以上、私自身の対話を軸とした組織運営のエピソードについて述べさせていただきました。
それでは、活動方針に照らし、どのような具体的な青年育成、人材育成の取り組みをしていけばいいのでしょうか。
私は方針で打ち出されている「青年・勝利座談会」に注目したいと思います。
方針では、「月例の座談会のうち年2回程度」としていますが、私は月例座談会とは別に、対話形式が可能な人数規模の会合を毎月、開催していく方がいいのではと考えます。
なぜなら、定例の座談会では、基本的に対話を成立させることが難しいからです。代表者の活動報告や体験談、幹部あいさつ等で時間を尽くしてしまいますし、人数規模から言っても対話の範囲を超えてしまいます。
したがって、定例の座談会とは別に対話を可能とする規模での会合が大切になるわけです。もし対話が成立しないほど集まってしまう場合は、2回に分けてもいいのではないかと思います。
実際、私の地区で2回にわけて「壮年懇談会」を開催したこともあります。
さらに現実的な方法を述べさせていただきますと、婦人部の皆さんは小グループによる会合が充実しているので、これ以上、会合を増やす必要はないかと思われます。
つまり、「青年・勝利座談会」は青年部と壮年部による合同懇談会の形式をとることが最も現実であり、実りのあるものとなると思われるのです。
青年部は、壮年部が積み重ねてきた体験や社会における実証、そして師弟の大切さについて学び、壮年部は広宣流布への請願から発する若々しいエネルギーを青年部から受け取るというように――両者にとって胸のすくような、素晴らしい触発の場となることは間違いありません。
そして、対話の中で、活動方針にもあるように、「地域・社会への貢献活動」のあり方について意見交換していくことも重要になってくるでしょう。
やがてそうした対話は具体的な行動となって、「平和・文化・教育運動」の一翼を担っていくことになるかもしれません。
こうした私たち一人ひとりの命に必ず存在する「ソフト・パワー(内発の力)」を対話によって薫発させ、それがひいては社会を変革していく原動力へとつながっていくのです。
そのような奇跡的ともいうべき潜在力が対話には秘められているのですから、この方途を使わないわけにはいきません。
最後に、対話について、池田先生が対談「21世紀の精神の教訓」においてゴルバチョフ元ソ連大統領に語った言葉を引用し、この稿の結びとさせていただきます。
タグ: 【対話】
※このブログは以下のブログポータルに参加しています。
<日本ブログ村>
<ブログランキング>

それでは、活動方針に照らし、どのような具体的な青年育成、人材育成の取り組みをしていけばいいのでしょうか。
私は方針で打ち出されている「青年・勝利座談会」に注目したいと思います。
方針では、「月例の座談会のうち年2回程度」としていますが、私は月例座談会とは別に、対話形式が可能な人数規模の会合を毎月、開催していく方がいいのではと考えます。
なぜなら、定例の座談会では、基本的に対話を成立させることが難しいからです。代表者の活動報告や体験談、幹部あいさつ等で時間を尽くしてしまいますし、人数規模から言っても対話の範囲を超えてしまいます。
したがって、定例の座談会とは別に対話を可能とする規模での会合が大切になるわけです。もし対話が成立しないほど集まってしまう場合は、2回に分けてもいいのではないかと思います。
実際、私の地区で2回にわけて「壮年懇談会」を開催したこともあります。
さらに現実的な方法を述べさせていただきますと、婦人部の皆さんは小グループによる会合が充実しているので、これ以上、会合を増やす必要はないかと思われます。
つまり、「青年・勝利座談会」は青年部と壮年部による合同懇談会の形式をとることが最も現実であり、実りのあるものとなると思われるのです。
青年部は、壮年部が積み重ねてきた体験や社会における実証、そして師弟の大切さについて学び、壮年部は広宣流布への請願から発する若々しいエネルギーを青年部から受け取るというように――両者にとって胸のすくような、素晴らしい触発の場となることは間違いありません。
そして、対話の中で、活動方針にもあるように、「地域・社会への貢献活動」のあり方について意見交換していくことも重要になってくるでしょう。
やがてそうした対話は具体的な行動となって、「平和・文化・教育運動」の一翼を担っていくことになるかもしれません。
こうした私たち一人ひとりの命に必ず存在する「ソフト・パワー(内発の力)」を対話によって薫発させ、それがひいては社会を変革していく原動力へとつながっていくのです。
そのような奇跡的ともいうべき潜在力が対話には秘められているのですから、この方途を使わないわけにはいきません。
最後に、対話について、池田先生が対談「21世紀の精神の教訓」においてゴルバチョフ元ソ連大統領に語った言葉を引用し、この稿の結びとさせていただきます。
このような"ソクラテス的対話""釈尊的対話"を復活させ、その輪を幾重にも幾次元にも広げていくことを、私は生涯の課題とし、また夢ともしてきましたし、今後も、その道をひた走っていくつもりです。
どんなに迂遠な道にみえようとも、そこにこそ、時代の閉塞状況に風穴をあけていく王道があり、正道があると信じているからです。
それはまた、あなたのおっしゃる「自ら考える市民を創出していく、人間一人一人の内なる新たな文化的革命を世界的規模で展開していく」ための確たる一歩となっていくにちがいありません。
もとより、そこに徹することが、生やさしいものでないことは、十分承知しているつもりです。
名聞名利を追うための人気取りの言論や、ものごとのつじつま合わせのためのおざなりな対話は、言論や対話の名に値しません。
ソフィストの言論活動は、彼らに富と名声をもたらしましたが、ソクラテスの言論活動は、青年を毒するものであるとの誤解や非難、中傷、結句は死の運命に彼を追いやりました。
しかし、歴史の淘汰作用は正直で、容赦のないものです。
ソフィストたちとソクラテスのどちらの人間洞察が深かったか、言葉が人間の証であるとすれば、どちらの言葉が言論・対話の名に値したか、あえて言挙する必要もないことでしょう。
どんなに非難・中傷を浴びようとも、たとえ死に直面しようとも、己が信念に従って、黙することを肯じないのが、まことの言論の発露であります。
私の恩師は「信なき言論は煙の如し」と喝破しました。
この不朽の言葉は、あなたとこうして、ゆくりなくも信念の対話を続けている間、常に私の胸のなかにこだまし、響き続けてきた"通奏低音"ともいうべきものでありました。(「人間の尊厳の危機を超えて――池田大作」より)
タグ: 【対話】
※このブログは以下のブログポータルに参加しています。
<日本ブログ村>
<ブログランキング>
