創立80周年へ『青年・勝利の年』をいかに勝ち取るかについての最近のブログ記事

以上、私自身の対話を軸とした組織運営のエピソードについて述べさせていただきました。

それでは、活動方針に照らし、どのような具体的な青年育成、人材育成の取り組みをしていけばいいのでしょうか。

私は方針で打ち出されている「青年・勝利座談会」に注目したいと思います。

方針では、「月例の座談会のうち年2回程度」としていますが、私は月例座談会とは別に、対話形式が可能な人数規模の会合を毎月、開催していく方がいいのではと考えます。
なぜなら、定例の座談会では、基本的に対話を成立させることが難しいからです。代表者の活動報告や体験談、幹部あいさつ等で時間を尽くしてしまいますし、人数規模から言っても対話の範囲を超えてしまいます。

したがって、定例の座談会とは別に対話を可能とする規模での会合が大切になるわけです。もし対話が成立しないほど集まってしまう場合は、2回に分けてもいいのではないかと思います。
実際、私の地区で2回にわけて「壮年懇談会」を開催したこともあります。

さらに現実的な方法を述べさせていただきますと、婦人部の皆さんは小グループによる会合が充実しているので、これ以上、会合を増やす必要はないかと思われます。

つまり、「青年・勝利座談会」は青年部と壮年部による合同懇談会の形式をとることが最も現実であり、実りのあるものとなると思われるのです。

青年部は、壮年部が積み重ねてきた体験や社会における実証、そして師弟の大切さについて学び、壮年部は広宣流布への請願から発する若々しいエネルギーを青年部から受け取るというように――両者にとって胸のすくような、素晴らしい触発の場となることは間違いありません。

そして、対話の中で、活動方針にもあるように、「地域・社会への貢献活動」のあり方について意見交換していくことも重要になってくるでしょう。

やがてそうした対話は具体的な行動となって、「平和・文化・教育運動」の一翼を担っていくことになるかもしれません。
こうした私たち一人ひとりの命に必ず存在する「ソフト・パワー(内発の力)」を対話によって薫発させ、それがひいては社会を変革していく原動力へとつながっていくのです。

そのような奇跡的ともいうべき潜在力が対話には秘められているのですから、この方途を使わないわけにはいきません。

最後に、対話について、池田先生が対談「21世紀の精神の教訓」においてゴルバチョフ元ソ連大統領に語った言葉を引用し、この稿の結びとさせていただきます。

このような"ソクラテス的対話""釈尊的対話"を復活させ、その輪を幾重にも幾次元にも広げていくことを、私は生涯の課題とし、また夢ともしてきましたし、今後も、その道をひた走っていくつもりです。

どんなに迂遠な道にみえようとも、そこにこそ、時代の閉塞状況に風穴をあけていく王道があり、正道があると信じているからです。

それはまた、あなたのおっしゃる「自ら考える市民を創出していく、人間一人一人の内なる新たな文化的革命を世界的規模で展開していく」ための確たる一歩となっていくにちがいありません。


もとより、そこに徹することが、生やさしいものでないことは、十分承知しているつもりです。

名聞名利を追うための人気取りの言論や、ものごとのつじつま合わせのためのおざなりな対話は、言論や対話の名に値しません。

ソフィストの言論活動は、彼らに富と名声をもたらしましたが、ソクラテスの言論活動は、青年を毒するものであるとの誤解や非難、中傷、結句は死の運命に彼を追いやりました。

しかし、歴史の淘汰作用は正直で、容赦のないものです。

ソフィストたちとソクラテスのどちらの人間洞察が深かったか、言葉が人間の証であるとすれば、どちらの言葉が言論・対話の名に値したか、あえて言挙する必要もないことでしょう。

どんなに非難・中傷を浴びようとも、たとえ死に直面しようとも、己が信念に従って、黙することを肯じないのが、まことの言論の発露であります。

私の恩師は「信なき言論は煙の如し」と喝破しました。

この不朽の言葉は、あなたとこうして、ゆくりなくも信念の対話を続けている間、常に私の胸のなかにこだまし、響き続けてきた"通奏低音"ともいうべきものでありました。(「人間の尊厳の危機を超えて――池田大作」より)



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私はこれらの経験により、一方的な講義形式ではない、対話による内部充実こそがすべての戦いに優先する原点であるということを見出すことができたと思います。

この法則は、壮年に限ったことではありません。すべての部において、共通する法則であり、逆に言えば、真の対話なき組織に発展の余地はないということは明らかであろうと思うのです。

婦人部が組織的に強いといわれる理由はたくさん挙げられると思うのですが、何より、この対話が充実していることではないかと私は推察します。
つまり、グループという対話を可能とする小単位での語らいが、さきほど「壮年懇談会」での例で示したような触発を生み、パワーの源泉になっていることは間違いないと思われるのです。

池田先生と宗教学者・ウィルソン教授との対談「社会と宗教」で、教授は、以下のように語っています。

ウィルソン教授 小単位のグループは、討論や学習や祈りのためであっても、またはたとえ社会的活動のためであっても、明らかに、より広い個人間の触れ合いを誘発する可能性を強めます。宗教的忠誠心は、こうして個人的・社会的なつながりによって強化されますが、これは、その宗教組織がより広範な成功を収めうるかどうかを占ううえで、重要な要素なのです。

教授が指摘するように、「小単位によるグループ」の対話は、「個人間の触れ合いを誘発する可能性を強め」、それは「宗教組織がより広範な成功を収めうるかどうかを占ううえで、重要な要素」と語っておられるのです。

もう一つの体験事例を申し上げたいと思います。

未来部育成における事例です。

私は青年部時代、ある区の高等部長をさせていただいた経験があります。

基本的に高等部の活動は、月1回の定例高等部員会というところが大半であろうと思います。

私が区高等部長にさせていただいて初めて区で行った最初の部員会でのことです。
集まってきた高校生たちは一様に下を向き、つまらなそうにしているのです。
気持ちはよくわかりました。私も同じ経験をしているからです。
「一体、私たちに何が足りないのだろう、彼らが求めるものは何だろう」と考えるきっかけをくれたように思います。
そして高等部担当者と繰り返し協議した結果、週1回の高等部員会の開催というアイデアを見い出すに至ったのでした。

皆さんのだれもが「毎週なんてありえない」と思われることでしょう。

しかし、この改革案の真の狙いは、単に会合の回数増やすということではなく、「選択可能で対話ができる部員会」の開催ということでした。

従来のように、月1回では開催日に、例えばクラブであったり、模擬テストなどが入ったりすることはよくあるものです。もしそうしたことが数回にわたって続けば、高等部に対する意識はどんどん弱まっていってしまいます。
しかし、毎週開催とすれば、高等部員たちが参加可能な幅はグンと広がります。
さらに毎週の部員会の担当は本部責任者がつき、それぞれが得意な分野でテーマを決め、対話をするという方法をとりました。毎週とはいっても、担当者にとっては実質月1回の担当で済むわけです。

毎回、4、5名の高等部員、ほぼ同じ数だけの担当者の計約10名による対話集会を開くことができました。

担当者によっては、社会福祉協議会に勤めているメンバーが職場から車イスを借り、会館の敷地内で実際に車イスに乗ったり、押したりという体験型の会を開くこともありました。

このような試みは高等部員たちにとても好評で、「面白い」「ためになる」というアンケートの意見を開催するたびにもらうことができました。

(つづく)

※追記
後から思い出したのですが、高等部員会の毎週開催は、実際は中・高合同による「未来フォーラム」というものでした。中・高合同にすることで、高等部と中等部の交流と対話による触発が生まれました。さらに担当者が倍に増えることで、毎週の担当が可能となったのです。

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「対話」の重要性について、一歩踏み込んで考えるようになったきっかけとなったエピソードを自身の体験から紹介させていただきます。

私が地区部長をさせていただいた時、毎月1回、地区で「壮年懇談会」を開催しました。

きっかけは、婦人部の皆さんからの勧めによるものでした。
当時、わが地区の壮年の状況は芳しいと言えるものではなく、座談会の参加をはじめ、あらゆる点で婦人部の"お荷物"的存在となっていました。
青年部卒業と同時に地区部長にさせていただいた私は意気揚々と壮年部の皆さんの家庭訪問に臨んだのですが、皆さんの反応は極めて薄く、時には不信の眼差しさえ向けらることもありました。

「なぜ、こんなに皆さんの表情が曇っておられるのだろう」

当初は、そのような感想を持つのが精いっぱいでした。

そんな中、婦人部から発せられた懇談会の勧めは、私にとって、まさに希望の光となったのです。

さっそく案内のカードを作り、ブロック長さんとともに、懇談会のお誘いをして回りました。

それを受け取る皆さんは怪訝な面持ちながらも、「壮年部だけねぇ......」と返す言葉のニュアンスに、決してまんざらでもない感触を得ることができました。

さて、第1回の「壮年懇談会」です。

ブロック長さん3人と私・地区部長の計4人の開催となりました。
結果は驚くべきものとなりました。

普段、婦人部がいる前では話すことができないさまざまな本音が次々と飛び出し、このメンバーで初めてといっていい、熱い対話を交わすことができたのでした。

私は心の中でガッツポーズをしました。
大成功と確信できたのです。

ブロック長さんたちも、これまでになかった、充実感を感じていただけたようでした。

事実、ブロック長さんが次回の懇談会の誘いに回る時には初回とは全く違う熱意を感じることができました。
そして、その熱意に応えるかのように、毎月の懇談会には一人、また一人と参加者が増えていくようになったのです。

懇談会における対話のテーマは事前に決めることをせず、参加者の皆さんから提案していただくという形をとりました。これも好評だったようで、テーマは「入信動機」「体験」「公明党への支援のあり方について」等々、多様なテーマによる白熱した対話が繰り広げられました。

私が懇談会において、決めていたことが4つあります。

(1)どんなに組織的に忙しい時でも、必ず毎月開催する
(2)幹部はこちらからは呼ばない(幹部から希望があった場合のみ参加してもらう)
(3)私は司会役に徹し、意識的な流れを作らない
(4)時間はきっちり1時間。延長は一切なし。

 
ということでした。

この壮年懇談会がもたらしたものは、小さくありませんでした。

婦人部の皆さんが喜ばれたのは言うまでもありません。"荷物"がだいぶ軽くなったことを実感していただけたようです。

そして何より大事なことは、壮年部の皆さんの一人ひとりの信心の歴史と考えに触れ、お一人おひとりの人生の生き様に触れることができたということです。玄関先の訪問では絶対に知ることのできなかったそれぞれの深みを自ら示していただくことができたのです。
まさに3代の師がおっしゃった「人生に関する問題の対話」であり、「戦い、結び合う対話」であり、「人格と精神の交流による信頼と相互理解」の一分を果たすことができた懇談会となったのです。

(つづく)


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2008年12月13日付聖教新聞に創価学会の「2009年(平成21年)の活動」方針が掲載され、「創立80周年へ『青年・勝利の年』をいかに勝ち取るかについて」として、「平和・文化・教育運動」に目を向けていくことの重要性について私なりの考えを述べさせていただきました。

そのような私の考えに対し、以下のようなご意見をいただきました。

「言いたいことはよくわかる。創価学会の根幹をなす理念であるから、そうした社会に開いた活動が必要であることは言うまでもない。だが、そうした活動をしていくには大変な労力と研鑽を求められる。実際にはなかなか難しいと思う」

というご意見でした。

確かにご意見の通り、簡単なことではないと思います。むしろ困難を極めるというほどに難しいことだろうと思います。

その意味で、私は少し話を急ぎすぎたということを反省し、原点に立ち返り、活動方針の本体ともいうべき柱について、しっかりととらえるべきであると思いました。

自己の体験、経験を交えながら、考えさせていただきたいと思います。

1.創価の青年と共に未来を開く

(1)青年部の成長こそ全学会の勝利

(2)未来部こそ世界の宝

「青年・勝利の年」のポイントは、文字通り、青年の成長にかかっていると思います。

ではどうすれば青年が成長できるのか――それこそ容易なことではない、至難中の至難の事業といっていいでしょう。その意味では、そうした困難をいかに克服するかが、広宣流布の将来を決定づけると言っても過言ではないかもしれません。

私はこの困難を乗り越えるための方法として、「対話」を挙げてみたいと思います。
「そんなことは当たり前で、普通にやっている」と思われる方がほとんどでしょう。そうです、その「対話」です。
私は当たり前のことを言っているに過ぎません。

しかし、対話とは一言で言っても、それぞれが持つイメージは千差万別であり、何を指して対話となすかは簡単に片付けられるものではありません。

これまでも、対話というキーワードをめぐって、3代の師が、世界の識者が、過去の偉人が、さまざまな角度から光を当て、その無限の可能性について言及してきました。
それはこれまで池田先生が、スピーチや対談等で私たちに示してきていただいた通りです。

例を挙げてみます。

牧口先生
<座談会ではなく大規模な講演会形式にすべきではという意見に対して>
「それは違う。人生に関する問題は『対話』でなくては相手に通じない」
「日蓮大聖人の『立正安国論』にしても問答形式ではないか」

戸田先生
「これからは対話の時代になる。人と語るということは戦うということであり、また、結び合うということだ」

池田先生
「対話とは、人格と人格、精神と精神の交流です。互いに深い次元で認識し、相互理解から信頼へと進みゆけるのです」

以上の例は、かつて聖教新聞の社説欄で紹介されたもので、3代会長の「対話観」のエッセンスとも言うべき言葉ではないかと思うのです。

こうした3代の師が語る対話の意義について、どれだけの思いで臨んでいるのかについて、まずそれぞれが考えてみるべきではないでしょうか。
「3代の師が語る対話の精神を私は受け継いでいる」と断言される方を私は尊敬いたします。ぜひ対話をさせていただきたく思います。

しかし、「そこまで深く考えたことはない」と思われるようでしたら、今一度、対話が持つ意味についてとらえ直すべきとは言えないでしょうか。

(つづく)


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2008年12月13日付聖教新聞に創価学会の「2009年(平成21年)の活動」方針が掲載されました。

詳細は聖教新聞にある通りですので、ここでは紹介をしませんが、この方針を勝利の原動力としていくための一つのとらえ方について、私見を述べさせていただきたいと思います。

これはあくまで私見であり、数多くあるべき、とらえ方、考え方の一つに過ぎないことをお断りしておきます。どうかそのおつもりでお読みいただければありがたいです。



まずは、冒頭にある方針の要点をまとめた文章を熟読すべきだと思います。なぜなら、そこには私たちが学会員として心すべき最も重要な精神が示されており、学会の活動基調が確認されているところだからです。
まずは何度も何度も読むべきでしょう。

そして、具体的な活動のあり方について2項目について、さらに詳しく解説されています。
何を目的とするかは、ここを読むことで理解できると思います。

次に、これら具体的な活動方針について、自分は何をすべきかについて、もう決まっている、わかっているという方は、これ以上、この稿を読み続ける必要はないと思います。このページを閉じてください。

この稿を読み進めていただいている方は、「方針については了解した。でも、具体的な行動は何をすべきかはよくわからない」であるとか、「折伏・弘教、聖教拡大であることは明確だ。しかしどうしていけばいいのか......」とやるべきことはわかっていても、実際にそれを進めるにはどうしたらいいかについて悩んでいる方は少なくないと思われます。

では、どうするべきなのでしょうか。

私は、活動方針欄の左側に注目されることをお勧めします。つまり、「平和・文化・教育運動」についての方針が打ち出されている部分のことです。

私はこう推測するのです。
多くの方が、「こうした『平和・文化・教育運動』は、学会の一部の委員会やグループによって推進されるもので、そうした枠組みに属さない私にとっては、あまり関係がないんじゃないか」と。

もしそのように思われているのでしたら、私はそれをあえて間違いだと申し上げたいと思います。
目を通していただければ一目瞭然のように、この欄には現在の日本、そして世界が解決すべき課題が挙げられています。
核廃絶、平和の文化の構築、環境・人権問題、文化・教育など、今、あらゆる面で危機に瀕している私たちの地球をいかに救っていくかという大事な課題ばかりであると思うのです。

私たちはこうした地球規模の難問に対して、地球市民の自覚をもって、どれだけ思いを寄せ、どれだけの活動ができているでしょうか。また活動ができていなかったとしても、学会員同志間の対話で、どれだけ、こうした問題について語られているでしょうか。まずはそのことについて考えてみるべきではないかと思います。

もし、そうした意識が薄く、会員同士におけるそうした語らいもほとんどないとすれば、今一度、自分の立脚点について真剣に考えるべきであろうと思うのです。

池田先生は、師と不二となっての大闘争によって、世界7000人の識者と対話を重ね、50冊に及ぶ対談集を編まれてきました。

池田先生が、されてきた対話のテーマは一貫して、平和であり、文化であり、教育であり、環境であり、宗教が果たすべき社会的役割であり、まさに活動方針が打ち出すところの「平和・文化・教育運動」そのものなのです。
その対話において、世界の識者が池田先生の思想の深さに感嘆し、共感を寄せるところから、創価思想、池田思想への賞賛の流れへとつながっていることを忘れるべきではありません。

ならば、私たち弟子がなすべきことは自ずと定まってくるのではないでしょうか。

池田先生の平和思想を思慮深く学び、自ら体得し、それを実行していくことにほかなりません。

50冊を超える池田先生の対談集をすべて読み通したという方は少数であろうと思われます。かくいう私自身、読み通せておりません。ただ、対談集から無限ともいうべき世界平和を実現するための知恵やヒントを与えていただいたと実感する私は、これら対談集で展開されている創価思想、池田思想を学ばずして、「弟子の道」を受け継ぐことはできないと思えてなりません。

悩んでおられる方は、どうか対談集を読んでください。どの対談からでもいいと思います。
まず、興味のありそうなテーマから読まれるといいでしょう。
すると必ず、それぞれにとって、「これが私が求めていた思想、考え方そのものだ」と、思える瞬間を迎えることができると思います。
事実、私がそうでした。1985年に出版された「社会と宗教」(宗教学者のブライアン・ウィルソン氏との対談)を読み、雷に打たれたような思いがし、池田先生が私にとっての永遠の師匠であることを心の底から思うことができたのです。

以来、私は池田先生の平和構想を実現すべく、先生の著作を徹して学び、その深い意味を汲み取ろうと努力してきました。

繰り返しますが、今は地球規模の危機が私たち自身の生活すら脅かそうとしています。そうした深刻な状況を横目で見て、池田思想を継ぐべき私たちが「何をすべきかわからない」と手をこまぬいていてはならないと思うのです。

私たちが考えなければならないこと、すべきことは、世界に山積しています。
繰り返しますが、まずは対談集を読むところから始め、自分のライフワークとすべき平和と社会のための貢献の在り方について、考えてみてください。

そのように考え、行動した先に、折伏・弘教、聖教拡大のあり方も自然と見えてくると思うのです。



以上、活動方針をどうとらえ、どう自身の闘いとしていくべきかについて、私の意見について述べさせていただきました。
冒頭でもお断りしましたように、これは一つの考え方に過ぎません。先生の思想を学ぶ中で、私なりにたどりついた一つの結論に過ぎません。
大事なことは、それぞれが真剣に悩み、その悩みを解決するために、同志と語り抜く中で、自身の使命とそれを行っていくためのソフト・パワー(内発の力)を見い出す努力をしていくことであろうと思います。
この稿がそのためのきっかけとなるならば、これ以上の幸いはありません。

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