2009年4月アーカイブ

■傍観者から主体者へ

ハーバード講演「ソフトパワーの哲学と時代」から引用します。

この"内発性"と"外発性"の問題を鋭くかつ象徴的に提起しているのが、有名な「良心例学」――事にあたって良心の在り方を、あらかじめ判例として決めておくこと――をめぐるパスカルのジェスイット攻撃ではないでしょうか。

周知のようにジェスイットは、信仰や布教に際して、良心の従うべき判例の体系を豊富に整えておりますが、パスカルは内なる魂の在り方を重視するジャンセニストの立場から、ジェスイット流のそうした外面的規範や戒律が、本来の信仰をどんなに歪めているかを力説してやまないのであります。

(中略)パスカルは異国におけるそのような信仰の在り方そのものを、必ずしも非難しているのではない。たしかに、やむをえぬ選択を余儀なくされる場合もあるかもしれないが、そこに至るまでに多くの良心の苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断があるはずである。それは、良心の内発的な働きそのものである。

にもかかわらず、そうした選択の基準を、あらかじめ判例として外面的に与えられてしまうと、安易にそれに依存する結果、良心は逼塞させられ、マヒし堕落してしまう。

「易きをもとめる多数」へのおもねりでしかない「良心例学」とは、したがってパスカルにとって、良心の自殺行為にほかなりませんでした。

大変重要な観点であると思います。

私たちの活動にこの方程式を当てはめてみることは果たして無意味でしょうか。

組織の方向性を誤らせないために、あえて踏み込んでみたいと思います。

果たして、このパスカルが攻撃した『良心例学』に似た存在が目に見えない形で私たちを拘束し、本来の信仰の持つ柔軟性を失わせていないかについて、まず考えてみます。
ある活動が打ち出される(起こされる)と仮定してみましょう。

その活動は、だれが見ても、否定のしようがない活動であるとします。

その活動について、もし否定したり、疑問視したりするとすれば、少なくとも、しかるべき幹部から、指導、説得等を受けることになると思われます。

こうした一般的とも思える活動の打ち出しは、SGI会長がハーバード講演で指摘した「良心例学」的とは言えないでしょうか。

なぜなら打ち出しという活動方針が上から下へ伝達されるという方法は、「選択の基準を、あらかじめ判例として外面的に与えられてしま」っているものだからです。

すると、SGI会長の講演から敷延するならば、その活動をするべきであるという結論に至るまでの多くの良心の苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断が、打ち出しという選択の基準があらかじめ外発的に与えられてしまうため、内発的な働きは逼塞させられ、マヒしてしまう――恐れがあるのです。

SGI会長は、昭和45年の第33回本部幹部会講演でこう続けています。

それには、なによりも、一人一人が、学会の運命を担い、広布を推進している主体者であるとの強い自覚が必要であります。会長がなんとかやってくれるだろう、総務がうまくやっているだろうといった、傍観者の気持ちはみじんもあっては困るのであります。
僭越な言い方ではありますが、私は、10年間、否、戸田前会長時代から20数年間、一瞬たりとも学会のことを忘れたことはありません。この体を痛めつけ、また、神経をすり減らして、広宣流布のために戦ってきたつもりであります。学会もこれだけ大きくなったのですから、今度は皆さん方幹部全員が力を合わせ、学会を支えていく以外にありません。しかも、新しい段階に入ったということは、学会の新路線は、全学会員が、そうした自覚ある団結、めざめた意識に立つべき時代を意味すると申し上げておきたいのであります。

私が、このSGI会長の指導で、特に大事だと思うのは、最後の3行です。

「全学会員」が、「自覚ある団結」と「めざめた意識」に立たなければならないということにあります。

このことを言い換えるとこうなるでしょう。

重要なのは公的宗教儀式ではなく、家庭での信仰実践が活動の基礎にあるということである。つまり、制度化された教条主義的・官僚主義的宗教ではなく、「個人的(パーソナル)」であるという点である(前出のウィルソン教授の報告から)。

つまり、「自覚ある団結」も「めざめた意識」も、ともに、大前提として「個」の確立が必要なのです。

この「個」の存在抜きにして、組織の存続はありえないのです。

しかし、不可欠でありながら、最も置き去りにされやすいのも、組織における「個」であることを心していかなければならないはずです。
■民主的、建設的な連帯とは

しかし、落とし穴はそこにこそ潜んでいるのです。

伝達、連携は処理するものであり、その処理量が多くなればなるほどに、信仰レベルの情緒面でのつながりを阻害、圧迫してしまうのです。

時間的に許さなくなってしまうのです。

すると、本来あるべき温かい情緒あふれる会話がどうしても欠如していきます。

ゆえに、一人ひとりの組織に対する感情も、極めて薄く、表面的、義務的なものとなっていってしまいます。

私たちが最も気をつけていかなければならない点であろうと思うのです。

SGI会長は第33回本部総会での講演で、続けてこう述べています。

ただし、教義の問題は、これは大聖人が定められていることであり、絶対的なものであります。

仏の教えに従うことが、仏弟子の道です。

しかし、教義と関係ない運営面、活動面は時代と状況に応じて、我々が考えていかねばならない。

これは、最良に民主的な方法で、衆知を集めて、推進していくべきであります。

"絶対的なもの"とは大聖人の教えのことです。

つまり、精神的支柱である学会精神のことであると言っていいでしょう。

学会精神は不変であるべきです、私はそう理解しています。

この道理を否定する人は恐らく皆無でしょう。

しかし、その不変性を、運営、活動面にまでは持ち込んではいけないのです。

なぜなら、時代錯誤を必ず生んでしまうからです。

SGI会長は続けてこう述べています。

いうまでもなく、民主的な方法ということは、無秩序ということではありません。

各人の自覚を根本とした建設的な連帯であり、そうでなければ衆愚となり、仏法の道理に反します。

立案の段階では、どしどし意見を出す。

そのかわり、決まったら、心を一つにして遂行していくのが、民主主義のやり方であり、仏法の世界の異体同心の定義であります。

この言葉を一読して、なるほど、とハタとひざをたたく人は多分いないだろうと思います。

あまりにも当たり前の道理だからです。

しかし、繰り返しますが、そこに落とし穴があるのです。

「民主的な方法」とSGI会長は示されています。

改めて考えてみたいと思います。

「民主的な方法」による「各人の自覚を根本とした建設的な連帯」が目指すべきは一体何なのでしょうか。

会合の運営についてでしょうか、活動の具体的な方法についてでしょうか。

もちろん、そのことも重要でしょう。

しかし、もっと、いや最も重要なことは、一人ひとりの幸福のために、人間革命のために、広宣流布のために、徹して対話していくこと、そのものにあるのではないでしょうか。

しっかりと省みる必要があると思うのです。

信仰の根本目的である、一人一人が幸せになるための根本的な対話が欠けてきてしまってはいないか、と。

運営のための協議に時間を費やすことで、本来の信仰の対話がおろそかになるという本末転倒になってはいないか、と。
■「下から動かせ」の可能性

ここで、池田SGI会長が昭和45年(1970年)5月に行った第33回本部総会での講演に言及してみたいと思います。

かなり時間をさかのぼった講演にあえて言及するのは、創価学会の組織に関する今に通ずる基礎的考え方が、ここにおいて、明確に示されたものであろうと理解されるからです。

この講演においては、会長就任10周年にあたって、それまでの建設の足跡を基盤とし、広布の完成期、総仕上げを目指そうという趣旨がSGI会長によって語られました。

この中で、「創価学会の体質問題」として会長はこう述べておられます。

学会の体質として、特に外部からいわれていることの一つとして、学会は上意下達で下意上達がないという点があります。

本当はそうでもないのですが、とかくそう見られてしまう一面があることも否定できません。

これまでも、なるべく民主的な運営を心掛けてきたことは皆さんがもっともよく知っているはずであります。

今後とも、まず会の運営や会合等について、一人一人の意見が、なんとか最大限に吸収できるように改善したい。

そして、こうした具体的な積み重ねの上に上意下達という傾向を完全に是正していくように努めたいのであります。

この講演から約40年の時間が経過しているわけですが、会長が示した民主的な会の運営や会合等がどれほど行われるようになってきているでしょうか。

基本的には各部で打ち出された活動方針に基づき、総県(区)、分県(区)、本部、支部、地区という順に下に降りていくという形をもって、活動の仕方が決められていきます。

その意味では、上意下達の運営がされているわけです。

確かに会を一元的に運営していくためには、この方法が最も明快であり、無用な混乱を伴う恐れもありません。

しかし、本当にこの方法を永続的にとり続けていって果たしていいものでしょうか。

私は、40年前に会長が示したような、一人一人の意見を最大限に吸収し、積み上げていく下意上達の民主的運営の在り方の可能性をあきらめるべきではない、と考えます。

なぜなら、40年前にはまだ世界において、民主的な潮流の気配さえなかった時代ならば、下意上達の民主的運営は時期尚早だったからです。

しかし、冷戦構造が崩壊し、民主的潮流が世界を席巻した今はもはや民衆が主役であり、それはつまり下意上達を可能とする会運営の条件が整ったことを意味するわけです。

ならば、いよいよ創価学会においても上意下達ではなく、下意上達、つまりかつて牧口初代会長が示した「下から動かせ」を現実のものとしていく会の運営の可能性が模索されてもいい時期になっているのではないか、と私は考えます。

現状における運営の主な方法について、考えてみたいと思います。

基本的に開催される会合は、主に上位役職の人から、下位役職の人へ"伝達"することが目的です。

連絡もしかりでしょう。

上位から下位への事務的な"連携"が多くを占めます。

いずれも組織運営には欠かせぬ要素だと思います。

正確な伝達、綿密な連携なくして組織の命はないと思われるからです。

■"参画"か"結集"か

この"参画(アンガージュマン)"ということの重要性は、当たり前のようでいて、意外と顧みられていないのが実情です。

なぜなら、また会合に例をとってみますが、創価学会における会合の参加、不参加は、基本的には対象者の自由に任されているはずです。

しかし、強制力が働かないとはいえません。

場合によっては、参加の自由を判断すること自体許されないこともあるでしょう。

いや、むしろ後者の場合の方が多いかもしれません。

会合の参加が強制力に基づく場合の悪影響について考えてみます。

まずは、会合に参加できる人が組織の中核となり、さまざまな事情により会合に参加できない人は、自ずと周辺部に追いやられる結果を招きます。

また、会合主催側も当然、会合参加者にどうしても目が行きがちになるので、"会合に参加する人"イコール"人材"という見方が定着していきやすいのです。

弊害はそれだけではありません。

どのような会合にも言われるがまま、同じ比重をもって参加し続けていくならば、その人にとって、その会合にはどのような意味があり、意義があるのかについて、深く汲み取っていこうとする意欲や意志が衰退していってしまいます。

要するに、信仰者にとって一番大切な、自発性および自律性が育っていかないのです。

自発的な"参画"なのか、それとも、あくまで外発的"結集"なのか――このことは、もっと組織において重要な課題と受け止めていくる必要があるのではないかと私は考えます。

ハーバード大学における池田SGI会長の講演から引用します。

ともあれ宗教の名に値する宗教である限り、パーソナル(個人)な側面とインスティテューショナル(個人的)な側面とを持ちます。

高等宗教は、必ず、何らかの絶対的なるもののもとに、すべての人種、身分、階級を超えた個の尊厳を説きますが、それと同時に、宗教が運動体として展開し始めると、必然的に制度化の要請が生じてくる。

しかし、制度的側面は、時代とともに刻々と変化するものであり、個人的側面を「主」とすれば、どちらかといえば「従」であります。

にもかかわらず、ほとんどの宗教が陥ってきたのは、制度的な側面が硬直化することによって、制度が人間を拘束し、宗教本来の純粋な信仰心が失われてくるという本末転倒であります。

制度や儀礼などの外発的な力が、信仰心という内発的な力を抑え込んでしまうわけであります。

先にも述べたように"参画"は内発的・自発的な力であり、"結集"は外発的・強制的な力なのです。

この立て分けは、SGI会長の講演の論旨から明白なのです。

それでは、私たちは結集ではない、"参画"というものをどう促進していけばいいのでしょうか。

■だれも信仰を評価などできない

ここでウィルソン氏が第21回世界宗教社会学者会議で行ったイギリス創価学会についての報告から検討を加えてみたいと思います(東洋哲学研究所欧州研究部長の松戸行雄氏の寄稿による/聖教新聞1991年9月18日付)。

ウィルソン氏は、この報告の中で、SGI運動の卓越性を教会型の既成宗教の形態と比較しながら以下の7項目について指摘しています。

(1)日本的閉鎖性を克服している
(2)自発的な意志と情熱の運動
(3)教条主義でなく人間主義
(4)現実重視の視点が新しい
(5)他律的でなく自律的
(6)豊かな利他性・社会性
(7)宗門問題で(1)~(6)の特質をさらに自覚

私たちが、常に戦いの目標としているところを的確に言い当てている見事な視点であると思います。

しかし、果たしてこの7項目のすべてが、理想の形をもって現実のものとなっているでしょうか。

ウィルソン氏が検証してきたイギリス創価学会については、教授の指摘通りの組織、活動形態となっているのかもしれません。

わが国についてはどうでしょうか。

若干の検証をしてみたいと思います。

私は、(2)の「自発的な意志と情熱の運動」の項目に着目してみたいと思います。

ウィルソン氏は同報告で以下のように指摘しています。

在家運動であるが故に、現地に溶け込める利点は多々あるが、特に「自分が活動し、参画する宗教」いわば"Do it yourself" - Religionである点が、殺伐とした現代管理社会に喘ぐ人々に受け入れられている。聖職者が信者を一方的に教訓したり、信者が受け身で参加する祭儀には、現代人はもはや満足しない。そのような形の信仰ではなく、すべて自分の自由意志と情熱で運動を推進する、この"アンガージュマン(参画)"という特質は決定的に重要である。

氏が指摘するように、私たちの活動は、強制に基づくものではないし、ましてや利害関係や営利を目的とするものではありません。

ゆえに、その行為の目的は常に信仰的な裏付けが必要であり、その行為そのものが価値をもつとされるのです。

ある意味においては、結果はどうとは問わないし、問うべきではない、さらに言えば問うことはできない――私はそう考えます。

なぜなら、その行為を通して、信仰者の信が深まったか、またどのような精神の向上の過程を経ることができたかが、重要な観点となるからです。

つまり、計量できない信仰のレベルでの自己評価のみ可能なのであって、他者が評価することは、元来不可能なのもなのです。

と考えるなら、そこには、自己という主体と、その主体を見つめる内省の目が自ずと必要となってきます。

したがって、あくまでも、自己に始まり、自己に帰するという点においてアンガージュマン(参画)の大きな意味があるのです。

もし、そこにわずかの外的な強制力、義務など威圧的力が加わるならば、アンガージュマン(以下、参画)の意味合いは全く損なわれてしまうのです。

その点についてはあまり重要視されてこなかったようですが、信仰者としての在り方を左右する重大な観点であると、私には思えてなりません。

■組織には権力と利益、名誉が付随

しかし、これは、私たちにとって全く意識しないままに陥りやすい陥穽でもあると私には思えてなりません。

要するに言葉を換えれば、組織における絶対性とは、あくまで人間のための宗教組織ということを前提としているのであり、組織のための人間という観点において、その絶対性は、"絶対的"に否定されなければならないのです。

しかし、宗教組織の歴史を振り返るに、「絶対と無謬」をふりかざし、本来目的とするところの人間の幸福を踏みにじるばかりか、その人間に数知れない犠牲を強いてきたことは例を見るに枚挙にいとまがありません。

なぜ、このようなあるまじき本末転倒をいたずらに重ねてきてしまったのでしょうか。

そうした過ちは宗教に限ったことではありません。

SGI会長とチンギス・アイトマートフ氏による対談「大いなる魂の詩」で、アイトマートフ氏は、かつての祖国が共産主義というドグマによって民衆に絶対を強いた暗黒時代の経験を以下のように語っています。

わが国にかくも長期にわたって君臨した全体主義の悪は、とりもなおさず、人間の人格を完全に踏みにじり、人間を党、国家、そしてイデオロギーとユートピア思想に服従させたことにあります。

マルクスが理論構築し、レーニンによって確立された共産主義政府は長きにわたってツァーリズムによる農奴制から民衆を解放し、ユートピアを現実のものにするかに思われました。

しかし、イデオロギーやドグマ化し、民衆を農奴以下の存在たらしめるという悲劇を招いてしまいました。

なぜこのようなことが起こりうるのでしょうか。

SGI会長は、対談「社会と宗教」において、組織が本来の精神を保ち続けることの困難さを以下のように指摘しています。

組織には権力と利益、名誉が付随し、組織における高い地位は、本来は精神的に優れた人に与えられなければならないにもかかわらず、権力欲や利欲が強く、狡知に長けた人物がこれを奪い取る事態が、しだいに多くなったからです。本来の崇高な精神を後世に伝えるための組織が、逆に、醜い欲望を醸成する場となり、修行者の心から、崇高な精神を駆逐する働きをするものとなっていたことも、認めねばなりません。

ウィルソン氏も宗教組織の抱える宿命として次のように語っています。

精神的体系という本来の目的に役立つべく生まれた組織が、かえってその目的を覆すようになることがあります。社会学者たちは、そのような過程を"目標の置換"(ゴール・ディスプレイスメント)――組織の適正な機能維持に気を取られたり、技術や手順、効用性などに関心を払うことによって、当初の宗教的な目標がぼやけてしまうこと――と呼んでいます。その結果として、組織の設立目的であった宗教的真理の純粋な本質はもはや目的とは見なされなくなります。そうなると、組織は設立当初の目的のためではなく、まったくその組織自体のためにのみ、存在するようになるでしょう。

この組織が抱える宿命的とも言うべき"目標の置換"は、よくみられるケースです。

私たち自身、この"目標の置換"を行っていないか、常に注意深く検討していく必要があります。

場合によっては、第三者機関を設けることで、組織の暴走を監視していく必要性も生じてくるでしょう。

つまり、それほどに組織というものは、本来の精神を保つことが難しい傾向をもっているのです。

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