宗門問題と創価ルネサンスについての一考察の最近のブログ記事

■さいごに

この考察論文は、宗門問題の本質を探ることから始まり、池田先生の行動と人間学、そして思想を学ぶ必要性に至った。

つまりは、宗門の鉄鎖から解放された私たちは、その悪の本質を見極め、徹して責め抜くとともに、いよいよ真の人間主義の闘いを展開する時を迎えたのだととらえるべきということだろう。

先生はハーバード講演で述べている。

「人間の側からの"内発的"な対応がなければ、知識や情報がいかに豊富でも、例えば容易に権力による情報操作を許し、"笑顔のファシズム"さえ招来しかねないのであります。その意味からも、ソフト・パワーの時代を支え、加速していけるかいなかは、あげて哲学の双肩にかかっていると言っても過言ではないでしょう」

――つまり、宗門の誤りを徹底的に正すからには、私たちは、徹底的に正しい道を志向する哲学を持ち、その実践をしていかなければならないということである。

先生が示してくださっている指針を目指して戦えているのか、また、人類の利益に資する考えと行動がとれているのか。そうした不断の問いかけができているかどうかが大切なのではないか。

だからこそ、私たちには哲学が不可欠なのである。言い換えれば、高い精神性と宗教性(人間のための)である。

聖教新聞に羅針盤というコラムがある。そのなかで「悪との戦いは...」というタイトルでこういう下りがあった。

「外なる悪との戦いは、また必然的に己の内なる悪との戦いと同時進行させなければならない。『立派に生きることが最善の復讐である』(英国のことわざ)」

私たちは、今、まさに、"極悪"との戦いに臨んでいるのであるから、このことわざを借りれば、"極善"の生き方こそ最大の悪との戦いとなるとは言えまいか。

私は、先生が私たちにそう示して下さっていると思うのである。

だからこそ私たちは、この問題を通して、真の「人間性」「精神性」「宗教性」というものを仏法の英知をもって再度認識し、もし、失われたものがあるとするなら、その復興に全力を傾けなければならないだろう。

そこを無視、軽視するならば、時代逆行の汚点を残すばかりか、広宣流布を阻害さえする存在になってしまうことだろう。

"創価ルネサンス"――創価学会による人間復興――。

この試みは、これまですべての宗教が歴史に示してきた宿命的な不可逆性(宗教の中に生まれた制度的な側面が硬直化することによって、制度が人間を拘束し、宗教本来の純粋な信仰心が失われてくるという本末転倒)を人類史上初めて打ち破ろうとする壮大な、ロマンあふれる戦いなのである。

だからこそ、今私たちが直面していることは、一宗一派に決してとどまるものではない、人類史上をかけた崇高な宗教革命なのである。

ゆえに、私たちは、世界が賞賛する池田思想を学びに学び、「慈悲」と「英知」の光で社会を照らしゆく一人一人に成長していくことこそ、今、最も求められていることなのだ。

そのためにも、講演で示されたように、極力「外的形式」を減らし、一人ひとりの「内発性」を高め、強めるための組織のあり方について、知恵を結集していくことが求められるのではないかと思う。

ハーバード大学の門には次のような一節が刻まれているという。

「学問を進め、後世に伝えていくこと。無学な聖職者たちを教会に残すようなことがあってはならない」(R・N・スミス著、『ハーバードの世紀』)と。
 
21世紀まであと10年足らず。

その新世紀を"人間主義の世紀"の幕開けとしうるのか、それとも、権威の鉄鎖に蹂躙される時代逆行の世紀としてしまうのか......。その鍵は私たちの手の中にある。

その鍵は、先生がソフト・パワーという仏法の原点となす哲学をもって、私たちに手渡して下さったものである。

眼前に立ちはだかり、陽射しをさえぎる山を民衆の漸進的な力によって崩し、やがて燦々とふりそそぐ陽光が享受できるその日まで、巖窟王のごとく決してあきらめることなく勇気の前進をしていくことをここに誓い、この稿の結びとしたい。

(おわり)


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■ハーバード講演の意義――ナイ対談から考えること

次に、この講演のテーマとなった「ソフト・パワー」の重要性を指摘したハーバード大学のジョセフ・ナイ教授との対談(91年5月10日)について触れてみたい。

ここでは、ソフト・パワーとハード・パワーの定義から始まり、指導者にとって、世界にとってソフト・パワーがいかに重要であるかを展開している。教授の言葉を引用してみよう。

「"ハード・パワー"が相手を威圧的に"屈服させる"力だとすれば、"ソフト・パワー"は自分のしたいことをさせながら相手を取り込み、リードする力といえます。それ自体の魅力をもって、相手を魅了していく力です」

これに対して池田先生は、以下のように語り、教授への全面的な賛同を表明している。

「命令ではなく、魅力によって人々をリードする。これは、私どもにとって、一番関心の深い、また最も心を砕いている観点です。威圧的な"ハード・パワー"の指導者ではなく、民主と文化の"ソフト・パワー"の指導力をこそ人々は望んでいるし、このいき方、思想が、民衆の中に大河のうねりとなって広がっていく時、世界は真に『人間』を中心に回転を始めるでしょう。『新たな国際秩序』の問題は『新たな文明の在り方』『新たな人間の生き方』と表裏一体なのです」

今、引用した二人の言葉を先生は講演で宗教的な角度から縦横無尽に展開されている。

さらにナイ教授との対談の中で、先生がハーバード大学が第一級のリーダーを陸続と輩出する理由を問うたのに対して、教授はこう述べている。

「......まず申し上げるべきは、伝統の力でしょう。"真理の追究"と"公共の利益に資する"――これがハーバード大学の精神ですが、私たちは長い間この信念を守り抜いてきましたし、今もなお伝統の実現のために努力しています。ここに人が育つ背景があると思います」

これに対して、池田先生は次のように述べられている。

「"自分は何もしないで、真剣に行動する人のあら探しばかりしている"――ハーバード大学では、そんな四流、五流の人間など眼中にないと。私も、いかなる非難を浴びようとも自ら行動し、社会に、世界に、貢献しゆく本物の人間をこそ育てたい。それが真情です。創価大学も、こうした"行動する英知"を育てるためのものです」

"公共の利益に尽くしていくこと"――この仏法でいう菩薩行を行ずるという目的なしに、真理の追究も無益であるし、ましてや行動の価値はないに等しい。

また、現在の日本を蝕む利己主義、経済至上主義のどれをとっても、この公共に尽くしていこう、すなわち社会のため、世界のため、人類のために惜しみなく尽くそうといった崇高な精神や思想とは懸け離れたものといわざるをえない。

池田先生は、「公共に尽くす」――つまり"社会・人類貢献"を建学の精神とするハーバード大学を舞台とすることで、講演テーマとなる「ソフト・パワー」が発揮されるべき方向性を示そうとされたのではないかと推察されるのである。

ゆえに先生が、ソフト・パワーの重要性を訴え、内発的な力を引き出す哲学の在り方を示されたのもすべて、人類に、社会に貢献するためのものであるということを認識しなければ、この講演を読む意味はないとさえ思える。

例えば、先生は講演の中で、仏法の中の「縁起」の考え方に触れている。

人間は孤独の中では生きられない。

さまざまな関係性、社会性の中で、それぞれが役割を果たしながら生きている。

ゆえに、「いかによく生きるか」は「いかによく人のために自分の命を使っていくか」という自らの問いかけにほかならないということを、この「縁起」という思想で展開されている。

つまり、その実践とは、社会貢献であり、人類貢献という菩薩の行いそのものであることを講演では強調されているわけだ。

<SGI会長講演>「ソフト・パワーの時代と哲学」於ハーバード大学


(つづく)


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【人間主義(ユマニテ)】

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■ハーバード講演の意義――ヴィーゼル対談から考えること

話の筋を戻そう。

過日、池田先生が、ハーバード大学において行った講演「ソフト・パワーの時代と哲学」は、文字通り、SGIにとって歴史的な講演となったと言っていい。

この講演を読むに当たって、講演に先立って行われたエリー=ヴィーゼル博士(ノーベル平和賞受賞の作家)との会談を踏まえておきたい。

博士との対談で中心のテーマとなっていることは、人権(人間の尊厳)と教育の二点である。

人権というテーマについては、アウシュビッツ経験を通して、人間性を抑圧し、蹂躙してきた戦争と宗教を取り上げ、戦争の全き無意味さ、宗教が本来の使命である"人間のため"を忘れ、正義の名のもとに人間を犠牲にしてきた最大の転倒を指摘している。

さらに、博士の「ノーベル平和賞」の受賞の際の講演での「人間が苦しめられ、辱められている限り、いつでも、どこでも、私は決して"沈黙"しない。沈黙は、苦しめる側を増長させ、苦しめられる側には役立たない」の言葉を通し、人間性を踏みにじるものすべてに対して戦う精神の重要性を語った。

そして、教育というテーマについては、人間性を破壊する"憎悪"の危機を克服するための唯一の方法であると語っている。

そして、最後に、青年に望むこととして、博士は「互いに尊重し、尊敬し合う心を育んでほしいということです」と述べ、友情そして人間の連帯の大事さをもって、対談を結ばれている。

(つづく)


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【悪との闘い】


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■会員を賢明な存在に

民主化の到来とは、自由を獲得することにほかならないことであるが、放縦な自由の享受とは違うことを明確に踏まえていなければならない。

民主化に必要な条件は何か――その根幹を先生は、教育に置かれた。

知識の詰め込みではない、全人格的な教育。

つまり、古今の一流人物の思想、生きざまを通しての人間学を時に衛星放送で、時に聖教新聞で、また、世界の識者との対談を通じて。

人類最高峰といっていい知恵の宝を、私たちに示してくださっている。

ここで、やや本稿の筋から外れることになるが、一つの問題提起をさせていただきたい。

それは、一体私たちのどれだけが、池田先生が積み上げてきて下さった、この知恵の山、宝を生かしきれているだろうか、という疑念である。

先生は今、真の宗教革命を先陣を切って断行されている。

そして、私たちにもその方途を示して下さっている。

その宗教革命も前述の通り、決して一宗一派の改革にとどまるものではなく、全人類的視野に立った世界平和実現というグローバル規模の戦いであるということにほかならない。

しかし、池田先生のスピーチ、著作、対談集等は膨大な量に及ぶがゆえに多くの人が、ある種、諦めが先に立ってしまっていないだろうか。

先生が時々スピーチの席上で、「私は200年後の人たちのために話しているのだ」と述べられたり、側近に向かってそう漏らされたりすることがあるという。

それは、私たちの諦めが、先生に伝わってしまっているがゆえの、先生の心情の吐露なのではないか。

先生の指導が重要だ、重要だということは、常に叫ばれ続けてきた。

しかし、なぜどう大事なのか、どう咀嚼し、自己の血肉にしていくべきか、いかに実の生き方として展開していくべきか、また社会に反映していくべきかについて、語られる機会はそう多くはない。

そうした対話より、むしろ"伝達"が優先され、真の意味の"人間教育"がなされていないと思うのは私だけだろうか。

重要なのは、対話である。

一対一の膝詰めの対話である。

悩みを解決し、問題意識を掘り起こし、命を触発する、本音で語り合える熱き本音の対話である。

これこそが人間主義の仏法の原点なのだ。

そして、その対話で展開されるべき知恵は、既に池田先生によって、その多くを授けられている。

語るべきである、徹して。

真剣でかつ温かい語らいの中にしか、広宣流布前進のパワーは生まれない。

そうした対話が欠如しているとしたら、戦いが形式化していることを疑うべきだ。

発せられる言葉が、伝達に終始していないか点検してみるべきだ。

今こそ、大胆かつ柔軟な思考の上に立って、真の人間のための宗教の在り方、組織の在り方を模索するべき時がきたのではないかと思う。

これは、学会の永遠化、普遍化を池田先生に託された私たち後継が、心がけていかなければならない最重要課題なのではないだろうか。

(つづく)


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■世界の潮流――民主化のうねり

池田先生は会長就任時から、海外の指導者との対話、対談などを精力的に進められ、世界平和の実現のための一歩一歩、着実な前進をされていた。

しかし、10年前の世界は、冷戦構造が徐々に解け始めていたとはいえ、世界的な平和の潮流を実感するには至っていなかった。

まして、今回のソ連8月革命などが、将来起こり得ることをだれ一人として予想できなかったほど、民衆が抑圧を感じていた時代だった。

いわゆる、権威の力が権勢を誇っていた時代だったのだ。

池田先生は会長を勇退され、対話の闘いをさらに加速される。

ここ数年を振り返ってみるだけでも、一体どれだけの指導者、政治家、学者、芸術家、作家、教育者、ジャーナリストなどの一流の人物と対話を交わされたか。

先生に会う人、会う人すべてが、年来の友人となっていくという事実。

この着実な信頼の積み重ねが、少しずつ、少しずつ世界の潮流を対立から協調へ、不信から対話への流れに棹差したことは間違いない。

たった10年前の世界はあらゆるところで、権力が絶対を誇っていた。

しかし、絶対の権力であったものが失墜し、権威の仮面がはがされることとなった今日。

もう、抑圧されるものは何もない。

あれば、勇気をもって破壊していくことだ。

――そんな民衆の誇りと自信が、世界を席巻し、人類史上初めて定着した。

宗門に対する学会の闘争も全く同じ図式でとらえることができる。

正邪は明白である。

現に、私たちは宗門をもはや権威とは、だれ一人としてみなしてはいない。

それは、当然の帰結としてそうなったのではない。

池田先生が、営々と築いてこられた民主の時代が到来したからこそ、ということを改めて確認しなければならないだろう。

(つづく)


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■功労者宅の訪問

それでは池田先生は、「その時」を目指して、この10年間で、どのような闘いを積み上げてこられたかについて、その行動の一側面から、その意味をくみ取ってみたい。

先生は、会長勇退時のメッセージに、「一緒に活躍してきた、全国にわたる功労者のご家庭にも、激励やらお見舞いにうかがえればと願っております」とあるように、まず、法に身を賭して闘ってこられた同志のお宅を訪問し、激励するという闘いを開始されている。
先生の当時の指導の中でも「功労者のお見舞いもあって、この地に寄せていただいた。近年、何かとご苦労やご心配をおかけし申しわけなく思っている」(静岡文化会館での勤行会 昭和55年5月13日)などと話されている。

名誉会長となられて、最初にされたことが、学会活動の中で、一番地味であるが、最も重要な原点ともいえる会員宅の一件一件の家庭訪問であったということが、先生の深甚の決意の表れと思えてならない。
池田先生は、盤石たる創価学会の構築へ、ここに確固たる第一歩を踏み出されたのではないだろうか。その緒戦が、一人の会員を大切にする学会の原点というべき対話の戦いだった。

(つづく)


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■10年前との違い

今回の宗門問題と前回(第一次)の問題を比べてみて、一番明確な相違点として感じられることが、その学会の戦い方の姿勢であろう。
一宗派の改革にとどまらない、人類規模的な宗教革命の使命も担っての壮大な戦いであるがゆえに、妥協が許されない、中途半端は許されない。

あらゆるメディアを総動員し、宗門の悪の本質をえぐる報道が続いている。
言い換えれば、この戦いは、情報戦の側面が重要な位置を占めている。
つまり、言論戦による徹底抗戦が学会の姿勢だ。

なぜ、第一次と今回の学会の対応はここまで違うのか。

推察するに、第一次問題の十年前は、現在のように全国に会館が整っていなかったことが挙げられよう。しかも、現在のような衛星放送システムもなかった。情報戦を展開するだけの体制が十分に整っていなかったのである。

正しい情報が伝わらなければ、会員は動揺してしまう。そして悪の組織に簡単に付け込まれていたはずだ。

そうした体制が整っていなかった第一次宗門問題時、池田先生が「過去の経過の一切の責任」をとられる形で勇退せざるをえなかったのは、まだ戦う体制とともに、「その時」が来ていなかったということではないかと推察する。

(つづく)


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宗門問題と創価ルネサンスについての一考察
講演「ソフト・パワーの時代と哲学」に学ぶ


1991/10/5

■はじめに

宗門問題が起こって、約9か月が経った。

しかし、宗門問題とは、"起こった"ということではなく、むしろ、もともと"存在した(あった)"ことであるということを改めて確認するべきだと思う。

宗門問題は、90年の11.16の池田先生のスピーチから端を発したことではないし、ましてや同年末、宗門が行った一方的な池田先生の総講頭罷免から始まったことではない。

それらは、宗門の構造的な腐敗体質が表面に表れたにすぎない。要するに、もっと以前からの根深い問題として存在していたというわけだ。

その問題の根はどこにあったのかを探るべく、第一次宗門問題にさかのぼり、それに伴う池田先生の会長勇退、そしてそこから、約10年後の記念すべきハーバード講演に至るまで池田先生の魂の闘いの軌跡を振り返り、私たちが目指すべきこれからの方向性について、考察してみた。

■「七つの鐘」の終了

昭和54(1979)年4月24日は、池田先生が会長を勇退されたその日である。

しかし、その日付の聖教新聞には、全くその事実は触れられておらず、『学会第1期の目標「七つの鐘」終了に当たって』という題の池田先生の所感が掲載されている。

要旨として、

(1)尊き慈折広布の闘いに奮闘していただいた会員諸兄に深甚の感謝
(2)広布の永続革命を後に続く人々に継承
(3)総本山を外護しながら、新しい世紀に即応して、確固たる広布の歩みを

――と述べておられる。

しかし、この所感が掲載された翌日、池田先生が会長を勇退される記事に接することになろうということを一体だれが予想できただろうか。

事実、翌日の4月25日付には「"七つの鐘"を総仕上げし新体制へ」との見出しが掲げられ、新会長に北条浩氏が就任、池田会長は勇退され、名誉会長となったことが発表されている。

あまりにも唐突な池田先生の会長勇退、そして、新体制のスタート。その急展開は多くの学会員に戸惑いをもたらした。

池田先生は、同日の聖教新聞紙上で、名誉会長としての初のメッセージを寄せている。

メッセージの要旨は、前日の『「七つの鐘」終了に当たって』に準じた内容となっているが、唯一違っている点がある。その点を以下引用する。

「会長辞任とあわせて、私は二十二日、御法主日達上人猊下に法華講総講頭の辞任を申し出ました。
これは、近年、御宗門との関係で、皆様方に多大なご心労をおかけし、御法主上人猊下のご宸襟(しんきん)を悩まし申し上げてきたことに対し、過去の経過の一切の責任をとらせていただくものであります」

池田先生は、あえて当時の問題の本質を公にすることなく、自らの会長勇退、法華講総講頭の辞任をもって、一切の泥をお一人でかぶられることをなさった。

宗門にこそ、問題があったにもかかわらず、である。

池田先生は、なぜ、私たちにその事実を知らせることなく、ただお一人、犠牲を払うような決断をなさったのであろうか。

(つづく)


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来年は「青年・勝利の年」です。

池田先生が連日のスピーチ、お歌で、私たちに「師弟不二」による勝利の重要性を訴えてくださっています。

青年部、そして青年部を支えていく婦人壮年、つまり全学会員にとって、再来年の「創立80周年」を荘厳するために来年の勝利は師匠からの厳命であるととらえるべきでしょう。

いかに勝利を勝ち取るかについて、私の意見をいくつか既に述べさせていただきました。

要点を申し上げますと、

(1)自身との闘争と勝利がすべての基盤となる
(2)勝利のために何が必要であるかを師の指導を基に同志と徹して語り抜く
(3)緻密な計画のもと、信心根本に行動していく

ということになります。

さて、壮年部である私の使命は何か――と考える時、師匠の指導に照らして、青年部の皆さんにいかに奉仕し、成長のお手伝いをしていくかに尽きると思うのです。

そこで私ができることは何かを考えるに、一つは対話であり、もう一つは自分が知りうる師弟の精神のすべてを青年部の皆さんにお伝えすることではないかと思います。

壮年とは言っても名ばかりで極めて信心の未熟な私が、どこまで青年部の皆さんに役に立つような対話ができ、伝えるべき内容があるかは自身よくわかっていないのですが、「壮年部は広布の賢者たれ」という師の思いに少しでもお応えしていくために、努力していきたいと思います。



若い青年部の皆さんの中には、日顕宗が学会を裏切り、自ら墓穴を掘る形で袂を分かつ形になったことの時のことを経験しておられない方も多くおられるのではないかと思います。

今から18年前のことですから、仮に高校生くらいからその認識があるとすれば、現在36歳ぐらいの方より年齢の若い方は、その頃のことを実際に記憶にないかもしれません。

ということは、現在、青年部の方のほとんどが宗門問題という創価学会にとって重大なる転換点を資料のみでしか知りうることがない世代となってきたわけです。

そのことを思うにつけ、私はこの宗門問題の本質をきちんと若い青年部の皆さんに伝える義務と責任があると感じます。

もちろん、それぞれの地元において、青年部の皆さんは経験者である壮年・婦人の方々から、それらを聞いておられると思うのですが、改めて私なりの宗門問題とそこから始まった本格的な人間主義の宗教の全面展開、言うなれば「創価ルネサンスの時代の幕開け」について、振り返っておきたいと思います。

どのように伝えるべきかを悩んだ末、私が1991年10月にまとめた論文を紹介させていただく形で、当時の一つの証言とさせていただこうと思います。
この論文は、池田先生がハーバード大学において講演された「ソフト・パワーの時代と哲学」の直後に書かれたもので、宗門問題のとらえ方と池田先生が展開された深謀遠慮とも言うべき闘争の軌跡について、私の考えを述べさせていただいたものです。

勢いのみで書いた当時の文章のままではいけないと思い、多少の手を加えましたが、骨格はほぼそのままにしています。

ご一読いただき、ご意見をいただければ幸いです。

(つづく)

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