2009年5月アーカイブ

■宗教の人間化こそ組織の使命

具体的にどうすれば組織の"絶対化"を防ぐことができるのでしょうか。

SGI会長が1991年のハーバード講演に先立って、会談した作家のエリー・ヴィーゼル氏の視点を踏まえる必要があると私は考えます。

会談を通して、ヴィーゼル氏は宗教は人類に貢献するものでなければならないことと述べています。

そして、反対に「人間が宗教に奉仕する」――このことの延長は狂信につながってしまうことを明らかにしています。

ここで使われている人類、人間を会員に、宗教という言葉に組織という言葉を当てはめてみたいと思います。

組織は会員に貢献するものでなければならない。

会員が組織に奉仕することは、狂信を招く――ということになります。

最もなことだと考えます。

ヴィーゼル氏も強調するように、会員のために組織があるのであって、決して、組織のために会員がいるのではないからです。

しかし、ここで見方を少し変えてみます。

組織を構成しているのは会員です。

ならば、組織への奉仕イコール会員への奉仕という考えも成り立ち、詰まるところ、卵が先か鶏が先かの論議に陥りかねないともいえません。

難問であるがゆえに人間が宗教や組織に奉仕するという行為が繰り返されてきたのであろうと思うのです。

そこで大事なのが、以下のヴィーゼル氏の視点であると考えます。

宗教は本来、人々を結び合うものであって、分離させるものではありません。しかし、同時に過去数世紀にもわたり、神の名のもとに宗教が殺し合いの歴史を繰り返してきた事実を忘れてはなりません。だから宗教は今こそ再人間化が必要なのです。

また、ヴィーゼル氏がソ連の8月革命直後にゴルバチョフ大統領に会ったときの印象を綴った一文の中の言葉に思いを深くいたすべきなのではないでしょうか。

世紀末が近づきます。すべては失敗でした。夢が悪夢になって、共産党は崩壊しました。問題は、何が共産主義にとって代わるのか、ということです。ナショナリズムだという人もいます。私はむしろ宗教だと思います。組織化された宗教のことではなく、宗教性ということです。私たちに欠けているのは、精神性です。だからこそ、私は、より高度で、より説得力があり、かつ慎ましやかな「ヒューマニズム」こそが、あらゆるイデオロギーや狂信的な動きにとって代わると思います。(朝日ジャーナル91年9月13日号)

この宗教の人間化こそが、本来の宗教の使命、あるべき姿に立ち返り、世界から、悲惨をなくす第一歩であると私は考えます。

しかも、「組織化された宗教」ではないということが極めて大事になってくるのです。

そこで、この「組織化された宗教」ではない宗教とはどのようなものかについて考えてみたいと思います。

創価学会は「組織化された宗教」か、それとも「組織化されていない宗教」なのでしょうか。

ある側面においては、これほど組織化された宗教団体もないのではないでしょうか。

半面、その組織化の目的が、会員を一人ももらさず、大切にしていこう、幸福にしていこうというものであり、こうした歴代会長の一貫した信念こそ、完璧に近い組織へと発展してきた最大要因であることは間違いありません。

つまり、学会精神が組織の隅々まで脈打つ、血の通った組織であることが、学会の最大の強みなのです。

もしこの豊かで温かな血流がいかなる理由にせよ止まってしまったら、どういうことになるのでしょうか。

その時が、まさしく「組織化された宗教」に陥ってしまうことを意味するわけです。

現在は、幸い池田SGI会長が、私たち一人ひとり末端の会員にまで、活力あふれる信仰の血潮を吹き込み続けてくださっています。

ゆえに、会員はいささかの動揺もなく、広布の前進を続けることができているわけです。

■「個」の尊厳をいかに守るか

「個」の尊厳を守るということは、確かに難しいことです。

しかし、決して不可能なことではありません。

「個」の尊厳を守るために何が必要なのかについて考える前に、「個」が無視され、封殺される時とは、どのような時かについて考えてみます。

国家にせよ、組織にせよ、その危急存亡がかかった、いわゆる非常事態において、それはもっとも起こりやすいといっていいでしょう。

その代表的な例が、国家における戦争です。

『創大平和研究』創刊号(1979年2月)へのSGI会長の特別寄稿『21世紀への平和路線』の「個の尊厳の理念」の章から引用します。

戦争の本性は、国家を代表とする集団の目的に個人が服従し、生命、財産を犠牲とすることをさえいとわないという心理状態に支えられている。そこでは尊厳性をもっているのは国家等の集団であり、個人の尊厳性は一時的にせよ無視される。人間だれしも、我が身の安全と幸福を追求し、自らの家庭の平穏を願っている。自らの意志で、これらの追求と努力ができることが、個人の尊厳性が保証されている状態である。ところが、戦争においては、国家の命令によって戦場へ狩り出され、自身の願うのとは全く別の目的に従わせられなければならない。
(中略)平和なときは、例えば我が国の場合、憲法によって人格の尊厳は冒すべからざるものと認められ、各人の権利が保障されている。だが、もし、いわゆる国家にとっての非常事態になったときには、思想や言論の自由ばかりでなく、自分の希望によって住み、仕事をする権利すら国家の意志によって奪われる。これでは、平和時の人格の尊厳性の保障ということ自体、本物ではなかったという以外あるまい(池田大作全集1巻所収)

この戦争というものほど、国家を、というより、人間の集団を一気に変質させ、狂気と化す存在はないでしょう。

しかし、それは戦争だけではありません。

戦争という非常事態でないにもかかわらず、今にも天が降ってきそうだといわんばかりの論調で集団や組織を煽り立てたり、いたずらに恐怖感を植え付けたりといった事例は、私たちの社会にあっては事欠くことはありません。

その代表格は、言論の自由を隠れ蓑にし、デマゴーグによる扇動を得意とするイエロージャーナリズムなどでしょう。

日本における伝統ある出版社でありながら、センセーショナルな記事を捏造してきた週刊誌等が自ら墓穴を掘り、自滅していく事例はここにあげるまでもないと思われます。

それでは、私たちに潜む、または潜む可能性のある悪魔性とは何かについて考えてみましょう。

それについて池田SGI会長は私たちが陥りやすい傾向として、「宗教の悪魔化」についてかつて弾呵されています。

やや長文となりますが、1991年9月29日アメリカSGI第1回総会のスピーチから引用します。

本来、宗教は幸福のためにある。しかし、その正邪は別にしても、あまりにもしばしば、宗教は積極的に不幸をつくりだしてきた。

ある時は、『愛の教え』が『憎悪の行動』に、ある時は『慈悲の信条』が『"残酷の正当化"の理論』に逆転し、民衆を苦しめてきた。

それでは、なぜ、こうした宗教の悪魔化が起こるのか?

ハーバード大学の有名な哲学者であったパウル・ティリッヒ博士は述べている。

聖なるものを運搬する有限なもの、あるいは聖なるものの体現を、究極的なもの自体の尊厳にまで高めることを、われわれは(宗教の)悪魔化と呼ぶのであるが、もしあるものを究極性にまで高めることが行なわれると、そのあるものは、他の有限なるものすべてを、自己の統制下に服従させようとし、もしその統制が可能でないときは、すべてのものを破壊しようとする」(ティリッヒ博士講演集『文化と宗教』)

「聖なるものを運搬」とか「聖なるものの体現」とあるように、法王(教皇)の絶対化など、特に「教会」「聖職者」の悪魔化の危険を博士は主張しているのである」

博士は続けている。

「それゆえに、悪魔的に歪められた組織は、すべての他の組織、すべての対立する文化を攻撃し、また、悪魔的に歪められた個人は狂信的となるのである」(同)

ティリッヒ博士はドイツ生まれ。ナチスの支配に抵抗し、ドレスデン大学から追放されている。

ヒトラーという「有限な人間」、また当時のドイツ(第三帝国)という「有限な国家」を神格化し、絶対化することによって、ナチスは、文字どおり、悪魔と化した。アウッシュビッツ強制収容所はその象徴である。

ナチズムは「国家崇拝」「個人崇拝」を伴った一種の宗教といえよう。宗教の悪魔化を論じる博士の胸中には往時の悲劇が去来していたかもしれない。私どもは断じて、このような不幸を繰り返してはならない。

人類はこの本末転倒の歴史を一体いつまで流転しなければならないのでしょうか。

その一つの原因は、この章の冒頭で触れたように、宗教の究極的なものを絶対化するばかりでなく、その信仰者たちを支え守るべき役割を担う組織自体が"絶対化"してしまうことにあると私は考えます。

この組織"絶対化"を招く道を防ぐことこそ、私たちの大きな課題とは言えないでしょうか。

それはすなわち、私たち自身の「悪魔化」を防ぐことにほかならないと、私は考えます。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.23-ja

このアーカイブについて

このページには、2009年5月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2009年4月です。

次のアーカイブは2009年6月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。