納得のいくまで。

そうしなければ、このような矛盾とも思える考え方を決して乗り越えていくことはできません。

ましてや「寛容」の徳を広めていくことは絶対に不可能なのです。

私たちはもっと悩まなければならないと思います。

もう十分に悩んでいる、と皆さんはおっしゃるかもしれません。

「なかなか折伏ができない」「成果があがらない」――そうした悩みは尽きないはずです。

しかし、私がここで悩むべきだ言っているのは、そういう次元の問題ではありません。

SGI会長が私たちに投げかける寛容の在り方についての問題提起についてなのです。

これらについて真剣に悩み、解決の糸口を見い出していく行為、営為そのものが寛容の精神、寛容の徳を私たちが身につけていくための重大な試練であると言えないでしょうか。

この問題提起と試練を一人ひとりが乗り越えていかない限り、師の示す思想を現実のものとすることは不可能なのです。

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■否定すべきは自らの独善

それら定義から具体的に寛容について考えてみたいと思います。

ウンガー氏とSGI会長の両氏は、個人的に寛容についてどういう概念をもっているのでしょうか。

対談「人間主義の旗を」から引用します。

ウンガー 私は寛容を、大変に「能動的なもの」であり、かつ非常に「個人的なもの」と考えています。
それは、自己と他者との議論から生まれます。すなわち、寛容は、自己の殻を破り、他者と語る姿のなかに現れます。(中略)
いずれにしても、寛容は「他者に精神的に尽くす」なかにあります。寛容は「共生の積極的なかたち」です。自己が他者に対して責任を負うゆえに、自己と他者を同じ存在として扱う。そうした共生の積極的な表現なのです。

池田 他者との出会いを、非寛容によって「対立と破壊」という否定的なものにするのか、それとも寛容によって「融和と創造」という肯定的なものにするのか。(中略)
そして、まことに憂慮すべきことですが、現代は、非寛容な衝突の戦火が世界各地で燃え上がっているのです。これをどうすれば「寛容の世界」に変えていけるか。これが喫緊の課題です。

世界に戦火が絶えることがないのは、非寛容が原因であるとのSGI会長の指摘は極めて重要であり、ゆえに私たちが寛容の精神を取り戻し、その徳を世界に浸透させていくことが"喫緊の課題"となっているのです。

では、非寛容が渦巻く世界、現代社会にあって、私たちがなすべきは一体何なのでしょうか。

私たちが奉ずる究極の法である仏法を世界に広めていく、すなわち広宣流布の運動を広めていく以外にありません。

私はこの結論をもって、この稿を結んでもいいのかもしれません。
これ以上の究極の結論は見い出せないからです。

しかし、私はあえてもう一歩、踏み出して考えてみたいと思います。

私たちが広宣流布の運動を進めていくということは、他者が信じている他宗教を否定し、改宗させるという営みを絶対的に避けられません。

他者が全く無宗教であったり、仮に宗教をもっていたとしても、無関心であった場合は問題はありませんが、宗教を信じている場合、私たちはどう対処していくべきなのでしょうか。

「仏法の考え方には大いに賛同しよう、しかし、宗教は変えない」という人は少なからずいるはずです。

こういう場合においてもなお、その人が信じている宗教を否定し、仏法に帰依させるべきなのでしょうか。

難しい問題です。

ウンガー対談より引用します。

ウンガー 「宗教は、本来的に、寛容を危機にさらすものなのか」――このような問いかけについて、池田会長は、どうお考えでしょうか。

池田 重要な問題提起です。
私は、宗教は本来、寛容に対する脅威ではないと考えます。博士が指摘された「寛容の危機」は、先ほどふれたように、宗教だけにかかわる問題というよりも、政治的・経済的対立など、さまざまな要因が複雑に入り組んだ問題です。
宗教はむしろ、そのような危機に対して戦い、寛容への世論を高めなければならないと痛感しています。
宗教と「寛容」「非寛容」の問題を論じるには、まず「宗教とは何か」「宗教は何を目指すのか」という根源的な問いに立ち返るべきでしょう。そうしますと、宗教とは本来、永遠にして普遍なる「真理」へと人々を導くべきものです。そうであるならば、諸宗教は究極的には、すべての人間の幸福の追求に寄与すべき性質を内包していると考えられます。その意味で、宗教が他者に非寛容となり、その結果、独善に陥るような方向性をとれば、自らの宗教性を否定するものとさえいえるのではないでしょうか。

極めて重要であり、私たちの価値観の転換をも求められるといっていいやりとりとは言えないでしょうか。

私たちがかつては邪宗、邪教などと呼んでいた諸宗教は否定すべき存在ではなく、むしろ否定する態度は非寛容であり、自らの独善であり、それらは自らの宗教の否定を意味する――とSGI会長は明言しているのです。

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■他者の尊厳を擁護

池田SGI会長と医学博士フェリックス・ウンガー氏による対談「人間主義の旗を――寛容・慈悲・対話」は、サブタイトルにも表されているように、「寛容」が重要なテーマとして取り上げられています。

「寛容」はこの対談を通底する一貫したテーマであり、全6章のうち、第1章「宗教と寛容」において、「寛容」の意味と意義について、深く掘り下げられています。

両者が「寛容」の定義について、それぞれ語っている個所から引用します。

まず、ウンガー氏から。

ウンガー氏は1990年に「ヨーロッパ科学芸術アカデミー」を創設、会長に就任しています。

同アカデミーが「宗教間対話の精神」を示すために2002年1月に発表した「寛容憲章」が掲げる「寛容の精神の六定義」について、触れた個所です。

1.寛容とは、個人が進んで他者の尊厳を擁護しようとする心である。

2.寛容は、人間の尊厳に対して義務をもつ価値観としてあらわれる。

3.寛容は、他者を理解し、他者の異なるあり方を尊重する能力を必要とする。

4.寛容は、安定した立脚点を前提とする。

5.寛容は、どのような文化的環境の人にとっても保護・尊厳・自由に役立つものである。

6.寛容を保障し、さらに発展させることは、教育の核心的要素であり、一般的義務である。

「寛容」の本質をとらえた見事な定義であると私は思います。

とりわけ、「安定した立脚点を前提とする」や「教育の核心的要素」など、前提とともに、その醸成にまで言及していることに驚かされるとともに、「寛容」のもつ無限とも言うべき徳の世界を改めて実感することになった気がします。

池田SGI会長は、「寛容の精神」について、「SGI憲章」の以下の部分を示しています。

SGIは「世界市民」の理念に基づき、いかなる人間も差別することなく基本的人権を守る。

SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく。

SGIはそれぞれの文化の多様性を尊重し、文化交流を推進し、相互理解と協調の国際社会の構築をめざす。

SGIは仏法の「共生」の思想に立ち、自然保護・環境保護を推進する。

SGIは真理の探求と学問の発展のため、またあらゆる人々が人格を陶冶し、豊かで幸福な人生を享受するための教育の興隆に貢献する。
ウンガー氏が会長を務める「ヨーロッパ科学芸術アカデミー」とSGIのそれぞれの寛容に関する考え方は見事に符合していることが一読して理解できると思います。

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■複雑さと深さと奥行きと

前置きが長くなってしまいましたが、みずみずしい「感受性」を取り戻すことを前提に、人類発展の原動力たるべき「寛容性」について、考えてみたいと思います。

「寛容」の一般的イメージはどのようなものなのでしょうか。

「寛大」の言葉が表す、許しのイメージ。

「好々爺」的な人がいいというイメージ。

類語辞書などを見ると、「度量」といった言葉とともに、「手ぬるい」「ぬるい」などの言葉が並びます。

まとめてみると、「相手を責めずに許す度量ある人、お人好し、手ぬるい人」などということになりそうです。

その意味では、わが国では「寛容」についての価値は、決して高いとは言えず、事実、日常において「寛容の徳」が強調されることは少ないような気がします。

残念な思いがしてなりません。

私は、「寛容の徳」、「寛容の精神」は、人間にとって、最も重要な徳目の一つであると思うからです。

当ブログ「ユマニテ」のサブタイトルにも、「ソフト・パワー」とともに「寛容の精神」を掲げています。

人々の心から、「寛容」が次第に失われ、すたれつつある今だからこそ、その精神の復興が重要だと感じています。

なぜ、「寛容」が重要なのでしょうか。

私は思います、「寛容」ほど、複雑でいて奥行きと深さを持ち、さまざまな人間の徳を含意している心の働きはほかにないのではないか――と。

例えば。

「宗教のヒューマナイゼイションを考える」、この稿のことですが、これまで考えてきたテーマについて、ざっと振り返ってみたいと思います。

(1)人権

(2)人格

(3)対話

(4)邂逅接触

(5)縁起

(6)自己抑制

(7)開放性

(8)多様性

(9)感受性

このようなテーマは一見、別もののように見えるのですが、私の解釈ではすべて「寛容」に含意されるかもしくは何らかの関連があると思うのです。

私は何が言いたいかというと、それだけ「寛容」という概念は、簡単な定義にとどまらない、広がりと深さを持っているのではないか、ということなのです。

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■心の醸成に必要な時間

上記は「忍耐」という心の働きの例でしたが、素晴らしい名画を目の前にした時においても、その差は明らかでしょう。

「感覚」によって、色彩や筆づかいなどを感じ、「感性」によって画家の生涯などに思いを馳せることが可能となるでしょう。

「感受性」は、他者である作品・画家を受け止めることにより、自己との関係性へと思いを深めていくことができます。

そして、その体験は長い長い時間をかけて心を醸成していくのだと思われるのです。

肩がぶつかった時の例、素晴らしい絵画との出合いの例、ともに共通しているのは、時間です。

「感受性」を十分に働かすためには、時間が必要なのです。

ある意味で、効率性の観点からは、無駄とも言える時間が、「感受性」、言葉を換えれば、心の醸成には必要だということです。

このように、「感受性」には、複雑な心の働きと、十分な時間を要するものです。

であるがゆえに、時間の効率性を重視する現代は、ますます効率の悪い「感受性」を切り捨て、「感性」、さらに「感覚」だけを満足させれば、それでよしとする風潮、文化を安易に求めてきたのではないかと私には思えてなりません。

「感受性」が切り捨てられた「感覚」「感性」は他者の存在や関係性に思いが至らない自己中心的な感じ方ですから、心の結びつきは薄れ、果ては相互理解の拒否を招きます。

そしてその結果、もたらされるものは対立・紛争という最も望ましくない人間関係です。

あえて厳しい言い方をするなら、人間の感受性の退化が急速に進んでおり、今や人間という生物は感覚の奴隷になり下がってしまっていると思えてなりません。

さらに言えば、生命が「感受性」によって営々と築き上げてきた偉業をいとも簡単に放棄し、生命の破局を自ら招こうとしている――と。

「そんなはずはない」という声が聞こえますが、世界の紛争地域に思いを巡らせてください。

人が人を平気で殺す――この事態自体に、原初的生命の傾向性の崩壊を私は見い出さざるを得ないのです。

この「感受性」が退化し続ける限り、言い方を換えれば、「感受性の復権」が獲得されない限り、既述の「開放性」も「多様性」も、ましてや「寛容の精神」などは、すべて"絵に描いた餅"に過ぎなくなってしまうのです。

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■「感覚」「感性」との違い

それでは、「感受性」とはそもそもいかなるものかについて考えてみたいと思います。

「感受性」は文字通り、感じ、受け取るための心の働きです。

同様の意味を持つ言葉に、「感覚」「感性」などがあります。

でも、これらには明確な違いがあります。

「感覚」「感性」「感受性」の順で、感じる部位が身体の表面から内面へ移っていくと私はとらえています。

「感性」と「感受性」は一般的にはほぼ同じ意味に使われるようですが、私は「受」の一字があるかないかの違いから、全く別物と定義したいと思います。

順を追って考えてみます。

「感覚」は、いわゆる五感によって感じ取る刺激であって、「冷たい」「甘い」「白い」などのいわば表層的な認識であろうと思います。

「感性」は、「感覚」よりも感じる部分が一重深くなり、心の働きが加わるのであろうと思います。

では、「感受性」とは?

さきほども述べたように、私は「受」の一字に注目したいと思います。

「感受性」を「感じ」「受け取る」心の働きであるならば、「感性」の感じる心との差は歴然です。

「感性」を「私はこう感じた」とし、「感受性」を「私はこう感じ、受け止めた」と表現するなら、明らかに「感受性」において、心の複雑な働きを必要とするはずです。

「感じ」までは共通です。

違いである「受け止める」とは何か。

私はここを深く探求していく必要があると感じるのです。

私の感じ方では、「感性」には自己しかありませんが、「感受性」には自己と他者の関係性があるということになります。

仮にこういう場面を想像してみたいと思います。

街を歩いていて、すれ違う人と肩がぶつかってしまったとします。
これをもし私の定義による「感覚」「感性」のみで対応したとすると、「痛い!」と感じると同時に、ぶつかった相手に対し、「この野郎、ぶつかってきやがって......」と振り返り、呼び止めるという反応が予想されます。

実際にこのような反応をする人は多くいるでしょう。

これは「感覚」と「感性」にとどまっていると私は思います。

それでは次に、「感受性」による対応を想定してみましょう。

「あ、肩がぶつかってしまった。自分の方からぶつかってしまったのだろうか。それとも相手の方からぶつかってきたのだろうか。相手からだったとしても、何かよそ見をしてしまっていたのだろうか。それとも何かほかのやむにやまれぬ理由があったのだろうか......」

「感受性」という自己と他者の関係性を受け止め、思いをめぐらせるという心の働きにより、相手はもうずっと向こうに過ぎ去って行ってしまっているはずです。

「この野郎......」と叫ぶには既にタイミングは遅すぎます。

つまり、「感受性」には、肩がぶつかって痛いという「感覚」やぶつかった相手に対する怒りという「感性」などをろ過し、浄化する心のフィルターの作用があるのではないかと思うのです。

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■生命たらしめる感受性

以上、池田SGI会長がドゥ・ウェイミン氏との対談「文明の対話」において、人類発展の原動力として挙げた「多様性」「開放性」「寛容性」の3項目のうち、「開放性」と「多様性」の二つについて考えてきました。

最後の「寛容性」の検討に移る前に、「寛容の精神」を獲得する上で、決して欠かすことのできない心の要素について考える必要があると思います。

それは「感受性」です。

「感受性」という言葉を聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、「あの人は感受性が豊かだ」などという場合ではないかと思われます。

この何気なく使われている「感受性」という言葉ですが、この心の要素は人間にとって最も重要と位置づけてもいいのではないでしょうか。

なぜなら、「感受性」という要素が、人間を人間たらしめている、さらに言えば、生命を生命たらしめている要素なのではないかと、私には思えてならないからです。

生命は数十億年という気の遠くなるような時を経て、現在のような地球上に生息するあらゆる生物の形を形作ってきました。

なぜ、このようなことが可能としたのかは、とても私の手に負えるようなテーマではないのですが、私は次のように思います。

生命には、原初から、つまりもともと「感受性」というものが備わっていたがゆえに、今日のような進化成し遂げたのではないか――と。

あくまで私の直感に過ぎない仮説なのですが、私にはそう思えてならないのです。

生命が地球上に誕生する以前の地球は、現在のように穏やかなものではなく、とても生命にとっては生きづらい、住みづらい環境だったそうです。

そんな過酷な環境にあっても生命は生きようと思い続け、そこで獲得したものが、「感受性」だったのではないかと私は推測するのです。

原初的な姿を得た生命が立ち向かわなければならないのは、言うまでもなく環境です。

生命は生きていくために、まず環境に適応する必要がありました。

そこで必要になったのが、「感受性」だったのではないでしょうか。

今、自分を取り巻く環境はどのようなものなのか、どのような状況にあるのか――これらの正しい情報を得ない限り、生命は存続のための対処方法を講じることはできません。

環境に合わせて、環境の変化に応じて、「感受性」というフィルターを通して、生命は次々と生き延びるための対策を講じていったに違いありません。

環境に適応し、生き延びていった生命は「感受性」を進化させていきます。

自らの大型化を可能とする、生命同士の連携です。

単体の小さな生命体よりも、複数の生命体が連携し大型化することにより、生命活動はより複雑に、活発になっていきました。

こうした生命の複雑化、大型化においても、「感受性」の存在が欠かせなかったはずです。

このように、「感受性」はすべての生命に受け継がれ、人間に至ってその能力を最大限に発揮できる存在となりえたと私は考えます。

もはや、私たちにとって「感受性」は当たり前の存在となり、あまり顧みられることもなくなってきてしまったようです。

しかし、私たちは一々を気に留めないだけで、生きる過程のすべてにおいて自身の「感受性」に負っているということを再確認する必要があると私には思えてなりません。


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ドイツとアメリカでほぼ時を同じくして、多数の死者を出す銃乱射事件が起こりました。

銃乱射少年は自殺 「敗者」と呼ばれ、無視された青春(asahi.com)

米で銃乱射10人死亡 容疑者は自殺(asahi.com)

ドイツにおいては17歳の少年が、アメリカにおいては28歳の青年が、無辜の人々に向かって銃を乱射し、殺害したのです。

彼らは一体、何を思って罪なき人々目がけ、銃を撃ったのでしょうか。

一体、何が彼らに凶弾を放たせたのでしょうか――。

理由はさまざまでしょう。

二人とも自殺して死んでしまっている以上、明確な動機をつきとめることはできないのかもしれません。

ただ、共通して言えることは、二人とも、何かに対する抑えようのない怒り、暴力へのやむにやまれぬ衝動、人を傷つけることでしか、何かを達成しようがないなど、極限に近い状況に追い込まれていたことは間違いないと思われます。

なぜ、彼らがこのような犯行を実行するに至ったのかについて、深く考えていく必要があります。

なぜなら、彼らの所為は海外における偶発的な事件では決してなく、どこにでも起こりうる、そう、私たちの足元にも、そうした犯罪が起こりうる状況にあるからです。

事実、わが国においても、青少年による犯罪は後を断ちません。

何が問題なのでしょうか。

教育の仕組みの問題、家庭におけるコミュニケーションの欠如などなど、さまざま要因について語られてきましたが、一向に解決の糸口は見えてきません。

このような痛ましい犯罪や事件が起こるたびに私が思うことがあります。

それは、子どもたちの声がほとんど大人たちに届いていないことが最大の要因であろう――ということです。

大人は人生の経験を積んでいくうちに、順応性というか、自分と社会の折り合いのつけ方を学んでいくものです。

ところが、子どもたちはそうした経験が乏しいがゆえに、この折り合いのつけ方を十分に持ち合わせていません。

ゆえに内面に澱のようにたまり渦巻く心の葛藤が処理しきれずに、そのエネルギーを暴走させてしまうのであろうと思われるのです。

そのような暗く澱んだエネルギーをいかに一人ひとりの子どもの成長のためのエネルギーへと変えていくかが、問われ続けているわけです。

その根本的解決法は何か――。

結論から申しましょう。

それは唯一、対話にあると考えます。

先ほど、私は彼らの暴走の因は彼らの声が私たち大人に届いていないことと述べました。

もしそれが正しいのであれば、彼らの声を真摯に、真剣に聞いていく以外に暴走を食い止める道筋はありません。

私たちは、果たしてどれだけ子どもたちの声を聞くことができているでしょうか。

家庭において、組織において。

組織について考えてみたいと思います。

教育の重要性が訴えられていることから、未来部に力を入れていこうとしている機運が高まっているのは事実です。

しかし、ここで注意する必要があります。

そうした未来部育成の取り組みの中で、どれだけ子どもたちの意見を聞き、話し合いを持つ機会が持てているか――ということを。

この点は極めて重要だと思います。

もちろん、教育的観点から、学会の歴史、池田先生の偉大さなどについて、語っていくことは必要でしょう。

ただそれらが、大人から子どもたちへの一方的な知識の教授という方法のみに終始してしまえば、不十分と言わざるをえないでしょう。

私はむしろ未来部の育成に一切の講義・講演形式は必要ないと考えます。

常に車座になり、それぞれの言葉で、学会について、師匠について、自分の生き方にちて、語り合っていけば、それで十分、いやそうした形式でなければ、子どもたちに伝わらないのではないかと思うのです。

これらは私が未来部の担当者として実践の中で見いだした実証的方法です。

一対一、もしくは複数人による忌憚のない、きさくな語らいの中で、子どもたちの本音の声も聞くことができ、彼らが抱える悩みを成長の糧に変えていく示唆もしていけるはずです。

こうした子どもたちの対話の波を、社会に広げていくことは、私たちの確たる「人道的競争」となっていくに違いありません。

これをお読みいただいている未来部担当者の皆さんには、以上の提案について、何らかの機会にでも検討していただけること、熱望いたします。

未来部時代の対話は長く心に残っていくもの

創立80周年へ『青年・勝利の年』をいかに勝ち取るかについて(4)未来フォーラム


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■対話による価値創造の共有

2009年のSGI提言から引用します。

そして何よりも、暴力と憎悪の連鎖をともに断ち切り、「平和の文化」という共存への土塁を積み上げながら、人間の尊厳に基づく「平和への権利」を21世紀の世界を守る石垣として堅固なものにしていく取り組みが求められます。
この時代変革のために、誰もが始めることができ、かつ、無限の可能性を秘めた挑戦が「対話」です。

SGI会長が強調する通り、今、私たちに最も必要なことは対話であろうと思います。

対話によって、会員一人ひとりの個性を生かすべく、多様な活動の在り方を価値創造していくことが、私たちが求められている行動と責任と平和の「共有」とは言えないでしょうか。

ブライアン・ウィルソン教授と池田SGI会長との対談「社会と宗教」から引用します。

池田 宗教の組織は、ピラミッド型の上下関係と、平等な個人の連帯によるサークル型の関係とが、その目的に応じて組み合わさっており、ちょうど織り物がタテ糸とヨコ糸の組み合わせによって成っているように、そのいずれが欠けてもならないと思います。そして、さまざまな活動の必要性に対して、その組織が有効に機能するのでなければならない、ということができると思います。
創価学会は草創期のいわゆるタテ線時代を経て、地域を主体とするブロック制の上に組織を形成してきました。
これは会長を頂点とし、地方の末端組織に下りていくに従って裾野が広がっていく、いわゆるピラミッド型の組織構成です。

この組織形態は活動方針を全国的に展開していく場合、つまり単線型の活動を進める場合には、極めて高い効率をもたらすものです。
しかし半面、先にも触れたように、単線型であるがゆえに、活動方針に同調できない人々を取りこぼさざるをえない限界も否定できません。

そこで必要なことが、SGI会長も指摘するように、ピラミッド型のタテ糸の組織にヨコ糸を織り込んでいくかということにかかってくるのです。

学会におけるヨコ糸には、出身学校、人材グループ、各種委員会などがありますが、基本的にはタテ軸が主体であって、ヨコ軸の関係は、どちらかというと従の位置にあるといっていいでしょう。

しかし、本来、タテ糸とヨコ糸は主従関係にあるのではなく、相互関係で組織を強くしていく不可欠な要素であるはずです。

なぜなら、将来、創価学会において、悪意の指導者や、悪意はなくとも誤解をした指導者が出てきた場合、タテ糸のみの組織は極めてもろさを露呈してしまいます。

個々人のヨコのつながりや信頼関係が弱いと、悪意の指導者に対して、適切で正当な指摘や批判ができにくく、結果的に不信や憎悪などといった負のエネルギーが増大し、組織を崩壊に導くのです。

青年部「3・16」記念大会での名誉会長のスピーチ(1998年3月16日)から引用します。

今後、指導者が、できあがった基盤の上に、苦労もせず、会員のために生命を磨(す)り減らすこともなく、要領よく泳(およ)いでいく--そのようになったら、おしまいである。いな、今も、そういう人間はいる。そういう堕落(だらく)の先輩は、諸君が手厳(てきび)しく追及すべきである。
牧口先生は「下から上を動かせ」と言われた。
一番大切なのは「法」であり「学会精神である。それを守り抜くためには、上の人間を厳しく戒(いまし)めることが必要な場合がある。
何も恐れる必要はない。
組織が偉大であるから、号令ひとつで、何千、何万という人が動く。その重大な責任を、指導者が簡単に考えるようになったら、とんでもないことだ。
そうなっては、学会には、もはや魂も生命もなくなる。
それでは、邪道(じゃどう)になってしまう。

牧口先生が命じた「下から上を動かせ」を実行していくためには、タテ、ヨコ軸のバランスがとれた関係性から生まれる強固な意志と信念、そして柔軟性に富む思想と発想に裏打ちされたアンチ・テーゼを持つ必要があることは言うまでもありません。

そうした悪意の指導者に対する防波堤であり、安全ネットとなっていくのが、タテ糸にヨコ糸を織り込むことによって作られる強固な織物なのです。

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■「人道的競争」を具体化へ

2009年のSGI提言から具体的に考えてみたいと思います。

提言で、SGI会長は以下のように述べています。

そこで私は、現在のグローバルな危機を、「人道的競争」の具現化を通して、人類の新しい未来への″糧″に変えながら、「平和と共生の世紀」を建設するための柱として、次の三つの項目を挙げたい。
第一は環境問題への取り組みを通しての「行動の共有」であり、第二は地球公共財に関する国際協力を通しての「責任の共有」であり、第三は核兵器廃絶への挑戦を通しての「平和の共有」であります。

こうした観点について、組織で話し合い、どのような行動をとっていくべきかなどについて検討されることは、現状においてはほぼ皆無に近いのではないかと思われます。

推察するに、行われているのは、学生部の一部、各種委員会等に限られているのではないでしょうか。

しかし、それではSGI会長が提言で示した3つの「共有」は、だれが担っていくものなのでしょうか。

社会貢献のために尽力しているNGO(非政府組織)やNPO(非営利組織)、また意識の高い人々に期待すればそれでよし、と考えばそれでいいのでしょうか。

それでは決していけないと私は思います。

同提言において、SGI会長は「市民社会」という言葉を使っていますが、この「市民社会」とは、私たちSGIメンバーを含むことを前提にしていることは間違いないからです。

この点から国連の未来を展望した時、まず必要と思われるのは、将来にわたって国連を支え、力を与え続ける源泉となる「市民社会との強固なパートナーシップ」の構築です。
その基盤づくりの一環として、国連に「市民社会担当の事務次長」のポストを設けることを呼びかけたい。同様の提案は、カルドーゾ元ブラジル大統領を委員長とする「国連と市民社会の関係に関する有識者パネル」が2004年に発表した報告書でも提起されていたものですが、検討に値すると思われます。
この事務次長を、NGOの地位向上とパートナーシップの促進のために専門に活動する常設職とし、平和と安全保障、経済・社会問題、開発協力、人道問題、人権といった国連の主要テーマに関する討議の場に加わり、市民社会の意見の反映を求めていくことなども考えられましょう。
先の有識者パネルの報告書でも、「市民社会は国連にとって決定的に重要で、それを連動させていくことは必要なことであり、選択肢ではない」と強調されていましたが、NGOをいつまでもオブザーバー的な存在にとどめるのではなく、国連を支える″かけがえのないパートナー″として位置付けることこそ、21世紀の国連の生命線であると訴えたい。

この文脈において「市民社会」を「私たちSGI」と読み替えることをしない限り、この提言を私たちが読む意味はないでしょう。

今年の提言に限らず、私たちが取り組むべき社会的課題は、あまりにも多く存在します。

信仰者が目を向けていくべき地球問題群は、深刻なスピードで私たちの現実の生活さえ脅かしているのです。

そう考えていった時、私たちの日常活動の評価基準を社会的分野にも広げていくことは、むしろ喫緊の課題であり、社会的要請そのものなのではないでしょうか。

私たちは、まずこうしたことから、一つひとつ時間をかけて対話をもって検討していく必要があると思うのです。

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■活動の新たな評価基準を

大変、前置きが長くなってしまいました。

多様性を生かす創価学会の組織の在り方について具体的に検討をしてみたいと思います。

創価学会の組織は、基本的に会長を中心とした中央会議で決定された方針に基づき、男女壮婦のいわゆる四者、および学生部、未来部の活動方針がそれぞれ打ち出され、展開されていくという形態をとっています。

こうした組織運営の方法の最も大きなメリットは、「分かりやすさ」ということと思われます。

期間を区切って決められた活動方針に沿って運動を進めていくという形態は、何よりも分かりやすく、あいまいさを少なくすることができます。

一方で、以下のような課題も生じてきます。

どうしても、組織が指し示す活動に乗れない人が出てきてしまうことです。

言うまでもなく、組織は会員に信を強めてもらい、活動を促すために存在するものです。

ゆえに、組織としては活動をしないよりは、活動をする方が望ましいに決まっています。

その意味においては、できるだけ活発に活動をする人を育てることが組織の大きな目的の一つとなっていると思われます。

この考え方の根底には、活動の活発度は信仰の強さに比例するというものがあると思います。

ならば、信仰を強めていくためにも"活動家"を増やそうと意図し、そこに力を注いでいくことは至極当然のことと思われます。

それでは、活動ができない人の側に立って、考えてみたいと思います。

活動ができない、またはしない理由はさまざまであろうと推測されます。

仕事が忙しく、活動の時間がどうしても取れないという人もいるでしょう。

一方、打ち出される活動方針に必ずしも賛同できないと感じている人もいるかもしれません。

このようにその理由がさまざまであるように、一本化された活動の在り方では、どうしても活動できない、したくないという人をフォローアップしきれないという限界が生じてきます。

ならば、どうするべきなのでしょうか。

SGI会長が提言で示す通り、一直線に進む<矢>のように単線的直線的な組織の在り方ではなく、個性輝く星たちが織り成す星座のような多様性に満ちた組織の在り方を志向していく必要があると思うのです。

とりわけ、現在の組織における"活動家"の評価基準は、折伏・弘教や聖教新聞拡大等による成果と会合出席の頻度などによることが多いようですが、既述の理由により、これらの評価基準を満たせないことから、「活動できない、しない」=「信心が足りない」などと安易に評価されるばかりか、当事者自身が自己嫌悪に陥ってしまうという例も少なくないと推察されます。

そうした負の面を改善するため、より幅の広い、柔軟で多様な評価基準や活動の目標などを導入していった方がいいのではないかというのが、私の考えです。

具体例を挙げてみましょう。

2009年の「SGIの日」記念提言において、SGI会長が私たちに求めた「人道的競争」という観点の評価基準を新たに加えてみるというのはどうでしょうか。

これまでにない、より社会に開かれた、より多様性にあふれる、そして何よりも、一人ひとりの内発の力(ソフト・パワー)を引き出す目標が見えてくるはずです。

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■青年に託された「恒久化」

具体的な組織の在り方について検討していく前に、この稿を読んでいただいている方々にお話しておきたいことがあります。

それは、なぜ私のような一会員にすぎない者が、組織の在り方について検討などと勝手なことをしようとしているか――ということについてです。

事実、なぜなのかといぶかっておられる方もおられることと思われます。

私がこのような組織の在り方について思索し、言及していくのは、師からの求めがあったからなのです。

重要なことと思われるので、このことについて、少々お話しさせてください。



1998年3月16日、青年部「3・16」記念大会において、SGI会長はスピーチの中で、その求めを厳命とも言うべき言葉で青年部に直接託されました。

スピーチから引用します。

一、諸君の使命は、大切な創価学会を「恒久化」することである。「永久不滅の創価学会」を築くことである。
それ以外に、広宣流布の流れを永遠化することはできないからだ。絶対に、学会利用の悪人に、かき乱されてはならない。見破っていかねばならない。
一、では、創価学会を永遠化し、広宣流布の永遠の流れをつくっていくには、どうすればよいのか。
それは、優秀な諸君自身が思索し、実行する以外にない。

まさに魂のバトン授与というにふさわしい、3・16の厳粛な儀式でした。

11年前のスピーチですから、年を追うごとに、その存在さえ知らない青年部の方々も増えていると思われます。

このスピーチは、決して当時の青年部のみに与えられたものではありません。

師が創価学会の「恒久化」を青年に求められた以上、それは永遠にわたって青年(いや、意識ある全学会員が)拝していかなければならない言々句々であるに違いありません。

スピーチにおいて名誉会長は、「恒久化」をするための思索の糧として、キリスト教がなぜ世界宗教となりえたかについて、トインビー博士の見解を基にさまざまな角度から言及されています。

ポイントを挙げてみます。

(1)権力と戦う「殉教の精神」があった

(2)大衆を「魂を持つ人間」と見た

(3)最も苦しんでいる人の面倒をみた

(4)教団の拡大のためではなく、民衆の幸福のために尽くした

私たちが創価学会の恒久化を目指すにあたって、広宣流布を進めるにあたって、極めて重要な視点であり、原点であると思います。

そしてスピーチで名誉会長は、トインビー博士の結論を以下のように述べています。

「キリスト教が大衆の心を勝ち得たのは、要するに、どんな競争相手の宗教よりも、また、どんな政府や役所よりも、『大衆のために尽くした』からである」
つまり、当時の大衆にとっての「唯一の希望」は、キリスト教であった。政府でも、政治家でも、経済家でもなかった。
こういう草創期の基盤の上に、キリスト教は次の時代に一気に広まり、「集団改宗の時代」を迎えていくのである。
"新しき世紀"への基盤を、こうやってつくったのである。

私はこのスピーチに接するに及んで、初めて学生時代の弘教の在り方に違和感を覚えたことの正しさと、真の弘教とは? 真の宗教とは? の明快な回答を得たような気がしたのです。

そして、私の進むべき道がくっきりと見えてきたのです。

歩むべき道が見い出せず、葛藤と苦闘の日々であった大学1年生から時を経ること、17年後のことでした。

そして、私はこのスピーチに「ユマニテ(人間性)」の言葉を見い出したのです。

私の信仰者としての使命は、生涯をかけて、「ユマニテ(人間性)」について追求し、ユマニテに基づく宗教の在り方を模索していくことであり、その思想と理念を全世界に広げていくことだ――と思うに至ったのでした。

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■進歩の矢か、多様性の星座か

多様性についてどうとらえていくべきかについて、もう一重、考えてみたいと思います。

世界的に急速なスピードで進行するグローバリゼイションの一方で、さまざまな分野における価値観の多様化もそのスピードも増しているように思われます。

こうした社会的趨勢は、秩序の崩壊といったマイナスの側面を招く半面、個々人がそれぞれの「生き方」を追求できていることの反映という歓迎すべき面も併せ持っています。

多様化が進み、多様性が重視される世界的潮流は、今後も勢いを増すことはあっても衰えることはないと思われます。

ならば、この多様化、多様性をいかに世界平和と一人ひとりの幸福のために生かしていくかが問われていると言っていいでしょう。

その意味で、創価学会インターナショナルが世界宗教として発展していくためには、この「多様化」「多様性」の価値をしっかりと見据えるとともに、正の価値を一層高めていく努力が欠かせません。

第23回「SGIの日」記念提言「万年の遠征――カオスからコスモスへ」(1998年)から引用します。

私は、今日の危機はある意味で、人類のすべての社会的営みを「進歩」の尺度から推し量ろうとする、あまりにも一面的で硬直的な思考法(「歴史主義」は、その嫡子であります)に起因していると考えるものでありますが、この点に関し、「三千年紀への挑戦」をテーマに昨年一月、スペインで行われたシンポジウムにおいて、イタリアの思想家ウンベルト・エーコ氏が、大要、次のように語っていたといいます。
「過去二千年のシンボルは<矢>であった。ユダヤ―キリスト教的一神論に発した<時>は、一方向性をもって突き進んだ。<進歩>という概念が、そこから生まれた。それに対し、来るべき三千年紀のシンボルは<星座>であらねばならない。それは多文化社会の尊重ということである」と(服部英二「3000年紀を見る『世界人』が訴えるもの」、「Ronza」97年5月号)。
「星座」とは、まさに言い得て妙であります。個々の星が光り輝き、その集合が星座という一つの形として美しさを誇りながら、互いにその美しさを損なうことなく、むしろ多様な相を織り成して天空を豊かに飾っていく――とのイメージは、(昨年の提言で言及した、帝釈天の宮殿にある無数の宝石で飾られた"美しい網"に象徴される)仏法の縁起観にも通じるものであり、これを人間社会に当てはめれば、星々は一人一人の人間、星座はその集団が醸し出す文化であり、天空は多様性の花咲く地球社会と捉えていくことができるビジョンなのです。

私たち現代人は、とかく「進歩」を重んじる向きがあります。

いや、これはもちろん現代人に限ったことではなく、人類の歩みそのものが「進歩」の歴史であったことはここで繰り返すまでもないでしょう。

しかし、この「進歩」というものは、人間にさまざまな恩恵をもたらす半面、多大な犠牲もはらってきました。

本来、人間のための「進歩」であったはずが、逆に人間が「進歩」のための奴隷であるかのように扱われてしまうという本末転倒は世界の至るところで平然と行われてきました。

このことについてSGI会長は、同じ第23回のSGI提言で、次のように述べています。

人類の限りない進歩を信じ、颯爽と歩みを始めた二十世紀はまもなく終わりを告げようとしておりますが、その当初の理想に満ちた意気込みとは裏腹に、偏狭なイデオロギーに席巻されるがまま、絶え間ない戦争や殺戮、環境破壊、そして貧富の拡大など、これほどおぞましい悲劇と愚行が繰り返された世紀は、いまだかつてなかったといえましょう。

もちろん、SGI会長は、「進歩」そのものを否定しているのではありません。

提言でも述べているように、「『進歩』の尺度から推し量ろうとする、あまりにも一面的で硬直的な思考法」に懐疑の目を向け、多文化社会を尊重する星座型の思考法への歴史的転換の意義を強調しているのです。

それでは星座型の思考法をもった、つまり多様性を生かす創価学会の組織の在り方はどうあるべきなのでしょうか。

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■法の厳格と人への寛容

ただ、課題がないわけではありません。

信心している、信心していない、もしくは活動している、活動していない――などといった視点、観点からの認識や言動です。

基本的に私たちは、信心している、活動している=優であり、信心していない、活動していない=劣としてしまうことが往々にして、認識してしまうことがあります。

この認識は果たして正しいことなのでしょうか?

SGI会長は「新・人間革命」の第1巻で、次のように語っています。

みんなは、ただ信心しているか、していないかで人を見て、安心したり、不安がったりする。しかし、それは間違いです。その考え方は仏法ではありません。
信心はしていなくとも、人格的にも立派な人はたくさんいる。そうした人たちの生き方を見ると、そこには、仏法の在り方に相通じるものがある。また逆に信心はしていても、同志や社会に迷惑をかけ、学会を裏切っていく人もいます。だから、信心をしているから良い人であり、していないから悪い人だなどというとらえ方をすれば、大変な誤りを犯してしまうことになる。いや人権問題でさえあると私は思っているんです。

極めて重要な観点だと思います。

信心をしていようがいまいが、その人格を尊重していく心こそ、仏法者の在り方であるということなのです。

活動については、ここでは触れられていませんが、同様の認識ととらえていいのではないかと私は推察します。

また、ワシントンでの座談会では、ある婦人から、キリスト教の友人が教会に行くために子どもを預かっているが、それは断るべきなのか――との質問があり、これに対し、SGI会長は以下のように答えます。

ここはアメリカなんですから、広々としたアメリカの大地のように、大きな大きな心でいくことです。あなたが子どもさんを預かっている間に何をするかは、それは友人の側の問題です。あなたが子どもさんを預かるのは、友情からだし、そこから仏縁が結ばれていくのだから、神経質に考える必要は全くありません。

まだ不安な表情の婦人に会長はさらに続けます。

私たちが、日蓮大聖人の門下として、法の正邪に対しては、厳格であるのは当然です。と同時に、人に対しては、どこまでも寛容であるべきです。そこに真実の仏法者の生き方があるからです。

法の正邪には厳格であるべきだが、人に対してはどこまでも寛容であるべき――仏法者として命に刻むべき精神だと思います。

私たちにおける日常の活動の中で、よく思い違いをしてしまうところではないかと思います。

信心は絶対である、ゆえにこれを行ずる者は正しく、これを行じず、信じない人は邪である――と。

一見正しいように見えてしまう上の論理ですが、「新・人間革命」のSGI会長の言葉から敷衍するならば、明らかな間違いということになります。

なぜなら、人に対してはどこまでも寛容であるべきであると強調されているからです。

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■生命が志向する多様性

以上、池田SGI会長がドゥ・ウェイミン氏との対談「文明の対話」において、人類発展の原動力として挙げた「多様性」「開放性」「寛容性」の3項目のうちの「開放性」の意義について考えてきました。

第二に、「多様性」について考えてみたいと思います。

多様性は、生命が志向する本質であり、本能と言っていいのではないでしょうか。

もしそうでなければ、地球という生命体が、これほどの多様性を育んできた理由が見当たりません。

言うなれば、多様性は生命を生命たらしめる必要条件なのかもしれません。

多様性という観点で創価学会を俯瞰するならば、192カ国の世界に広がる多彩なSGIメンバーこそ、その象徴であろうと思います。

この多様性を守り、育む姿勢は、池田SGI会長の世界広布の旅から学ぶことができます。

「新・人間革命」第1巻には、初の広布旅となるアメリカにおけるSGI会長の行動の軌跡がつづられていますが、ここにおける一貫したテーマは、多様性を尊重することにあったと推察されます。

シカゴにおける質問会の後、会長はある青年に人種問題について問いかけ、青年は"黒人"への差別は存在し、偏見もないとは言えないが、この信心の世界においては肌の色の違いに意味はなく、同志と思えていると答えます。

以下はこのやりとりに続く、SGI会長の発言です。

そうですか。大事なことですね。ひとことに人類といっても多様です。人種も、民族も、言語も、文化も、国籍も異なっている。また、まったく同じ顔をした人が二人といないように出生をはじめ、職業も、立場も、考え方も、好みも、一人ひとり違います。この多様性のうえに成り立っているのが、人間の社会であり、仏法でいう『世間』なんです。
しかし、人間は、ともすればその差異にこだわり、人と人とを立て分け、差別してきた。本来、一つであるべき人間が、差異に固執することによって、分断に分断を重ね、果てしない抗争を繰り返してきたのが、人間の歴史であったといってもよいでしょう。大聖人の仏法は、その分断された、人間と人間の心を結ぶ、人類の統合の原理なんです。

この言葉はアメリカのメンバーに述べられたものですが、もちろん、すべてにおいて普遍的に通じる人間と社会の在り方であり、視点であろうと思います。

私たちに引き寄せて考えてみたいと思います。

私たちの間では、その多くが人種、民族、言語、文化、国籍において同じであるため、それらの違いがもたらす偏見やハレーションはほとんどないと言っていいと思います。

しかし、会長も指摘しているように、職業、立場、考え方、好み等になると、まさに千差万別であり、何一つとして画一的なものはありません。

その差異を基本的には私たちはこだわりを持つことなく、人間の連帯を築き上げていることは、素晴らしい人間共和の模範の形であろうと確信します。

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■全体主義の愚を繰り返さぬために

トインビー氏は、目的や理想が高ければ高いほどに、それを達成するための手段は選ばれなくなると指摘し、その手段が結果的に、崇高な理想とは真逆な世界を生み出す矛盾について述べています。

私たちが陥りやすい落とし穴とは言えないでしょうか。

私たちは、万人を幸福にできる大法をもっている、知っている。だから、これらを知らない人たちに大法を持たせるためなら、なんでもしよう、どんな手段でも使おう――と。

これは一見、極めて善なる発想に思われるのですが、それが手段として一人歩きしてしまった時、いや必ずと言っていいほどに、一人歩きしてしまうことで、私たちのコントロールの手を離れ、いつしか暴走してしまうことは歴史の多くが物語っているのです。

SGI会長とミハイル・ゴルバチョフ氏による対談「20世紀の精神の教訓」から引用します。

ゴルバチョフ 全体主義というものは、ありとあらゆるものを隠れ蓑にして、台頭してくることを忘れてはなりません。
「共産主義の完全勝利」のために、または「市場における完全勝利」のために、そしてまた、「民族の理想の完全勝利」のためにと、理由づけがなされていきます。
そのすべての場合に共通するのは、"民衆は、自分ではいかに生きるべきかを判断できない。だから正しい決定を耳打ちしてやる必要がある"という考え方に、基調を置いていることです。

レーニンの理想はもろくも崩れ去り、スターリニズムという、ナチズムとともに最も深刻な全体主義政治を経験した元ゴルバチョフ大統領の言はあまりに重いと言わざるをえません。

レーニンにせよ、彼を支援する人たちにせよ、その目的の正しさゆえ、非難などされなかったことは間違いないでしょう。

一方、その目的を遂行、達成する手段においても、多くの人々が、目的の正しさゆえに、手段の問題をあげつらったり、批判したりできる雰囲気や空気がなかったのであろうと推察されるのです。

正しい目的のための「完全勝利」というスローガンを掲げられれば、それに難色を示すことは、それはそのまま体制に対する反逆を意味したわけですから。

事実、スターリニズムにおいて、その手法を批判したり、拒否した多くの人々が粛清という形で犠牲となっていったのです。

ゴルバチョフ氏は同対談で、こう語っています。

エリート意識、思い上がり、排他的絶対性の主張――これらが、20世紀の多くの悲劇を生んだ根本的原因だったのではないでしょうか。
したがって、すべての人間に平等の価値を見いだす信仰が、勝利しないかぎり、人類の新しい歴史も、新しい文明の到来も望むべくもないと申し上げたいのです。

これは私たちSGIによる平和思想の世界的浸透に対する期待の言葉であることは間違いないでしょう。

であるならば、私たちは「ミイラ採りがミイラになる」の愚を決して、間違ってもおかしてはならないのです。

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■「目的が手段を正当化」の誤り

再度、私が経験した学生時代の弘教の在り方を振り返ります。

先輩は「だましてでもいい、連れてこい」と私に指示しました。

その先輩の目的は、連れてきた友人を幸福に導いてあげることだから、正しいわけです。

しかし、その一方で、手段として「だましてでもいい」という、普通の常識の感覚では受け入れられない方法を示唆しました。

これは目的と手段の適正さを欠く典型的な例とは言えないでしょうか。

SGI会長とアーノルド・トインビー氏の対談「21世紀への対話」から引用します。

池田 目的は手段を正当化する――という考え方が、かつて、多くの組織や団体を推進してきましたが、この思想は、現代においても各種の組織・団体に根強く流れています。とくに政界における権力闘争のなかでは、この行き方がやむをえない、ないしは当然であるとされされる傾向があります。ファシストは、この考え方を最も端的な形で利用したケースだといえましょう。われわれは、ファシストまたはそれに類する野心的な権力集団が、再び地球上に台頭することのないよう、厳重に監視していかなければなりません。そのためにも、目的と手段の適正な関係を、人々がはっきりと認識することが必要でしょう。
これについての私の考えは、目的の正しさは、それを実現する過程で用いられる手段によって裏づけられ、証明されなければならないということです。

SGI会長の目的と手段の関係性についての考え方からすれば、「だましてでもいい」という手段は明らかに正しい目的との整合性、一貫性を欠くものと言わざるをえません。

ファシズム台頭の防壁となるべき私たちが、またそうした権力集団に監視の目を光らせていかなければならない私たちが、もしそのような目的と手段の齟齬を生み出していたとしたら、深刻な問題であると言わざるをえません。

はるか過去の、一大学における小さな誤りだったとするなら、大きな問題とはなりえないでしょう。

しかし、過去にせよ、片隅にせよ、そういった事実があったならば、何が問題であったのかを検証していく必要があると思うのです。

「21世紀への対話」から引用します。

トインビー 善なる目的を悪辣な手段で達成しようという考えの欺瞞性は、ドストエフスキーの小説『悪霊』と、その悪魔的な主人公におけるテーマになっています。これについては、また、二人の高潔な革命家、ロベスピエールとレーニンの生涯が、教訓を残しています。彼らはともに私利私欲がなく、人類の福祉に寄与すべく心身ともに捧げました。しかし、二人とも誤り――知性の誤りであるとともに倫理上の誤り――を犯しています。すなわち、彼らは自分たちの目的は善であり、その達成は重要なのだから、暴力の行使は、手段として正当化されると考えたわけです。その結果、地上の楽園を現出させる代わりに、ロベスピエールは恐怖政治を、レーニンは全体主義政権を、出現させてしまったのです。

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■狂信の克服という難題

ヤーマン氏は続けます。

閉ざされた「宗教主義」には、未来はありません。それぞれの宗教は、たがいに尊重し、学びあっていかなければなりません。宗教はそれぞれに、幾世紀にもわたって培ってきた、人間の本質をとらえるための重要で異なった洞察力を備えているのです。私が危惧するのは、宗教の周りの「孤立の壁」を打ち破る戦いを進めておられる池田会長のような人々の努力にもかかわらず、アジアにしろ、欧米にしろ、ヒューマニズムがいま、危機を迎えていることです。

重要な指摘です。

「池田会長が宗教の周りの「孤立の壁」を打ち破る戦いを進めておられる」一方で、私たちが果たして、この「孤立の壁」を無意識のうちに積み上げることをしていないか――。

私はヤーマン氏の指摘をそうとらえるべきではないかと考えます。

なぜなら、私たちが奉ずる法は唯一絶対と信じてやまないわけですが、それが正しければ正しいほどに、一方で独善性、ドグマ性というものに縛られやすくなるからです。

ヤーマン氏は次のように語っています。

自身のドグマに縛られた宗教は、その心を閉じてしまいます。やがて、「他の人」の世界を拒絶する狂信的要素に支配されていきます。そして周囲の人間すべてと断絶してしまい、ついには、社会を調和・安定させ、向上させる能力を失ってしまいます。

自分たちの教えを知ってもらい、理解してもらい、そして世界中で受け入れて、もらう最善の方法は、自己中心性と傲慢な狂信性を排除することです。


信仰を強め、人間的な成長を遂げていく――これが私たちの目指す信仰者の在り方と言っていいでしょう。

しかし、信仰を強めれば強めるほどに、狂信的、自己中心的、独善的な傾向がつきまとうものです。

こうしたジレンマともいうべき難題にどう向き合うかが、私たち信仰者の一人ひとりに問われているわけです。

重要なことは、正しい目的の遂行のために、誤った、もしくは良心が許さない、または社会的通念から逸脱した手段を絶対にとらないということではないかと思うのです。

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■閉ざされた「宗教主義」

私は師の思想を徹して学んでいきました。

学んでいくに従って、私の学生時代の弘教や対話のあり方が徹底的に誤っていたことが分かったのです。

私たちは、弘教・対話に臨んで、何を志向すべきなのでしょうか。

「文明の対話」から引用します。

池田 古今を問わず、「多様性」「開放性」「寛容性」に満ちた、文化と人間の交流こそが、人類発展の大いなる原動力です。これからの時代は、ますます重要になってくるでしょう。

私たちの布教の在り方が、「多様性」「開放性」「寛容性」に満ちた、文化と人間の交流を基盤としているかどうか――。

師が示すこれらの要素を私たちの対話において、実現できているかを最も注意深く常に点検し、もし足りないならば、満たしていく努力をしていかなければならないと思うのですが、どうでしょうか。

それでは、これら3つの要素について、それぞれを獲得するために必要な心がけ等について考えてみたいと思います。

第一に、「開放性」から取り上げてみます。

開放性の重要性について、ハーバード大学教授のヌール・ヤーマン氏が池田SGI会長との対談「今日の世界 明日の世界」で以下のように語っています。

私は、いまこそ必要なのは、閉ざされた「宗教主義」ではなく、開かれた、健全で現代的な「世俗主義」を樹立することであると思っています。
いいかえれば、さまざまな宗教のすべての偉大な倫理的教義を尊重していこうとする、「世俗主義」であるべきなのです。これが私のいう「ヒューマニズム」です。それが樹立されて初めて、他の文化や宗教との共通の基盤が芽生え、対話の素地も生まれるのです。

ヤーマン氏の指摘する閉ざされた「宗教主義」が、一体どれだけの犠牲をもたらすとともに純粋な信仰心を踏みにじってきたかは、例を挙げるまでもないでしょう。

本来、人の幸福のために作った制度であるはずの宗教が、権力を握ることにより、逆に人を翻弄したり、果ては蹂躙さえする道具になり果ててしまうのは宿命的とも言える傾向性であると言っていいでしょう。

そうした繰り返される本末転倒を阻止するために、ヤーマン氏は、宗教の開放性こそがその宿命を転換する方法であると主張しているのです。

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■「対話の文明」の構築目指して

対話の深き意義を学ぶ方途を、私は池田SGI会長とハーバード大学のドゥ・ウェイミン教授との対談「対話の文明」に求めたいと思います。

タイトルの通り、この対談では、「対話の文明」の構築を目指した二人の真摯かつ経験に基づく見解が自在に交わされており、私は大変感銘を受けました。

対談の冒頭で、一貫したテーマとも言うべき、対話の理念について、語られています。

池田 博士は中山大学での講演で、「対話こそ、文明間の矛盾や衝突をなくす重要なメカニズムである」と、対話の意義を強調されました。そして、「相手の存在を認め、その存在の価値や条件を尊重し、互いに参照し学び合い、恩恵を与え合うという、対話のメカニズムが、異なる文明間には必要である」と鋭く論じられた。まったく賛成です。
世界が混迷の度を増す今こそ、"共に認め合い、共に学び合い、共に敬い合う"真の対話の懸け橋を、あらゆる文明間に築いていくべきです。

ドゥ おっしゃる通りです。
対話の基本となるものは、他者や他文明を認める寛容の精神です。それがなければ、対話は始まりません。しかし、それだけでは不十分です。"認める"だけでは、「否定はしないが、無視もする」という心根を脱却できないからです。ゆえに、真の対話には、"相互"の尊敬という要素が不可欠となってきます。さらに、これは難しい挑戦になりますが、"差異を讃える"という大いなる心根をもつことが大切となってくるのです。
この点、池田会長は、トインビー博士との対談以来、そうした真の文明間の対話を一貫して持続してこられました。社会と文化の変革のための唯一の方途は対話にあるといっても過言ではありません。


一読して、極めて重要なやりとりの個所であることがみてとれると思います。

このやりとりから、私たちが対話に臨んで常に確認すべきポイントを挙げてみます。

(1)相手の存在を認めようと努力できているか?
(2)相手とともに学び合おうという姿勢があるか?
(3)相手を心の底から尊敬できているか?
(4)相手の差異を讃えるだけの大きな心根をもてているか?

私なりにまとめたものですが、これは特に高いレベルを求めたものではなく、対話に臨んでの心がけとして最小限の要件ではないかと思うのです。

思い返すに、私の学生時代の折伏・弘教の在り方は、こうした対話の姿勢のどれ一つとして当てはまるものはなく、とても対話といえる代物ですらなかったと、深く反省させられるとともに、"だまして"先輩の前に連れていって友人たちには、今でも謝罪の念すら沸き起こるのです。

一方で、私にとっての大学時代の経験は、反面教師としての生涯にわたる重要な意味を持つことになり、真の対話とは何か? 真の弘教とは何か? 真の宗教とは何か? 真の組織とは何か? 等々について、一生をかけて追求していかなければならないと思うようになり、その拠り所を師の思想に求めるようになっていったのです。

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13時半より壮年懇談会。

参加者:T地区部長、M地区幹事、Mさん、Sさん、A議員、私。

ビデオ鑑賞、地区部長あいさつの後、フリートークに。

議員からの党の方針についての説明がひとしきり済み、Sさんから新東京銀行への対応、在住外国人の地方参政権等についての問題提起があり、談論風発、侃々諤々の議論となった。

私は皆さんが懸命に対話する姿に感動しつつ、聞いていました。

聞いているばかりでなかなか話に入ってこようとしない私が発言の機会を求められたので、鳥取・智頭町の百人委員会、全国で制定が相次いでいる議会基本条例の話をさせてもらうとともに、議員にそれら住民の政治参加に関する地元での可能性について質問してみました。

議員からはその動きがあり、検討段階に入っているとのこと。

期待したいと思います。

あっという間に1時間半を過ぎており、十分に語り合うことができたという充実感を皆さんは持つことができたように感じることができました。

<参考>

住民参加がもたらす誇りと責任感――智頭町・百人委員会の取り組み

三重県伊賀市議会が起こした革命的ゆらぎ―全国初の議会条例(その1)

三重県伊賀市議会が起こした革命的ゆらぎ―全国初の議会条例(その2)

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