今年は私にとって、重要な分岐点とも言うべき年になったのではないかというのがまず、自身の感想です。
その一つは、このブログを12月から開始したことが挙げられます。
実は、私はブログのような手段で、創価学会について、何かを発信することには、むしろ否定的な考え方をもっていました。
なぜなら、文字のみによる考え方の表明には、どうしても限界があり、直接対面による対話以外に、その真意は伝わらないばかりでなく、むしろ誤解を多く生んでしまうのでは......という疑問ゆえでした。
しかし、リアルな、直接対面による対話には、違う面の限界もあります。特に空間、時間的な制約が大きく、実際に対話の時間をとることは、極めて難しいのが実情です。
事実、私が地元の青年部の皆さんとお話ししたいと思ったとしても、「一体、何の用ですか」といぶかしがられるのがせいぜいでしょう。
対話が重要であるということを痛切に感じながらも、それができる機会のないもどかしさ......悶々とした中で、唱題を重ねていきました。
そうした中、池田先生が私を激励してくださるかのように、「師子は敢然と論戦に挑んでいけ、臆病であってはいけない」「壮年部は青年部の成長に全責任を担っていけ」と連日のように指導してくださいました。
さらに「広布の賢者の壮年部」において先生は、こうも激励していただきました。
「なすべきをなして、コメントは人にまかせろ」
「勇敢なる凡夫という、最高の俳優となって、今世を生き抜いていくのだ」
凡夫である私が出来ることは当然、限られており、ゆえに何かをするのも躊躇が先に立っていたのですが、先生からの叱咤の声が聞こえてきたのです。
「凡夫だからこそ、なすべきことがある。傍観者のような卑怯な壮年であってはいけない、積極的にその力を使い切っていけ」
私は学生部の時に、池田先生に「社会の一隅を照らす存在になります」と決意文をお送りしたことを思い出しました。
その決意をいよいよ果たす時が今なのかもしれない――こういう経緯で私はブログを始めました。
私のブログの目的および趣旨は、問題提起にあります。
師匠が次々と私たちに示してくださる智慧の宝の山を私たちはそれらを誇りとし、意気揚々と前進できているわけですが、正義の前進であるからこそ、普段からの綿密な自己点検・整備を怠ってはならないと思うのです。それなしにスムーズな前進を永続させることはできないわけです。
それは、ブログにも述べさせていただいたように、正しいはずだった宗門の転落劇を挙げるまでもなく、数々の歴史が証明しています。
素晴らしい理念の団体だからこそ、そうした常なる細心の心遣いを怠ることなく前進していかなければ、取り返しのつかない歴史の汚点を残すことになってしまうと思うのです。
そのような歴史の愚を二度と起こさないために最も必要なことが、民衆による智慧なのです。
このことを師匠は、何十度、いや何百度と繰り返し私たちに示してきてくださいました。
そうなんです。私たち民衆が賢明にあって始めて、その愚を愚と見破り、腐敗と転落の宿命を転換できると思うのです。
そうした意味では、私のブログは極めて老婆(爺?)心に満ち、うるさい小舅(こじゅうと)的発想であり、耳障りな物言いなのかもしれません。
しかし、創価学会の世界は多様性に満ちた、まさに桜梅桃李を地でいく世界なわけです。いろいろな人がいてこそ創価学会なわけです。
私のように小舅的で口うるさく、せっかくの勢いある前進に、「少し立ち止まって考えることも必要では」などとおせっかいの言をつぶやく人間が一人くらいはいてもいいのではないかと......。
そんな私ですが、今年1か月間、おつきあいいただきありがとうございました。コメントをつけてくださった皆さん、そしてこのブログを一度でもお読みいただいたすべての皆さんに深く感謝申し上げます。
来年もどうぞよろしくおつきあいのほど、よろしくお願い申し上げます。
皆様にとって、来年が福徳に満ちた素晴らしき1年でありますように、心よりお祈り申し上げ本年の締めくくりとさせていただきます。
タグ:
【日常】
※このブログは以下のブログポータルに参加しています。
<日本ブログ村>
<ブログランキング>

その一つは、このブログを12月から開始したことが挙げられます。
実は、私はブログのような手段で、創価学会について、何かを発信することには、むしろ否定的な考え方をもっていました。
なぜなら、文字のみによる考え方の表明には、どうしても限界があり、直接対面による対話以外に、その真意は伝わらないばかりでなく、むしろ誤解を多く生んでしまうのでは......という疑問ゆえでした。
しかし、リアルな、直接対面による対話には、違う面の限界もあります。特に空間、時間的な制約が大きく、実際に対話の時間をとることは、極めて難しいのが実情です。
事実、私が地元の青年部の皆さんとお話ししたいと思ったとしても、「一体、何の用ですか」といぶかしがられるのがせいぜいでしょう。
対話が重要であるということを痛切に感じながらも、それができる機会のないもどかしさ......悶々とした中で、唱題を重ねていきました。
そうした中、池田先生が私を激励してくださるかのように、「師子は敢然と論戦に挑んでいけ、臆病であってはいけない」「壮年部は青年部の成長に全責任を担っていけ」と連日のように指導してくださいました。
さらに「広布の賢者の壮年部」において先生は、こうも激励していただきました。
「なすべきをなして、コメントは人にまかせろ」
「勇敢なる凡夫という、最高の俳優となって、今世を生き抜いていくのだ」
凡夫である私が出来ることは当然、限られており、ゆえに何かをするのも躊躇が先に立っていたのですが、先生からの叱咤の声が聞こえてきたのです。
「凡夫だからこそ、なすべきことがある。傍観者のような卑怯な壮年であってはいけない、積極的にその力を使い切っていけ」
私は学生部の時に、池田先生に「社会の一隅を照らす存在になります」と決意文をお送りしたことを思い出しました。
その決意をいよいよ果たす時が今なのかもしれない――こういう経緯で私はブログを始めました。
私のブログの目的および趣旨は、問題提起にあります。
師匠が次々と私たちに示してくださる智慧の宝の山を私たちはそれらを誇りとし、意気揚々と前進できているわけですが、正義の前進であるからこそ、普段からの綿密な自己点検・整備を怠ってはならないと思うのです。それなしにスムーズな前進を永続させることはできないわけです。
それは、ブログにも述べさせていただいたように、正しいはずだった宗門の転落劇を挙げるまでもなく、数々の歴史が証明しています。
素晴らしい理念の団体だからこそ、そうした常なる細心の心遣いを怠ることなく前進していかなければ、取り返しのつかない歴史の汚点を残すことになってしまうと思うのです。
そのような歴史の愚を二度と起こさないために最も必要なことが、民衆による智慧なのです。
このことを師匠は、何十度、いや何百度と繰り返し私たちに示してきてくださいました。
そうなんです。私たち民衆が賢明にあって始めて、その愚を愚と見破り、腐敗と転落の宿命を転換できると思うのです。
そうした意味では、私のブログは極めて老婆(爺?)心に満ち、うるさい小舅(こじゅうと)的発想であり、耳障りな物言いなのかもしれません。
しかし、創価学会の世界は多様性に満ちた、まさに桜梅桃李を地でいく世界なわけです。いろいろな人がいてこそ創価学会なわけです。
私のように小舅的で口うるさく、せっかくの勢いある前進に、「少し立ち止まって考えることも必要では」などとおせっかいの言をつぶやく人間が一人くらいはいてもいいのではないかと......。
そんな私ですが、今年1か月間、おつきあいいただきありがとうございました。コメントをつけてくださった皆さん、そしてこのブログを一度でもお読みいただいたすべての皆さんに深く感謝申し上げます。
来年もどうぞよろしくおつきあいのほど、よろしくお願い申し上げます。
皆様にとって、来年が福徳に満ちた素晴らしき1年でありますように、心よりお祈り申し上げ本年の締めくくりとさせていただきます。
タグ:
【日常】
※このブログは以下のブログポータルに参加しています。
<日本ブログ村>
<ブログランキング>
