■傍観者から主体者へ
ハーバード講演「ソフトパワーの哲学と時代」から引用します。
私たちの活動にこの方程式を当てはめてみることは果たして無意味でしょうか。
組織の方向性を誤らせないために、あえて踏み込んでみたいと思います。
果たして、このパスカルが攻撃した『良心例学』に似た存在が目に見えない形で私たちを拘束し、本来の信仰の持つ柔軟性を失わせていないかについて、まず考えてみます。
ある活動が打ち出される(起こされる)と仮定してみましょう。
その活動は、だれが見ても、否定のしようがない活動であるとします。
その活動について、もし否定したり、疑問視したりするとすれば、少なくとも、しかるべき幹部から、指導、説得等を受けることになると思われます。
こうした一般的とも思える活動の打ち出しは、SGI会長がハーバード講演で指摘した「良心例学」的とは言えないでしょうか。
なぜなら打ち出しという活動方針が上から下へ伝達されるという方法は、「選択の基準を、あらかじめ判例として外面的に与えられてしま」っているものだからです。
すると、SGI会長の講演から敷延するならば、その活動をするべきであるという結論に至るまでの多くの良心の苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断が、打ち出しという選択の基準があらかじめ外発的に与えられてしまうため、内発的な働きは逼塞させられ、マヒしてしまう――恐れがあるのです。
SGI会長は、昭和45年の第33回本部幹部会講演でこう続けています。
「全学会員」が、「自覚ある団結」と「めざめた意識」に立たなければならないということにあります。
このことを言い換えるとこうなるでしょう。
つまり、「自覚ある団結」も「めざめた意識」も、ともに、大前提として「個」の確立が必要なのです。
この「個」の存在抜きにして、組織の存続はありえないのです。
しかし、不可欠でありながら、最も置き去りにされやすいのも、組織における「個」であることを心していかなければならないはずです。
ハーバード講演「ソフトパワーの哲学と時代」から引用します。
この"内発性"と"外発性"の問題を鋭くかつ象徴的に提起しているのが、有名な「良心例学」――事にあたって良心の在り方を、あらかじめ判例として決めておくこと――をめぐるパスカルのジェスイット攻撃ではないでしょうか。大変重要な観点であると思います。
周知のようにジェスイットは、信仰や布教に際して、良心の従うべき判例の体系を豊富に整えておりますが、パスカルは内なる魂の在り方を重視するジャンセニストの立場から、ジェスイット流のそうした外面的規範や戒律が、本来の信仰をどんなに歪めているかを力説してやまないのであります。
(中略)パスカルは異国におけるそのような信仰の在り方そのものを、必ずしも非難しているのではない。たしかに、やむをえぬ選択を余儀なくされる場合もあるかもしれないが、そこに至るまでに多くの良心の苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断があるはずである。それは、良心の内発的な働きそのものである。
にもかかわらず、そうした選択の基準を、あらかじめ判例として外面的に与えられてしまうと、安易にそれに依存する結果、良心は逼塞させられ、マヒし堕落してしまう。
「易きをもとめる多数」へのおもねりでしかない「良心例学」とは、したがってパスカルにとって、良心の自殺行為にほかなりませんでした。
私たちの活動にこの方程式を当てはめてみることは果たして無意味でしょうか。
組織の方向性を誤らせないために、あえて踏み込んでみたいと思います。
果たして、このパスカルが攻撃した『良心例学』に似た存在が目に見えない形で私たちを拘束し、本来の信仰の持つ柔軟性を失わせていないかについて、まず考えてみます。
ある活動が打ち出される(起こされる)と仮定してみましょう。
その活動は、だれが見ても、否定のしようがない活動であるとします。
その活動について、もし否定したり、疑問視したりするとすれば、少なくとも、しかるべき幹部から、指導、説得等を受けることになると思われます。
こうした一般的とも思える活動の打ち出しは、SGI会長がハーバード講演で指摘した「良心例学」的とは言えないでしょうか。
なぜなら打ち出しという活動方針が上から下へ伝達されるという方法は、「選択の基準を、あらかじめ判例として外面的に与えられてしま」っているものだからです。
すると、SGI会長の講演から敷延するならば、その活動をするべきであるという結論に至るまでの多くの良心の苦悩や葛藤、逡巡、熟慮、決断が、打ち出しという選択の基準があらかじめ外発的に与えられてしまうため、内発的な働きは逼塞させられ、マヒしてしまう――恐れがあるのです。
SGI会長は、昭和45年の第33回本部幹部会講演でこう続けています。
それには、なによりも、一人一人が、学会の運命を担い、広布を推進している主体者であるとの強い自覚が必要であります。会長がなんとかやってくれるだろう、総務がうまくやっているだろうといった、傍観者の気持ちはみじんもあっては困るのであります。私が、このSGI会長の指導で、特に大事だと思うのは、最後の3行です。
僭越な言い方ではありますが、私は、10年間、否、戸田前会長時代から20数年間、一瞬たりとも学会のことを忘れたことはありません。この体を痛めつけ、また、神経をすり減らして、広宣流布のために戦ってきたつもりであります。学会もこれだけ大きくなったのですから、今度は皆さん方幹部全員が力を合わせ、学会を支えていく以外にありません。しかも、新しい段階に入ったということは、学会の新路線は、全学会員が、そうした自覚ある団結、めざめた意識に立つべき時代を意味すると申し上げておきたいのであります。
「全学会員」が、「自覚ある団結」と「めざめた意識」に立たなければならないということにあります。
このことを言い換えるとこうなるでしょう。
重要なのは公的宗教儀式ではなく、家庭での信仰実践が活動の基礎にあるということである。つまり、制度化された教条主義的・官僚主義的宗教ではなく、「個人的(パーソナル)」であるという点である(前出のウィルソン教授の報告から)。
つまり、「自覚ある団結」も「めざめた意識」も、ともに、大前提として「個」の確立が必要なのです。
この「個」の存在抜きにして、組織の存続はありえないのです。
しかし、不可欠でありながら、最も置き去りにされやすいのも、組織における「個」であることを心していかなければならないはずです。
